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2014年1月28日 火曜日 雪のないヘルシンキ
1月も終わろうとしていますが、2日から、フィンランドへ行っていました。積雪ゼロ、気温がプラスという1月のヘルシンキを、私は今まで訪れた中で、初めて味わいました。防寒対策を完璧にスーツケースに詰め込んで、出かけたものですから、拍子抜けです。 今回は、久々に、社員、協力会社、友人を伴っての大人数の旅でした。いつものように、取引先の工場を訪れるのが、一番の仕事なのですが、もう一つ、昨年亡くなった古い友人の墓参りを、しなくてはという、思いがありました。御主人から、昨年、お会いした時、墓地の住所を教えてもらってはいたのですが、時間がなく延び延びになっていました。ヘルシンキバンター国際空港のあるバンター市に墓地はあるのですが、近くの駅まで近郊電車で向かうことにして、ヘルシンキ駅へ行ったのですが、機械に向かってカードで支払う切符の買い方が、今一つ理解しがたく、窓口へ戻り順番札を取ってまちました。Tikkurila往復と告げると、往復を買うと座席指定になって、高くなるから片道の方が良いと言われて従いました。すぐだと思って乗ったのですが、20分程かかりました。駅について、タクシーに乗って墓地の場所を告げると、少し難しそうな顔で、車が動き出しました。確かに、日本でも知らないところのお墓参りは難儀します。大きな墓地で、幹線道路を挿んで左右にあります。左側が新しい地区ということで、何度も地図を見ながら、車の進入禁止を無視して-ひょっとしたらタクシーはよいのかもしれませんが-どんどん奥へ向かいます。前に頂いた墓石の写真を見せると、さすがフィンランド人、ぐるーっと一望して、多分あれだと、指さしました。半信半疑で近づくと、素晴らしい正解です。もし、見つからなくても墓地まで行ったことで、勘弁してもらおうと思っていたのですが、そして、雪に埋もれてわからないかもしれないと思っていたのに、暖冬が役に立ちました。多分、クリスマスに家族がいらしたであろうローソクがいくつもありました。 待っててもらった、タクシーに乗ると、次回は、最後の門を左に曲がって最初の道を右にと、道順を丁寧に教えてくれました。同じ駅に戻ってと告げると、切符を持っていないなら、窓口のある側へと車を向けてくれました。親切にしてもらって、助かりましたと言うと、やさしい笑顔で手を上げて去っていきました。駅で切符を買ってホームで待つと通過列車です。 いかつい、モスグリーンと青色の長い長い寝台列車でした。お墓に眠る吉崎さんも、私たちも40年前、シベリア鉄道を通って、モスクワからこの列車で、ヘルシンキへ向かったのです。
2013年12月5日 木曜日 サンタクロースの住むフィンランド
私が、初めてサンタクロースに会ったのは、1974年です。子供のころ、クリスマスの朝、起きると枕元にプレゼントが置かれていて、寝ている間に、サンタさんが届けてくれたと思っていました。北海道は、当時、各家庭に煙突があったので、サンタさんの入り口は、確かにありました。小学生も、高学年になると、みんな夢から覚めてしまいます。 ところが、フィンランドではサンタクロース村が、北極圏に存在して、北緯68度、標高483Mのコルバ山(korvatunturi)に住んでいるのです。クリスマスイブの日、良い子の家庭には、サンタクロースが玄関から、いっぱいのプレゼントを持って、入ってくるのです。 私が、訪れた家庭は、1971年にフィンランドを旅していて、親切にしていただいたイマトラ市(IMATRA ロシアとの国境の町)の家族で、1974年ヘルシンキ大学留学中に再訪した時のことです。もうすぐサンタクロースが来ると告げられ、半信半疑で待っていると、少し本物らしくないサンタクロースが、本当に玄関から入ってきました。でも、子供たちは、真剣です。「良い子にしていたかな」というサンタの問いかけに、緊張気味に答えると、サンタさんへのお礼の歌を子供たちで合唱、とても良い光景です。もう一つ驚いたのは、子供たちだけでなく、家族でそれもたくさんの、プレゼントを交換することでした。なんと、私の分まで用意してくださったことには、感激でした。 私が、今まで、永くフィンランドと関わって来ることが出来たのは、そして、こよなくフィンランドを好きでいられるのは、この家族の存在なくしては、考えられません。帰国した後、再度クリスマスにフィンランドを旅した時は、鉄道が夜の8時には、終了してしまい、最寄り駅で下ろされてしまいました。日本のお正月以上に、長距離列車さえ、交通機関等、早々と終わってしまうのです。どうしたものかと駅で考えていると、通り掛かりの家族が、今、ちょうど家にサンタクロースが来るところだから、一緒にどうぞと誘われ、暖を取らせていただいて、別の家庭のクリスマスも体験することが出来ました。さらに、私の知人に連絡まで取ってもらいました。知人は、100Km以上の凍てつく雪原の道のりを苦にもせず、迎えに来てくれたのです。フィンランドのクリスマスは、みんな故郷に帰るからヘルシンキのような都会は、空っぽになるんだと説明を受けて、納得です。 又、クリスマスには、まるで日本のお盆のように、先祖の墓参りをします。積雪は、さほど多くないので、墓地には、多くの家族が訪れます。暗闇の白い世界がキャンドルの明かりで美しく輝いています。 今年のクリスマスもフィンランド各地で、キャンドルが冬の夜長を照らしているとおもいます。
2013年11月1日 金曜日 11月のフィンランド
私は、仕事の打ち合わせに、よく11月にフィンランドを訪れます。過去のスケジュールを見てみると、2007-2009年は、11月です。12月、1月の年もよくあります。 フィンランドへ旅行したいという方に問われれば、10、11月は、絶対にお辞めなさいと迷わず答えます。天候は悪く、冷たい雨が降り町全体が、グレー一色の感じです。とても観光で町を散策する気分にはなれません。ちなみに、11月上旬の日の出は、午前7時台後半、下旬では8時台後半、ピークの12月末では、9時20分台です。日没は、4時半位からどんどん早くなって12月には3時15分台です。性格の明るい方でも、この時期フィンランドを訪れると、気持ちが落ち込んで、良い印象を持ってもらえない気がします。カップルでの旅でしたら、近年地下街は増えていますし、中庭の天井をガラス張りにしたおしゃれなモールも多くなってきていますので、ショッピングは、楽しくできるかもしれません。 同じ暗くても、12月に入りますと、クリスマスデコレーションが町全体を埋め尽くし、通りにもイルミネーションが輝き、少し街が明るくなります。何といっても、人々の表情が明るくなります。ですから、11月は、観光のシーズンではありません。私の場合、仕事の打ち合わせは、クリスマスで浮かれ始める前に、打ち合わせをしたほうが、翌年のスケジュールを組みやすいので、この時期が多いかもしれません。 時折、北へもこの時期足を伸ばします。サンタクロース村のある、ロバニエミへも仕事の取引先があるので訪れるのですが、私の子供が、小さかったときは、サンタクロース村からサンタさんの手紙を子供たちへ出してもらうために、よく通いました。 ヘルシンキと違って、ロバニエミは、完全に冬の世界です。車の運転も、冬道走行です。ただ、フィンランドは、今もスパイクタイヤの使用が認められているヨーロッパでも数少ない国です。カーブでの安心感は全然違います。でも、その調子で日本へ帰ってきて運転すると大変なことになりますので、あくまでも、スタッドレスタイヤ走行のイメージで運転します。 町中は、外灯もありますので、さほど違和感はありませんが、郊外へ行くと-すぐ郊外ですが-本当に闇の世界です。遠目のヘッドライトが、ただ白い永遠に続いているかのような、道を照らします。この静寂、いかにもフィンランドにいるんだという実感がして、私は結構好きです。 フィンランドで、冬道のならし運転をスタートさせて、本格的な冬の運転を北海道で始めるのも北国の人間には、良いリズムかもしれません。
2013年10月11日 金曜日 ピュサッキ 停留所 PYSÄKKI
夏が終わり、北欧は再び厳しい季節が始まろうとしています。夏にはさほど、気にならない停留所での待ち時間ですが、寒さが増してくると苦痛以外の何ものでもありません。 ヘルシンキ市内だけで、市電路線9系統、143停留所、それに多数のバス路線、バス停留所があります。私は、市電はよく利用するので、乗り遅れても、次のを待とうという気持ちになります。バスは、路線が複雑で行き先等、定かでないとなかなか、乗る勇気がありません。まして降りる停留所の位置が、知っている所でない限りかなり不安です。どこで降車のボタンを押そうかと真剣になります。 地方へ仕事で出かけるときなど、空港からレンタカーを使うことが多いのですが、時々スケジュールの関係でバスを利用することもあります。町の中心部へ入ったのはわかるのですが、初めてのホテルなど地理感がないときは、けっこう心配です。 過去に2度ほど終点まで連れていかれたことがあります。もちろん乗車の際に、運転手さんには、目的地のホテル名と住所は伝えてありました。明らかに景色を見ていておかしいとは思うのですが、いかんせん運転手さんからの合図はありません。終点で後ろを振り返り、まだ乗っていたのかという顔をされて、「悪い悪い、出発まで10分あるから、乗っていていいよ。帰りは、間違いなく教えるから」こんな調子です。一度はノキアが華やかだった時代、オウル郊外の出来たばかりの研究棟の連なる地区を、観光バスのように楽しく見させてもらったときは、乗り過ごしも役に立つなあと思いました。 話を戻しますが、ヘルシンキでは、最近市電の停留所だけでなく、バスの停留所も全て次のバスの到着予定時間が表示されています。これは大変便利だと思います。寒空で待つ時間は特に長く感じられますから、これは素晴らしいサービスだと思います。 フィンランドは、人口に対して国土は広いですし、もちろん車社会です。ですが、最近鉄道網の質の充実を感じますし、公共交通機関の取り組みも人間的な尺度を感じます。北海道も停留所一つから取り組んでいただきたいものです。
2013年8月5日 月曜日 ファッツェルFAZER
フィンランドの人々は、お酒もよく飲みますが、甘党の人がとても多いです。そのせいかどうか、チョコレート、ケーキがとてもおいしいのです。乳製品の豊富な、この国のアイスクリームも例外ではありません。 私の知り合いが、米国の留学を終えて、帰路ヨーロッパ経由で日本へ帰るとき、フィンランドへ立ち寄った時、ケーキのおいしさに感激していました。アメリカで、こんなおいしいケーキを食べたことがない。大きさだけの甘いケーキとは、比べ物にならないと。 チョコレートの中で最も有名なものは、何といってもFAZERの青いラベルのミルクチョコレートshininen maitosuklaataシニネンマイトスクラータ です。市中では、一枚200gで売っていますが、飛行場の免税店等では、250gの大きなサイズを買うことが出来ます。私の家族、友人は、皆このチョコレートが大好きで、出張の帰りは、お土産としてスーツケースにいっぱい詰めて帰ります。4枚で1kgですので、重くてたいへんです。仕事の資料の何倍もの比重を占めます。 このFAZER、フィンランドを知らない方は、多分ファッツェルとは、読めないと思います。創業1891年の歴史のある会社です。青いラベルの板チョコは、1922年からの製造ですから、90年以上のロングセラーです。ピンクのラベルのゲイシャチョコは、1962年から、最近はベリーのヌガーが入った箱型パッケージのチョコ、高級感があってお奨めです。ブルーベリー、ラズベリー、リンゴンベリーの3種類あります。 市の中心部には、昔から直営店カフェ、レストランがあります。ヘルシンキ大学本館の通りの1本西側のKluuvikatuクルーヴィカトゥ 3にあります。遠い昔、学生のころ、普段は、学食で食事の後コーヒーも安いので同じく済ませるのですが、受講1ヶ月記念、何記念と名付けては、学校帰りに友達と立ち寄りました。 今年の春も、ヘルシンキの古い友人と会ったときは、ここでコーヒーを飲みました。相変わらずいつも人でいっぱいでした。ヘルシンキの人々も、新しショッピングモールは、次々出来ているのですが、ここが好きみたいです。車が制限されていますので、窓越しに人の流れを見ているだけでも、時が過ぎていきます。夏場は、外にもテーブルが並びますのでより快適です。 古い店が変わらずあるということは、ヘルシンキ中心部がどんどん新しくなっても、昔の記憶と溶け込める、安らぎを覚えます。
2013年7月5日 金曜日 国会議事堂
ヘルシンキ中央駅近く、市内を貫くマンネルヘイ厶通りに面して、フィンランドの典型的な赤御影石を使って国会議事堂は建っています。 1931年完成のS.Jシレン設計になる、14本の列柱が正面を飾る、いわゆる北欧古典主義の建物です。国会議事堂の建設は1917年の独立の前から計画されていて、当初は、別の敷地で中央駅、国立博物館の設計者サーリネンが、コンペで当選していたそうです。独立後、1924年再び設計コンペでシレン等3人が当選しました。その後1927年から31年の完成に至までシレン1人が本設計に関わりました。私が、大学生活をしていた時期1974年から76年には、すでに増築工事が始まって1978年に完成しています。 列柱の外部は階段になっていて、いかつい警備がされているわけではありませんが、大聖堂と雰囲気は似ていますが、高さもあまりなく、観光客でにぎわうこともありません。数年前、この階段が 花で埋め尽くされたことがあります。ノルウェー国王がヘルシンキを訪れた時の、歓迎の一環だったそうです。その後、市民が多数訪れ、花々を手に帰りました。さすがにこのときは、観光客ならぬ、ヘルシンキ市民で、にぎわっていました。フィンランド政府の後片づけを兼ねた、粋な計らいだったようです。 国会議事堂の内部は、もちろん申し込めば見学が可能です。増築、本館改修工事を終えた内部を、私は一度だけ入ったことがあります。当時、フィンランド外務委員会の国会議員団が、日本を訪れ北海道へもいらしたのですが、その返礼で、名誉領事のお供で、外務委員会主催の昼食会へ招待されました。その後、幾度か外務大臣、農林大臣に、お会いしましたが、威張った国会議員には、会ったことがありません。 フィンランドの国会は一院制でが、首相、大統領がいます。大統領は、国民投票で、任期6年です。国会議員は総数200名(比例代表制)任期4年です。政党が単独過半数を得ることはなく、いつも連立内閣です。 皆さん御存知のように、フィンランドは、教育レベルが世界でもトップクラスです。ですが、国会議員の選挙は、名前を書くのではなく数字です。字を書けない人への配慮では当然ありません。政策も、展望も述べることなく、自分の名前を連呼する、うるさいだけの選挙と比べてみてください。数字を連呼する政治家がいたら、漫才ですよね。名前は、しがらみから逃れられないかもしれません。世界1、2の汚職のない国会議員、これも皆さん魅力ですよね。
2013年6月7日 金曜日 ヘルシンキ駅周辺再開発
ヨーロッパは、景気の低迷で建築需要も落ち込んでいます。フィンランドは、ヘルシンキに限って言えば、盛んに都市の再開発が行われています。当時ドイツが統一された、復興のベルリンまでの活気はありませんが、現在のヨーロッパでは、一番の大きなプロジェクトだそうです。 コラム30で紹介のkampi(カンピ)地区に続き、駅裏の操車場のあった地域の再開発が盛んに行われています。 ここの中心地再開発計画は、そもそも1958年4月にヘルシンキ市都市計画局から、発表され1959年から64年にかけて基本プランがねられました。TÖÖLÖLAHTIトーロ湖(湾)を囲んでアールトは、文化センター、音楽堂、議事堂を配置する案をまとめています。当時としては斬新な人口地盤、幹線道路の立体交差が見られます。当時の経緯を私は、詳しくは、知りません。只、このプランのコンサートホール(フィンランディアタロ)だけが、計画時と変わらぬ姿で存在しています。少し離れてオペラハウスも設計者は違いますが、時を経て建設されました。この都市中心部再開発計画時に、KAMPIの再開発も含まれていましたから、やはり偉大な都市計画の第一人者だったのかもしれません。 この地区、今年の春訪れたときにすでに、音楽堂は完成間近ですし鉄道の幹線沿いに、続々と公共施設、事務所ビルが完成に向けて工事が進んでいます。一年で、こんなに建物が目に見えて増えるものかと感じます。 古くからヘルシンキに住む人々は、この変化を必ずしも快く思っていないようです。どんどんヘルシンキらしさが消えていくと。確かにそうなのかもしれません。外壁が、石、レンガに変わってガラスとメタルの建物が増え続けているのですから。でも、古い建物が多く消えていっている訳ではありません。私は、ポイントの押さえ方がじつにうまいと思っています。仮に30年ぶりに旅行者がヘルシンキを訪れたとしても、充分に昔を懐かしむことが出来るし、昔を思い出して町を散策しても記憶がよみがえると思います。いわゆる、ヘルシンキらしい中心部の建物は、ほとんど残っています。 ロの字型の建物の 中庭の空間に、ガラスの天井がついて、ビルとビルが回廊でつながったり、既存の建物も、新たに生まれ変わろうとしているみたいです。壊すことより、生かすことに知恵を発揮しているようです。 残念ながら、日本と同じで首都集中が、顕著なフィンランドですから、このような積極的な再開発が行われているのは、ヘルシンキだけというのは、否めないことです。アールトが、地方都市の再開発にも力を注げた時代とは異なることを感じます。
2013年5月1日 水曜日 STOCKMANN書店
北欧で最大級の書店、アカデミック書店(akateeminen kirjakauppa)が、今年開業120年を迎えました。日本では、数多くの書店が有りますが、フィンランドでは、書店といえばここです。私も、学生時代から、参考書、辞書等、書籍を買おうと思うとここへ、迷わず向かいました。19世紀の開業当初は、もちろん独立前の時代です。1910年から1929年までは、商業地区のメインストリート、アレキサンテリン通り7番地、現在ヘルシンキ大学の通り(Fabianin katu)と交差する所に有りました。1930年からは、ストックマンデパートの1階に店舗を移します。 1968年、アルバーアールトの設計による、鉄筋コンクリート、外装メタルカーテンウォール6階建ての書店専用のビルがストックマンデパートと通りを対峙した(Keskusukatu)場所に完成、現在に至っています。 隣のビルは、私の好きな、中央駅、国立博物館等の設計者エリエルサーリネン1921年竣工の当時銀行のビル、さらにその隣は、同じくアールトの設計による、ストックマン書店と同じ外装の1954年に鉄鋼連のビルが同じ高さで連なっています。鉄鋼連盟のビル(RAUTATALO)は、当時とても奇抜なデザインで、エントランスホールは、アールトが好んだ白大理石で天井照明が柔らかくそそぐ、3層の吹き抜けになっています。これは、ヴィプリの図書館で使用した方法ですが、さらに発展させて、ストックマン書店では、白大理石の3階までの吹き抜け、さらに天井から自然採光を取り入れています。書店は、決して大きなスペースではないのですが、1階は一般書籍、エスカレーターを昇っていくと2階吹き抜けの回廊は専門書、語学書と分かれています。3階はギャラリーも併設されています。 2階のカフェ、アールトは、椅子、照明はもちろんアールトのデザインです。吹き抜けから、コーヒーを飲みながら見る書店もいいものです。映画、「カモメ食堂」でガッチャマンの歌詞を主人公が教えたところもこのカフェです。地階は、文房具売り場となっています。 地図、書籍等、日本の視点とは異なったものも有りますので、違いを楽しみながら、旅の途中に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
2013年4月3日 水曜日 KAMPPI礼拝堂
コラム30で以前紹介した、KAPPI(カンッピ)地区に昨年6月礼拝堂が、竣工しました。そういえば、フィンランドを訪れた前回大きな仮囲いを思い出しました。完成した礼拝堂を見て、仮囲いの板張りの意味を理解しました。フィンランドは、実に木の使い方が上手だと思います。同じ木の文化を持つ日本ですが、フィンランド人の木に、対するセンスにはいつも感嘆です。 板張りの、高さ11.5M、オーバルの独特の外観は、どう見てもKAMPPIの広場に置かれたアート、モニュメントとしか思われません。外部の細い板張りは、フィンランドの森に多く成育するKUUSI(樅に近い樹種)の合板です。広場のビル群へ向かう連絡通路のようなエントランスを入ると、いかついガードマンが立っていて、思わず中を見れますかと尋ねると、明るく、もちろんとやさしい返答がありました。内部の礼拝堂は、内壁、椅子、ドア等すべて集成材が使われています。特にドアに関しては、これでもかという厚さです。オーバルの壁と天井の隙間の空間からは、自然光が、柔かく内部空間を照らしています。椅子は50席程で、本当に小さな空間です。エントランス等を入れて延べ床面積は352㎡しかありません。 でも、設計者 K2S-Kimmo,Niko,Mikkoの3人のフィンランド人の設計意図が充分に伝わってきます。 規模、材質は岩の教会の名で親しまれているテンペリアウキオ(コラム19)と、全く異なりますが、ヘルシンキ市内の新たな教会として注目をあびそうです。
2013年3月19日 火曜日 フィンランド鉄道150年
1年ぶりのコラムです。先週、フィンランド出張より戻りました。2年ぶりの列車による移動です。今年、フィンランド鉄道は、150周年だそうです。独立が1917年ですから、さらに50年以上前から鉄路はあったということですね。 2年前より運賃がずいぶん上がっているのと、飛行機の航空券のように買う時期によって価格が変動するのには驚きでした。フィンランド人は、車で移動する人が多いはずなのに、新しい列車が、どんどん投入されているのも不思議な感じです。昔は、共産圏を思い浮かべるほどの、重厚な列車と赤さび色のような暗いカラーリングでしたが、流線型の車両や、鮮やかな色彩が目を引きます。広広軌鉄道のうえ、ロングレールで敷かれていますので、乗り心地は素晴らしく、今回も快適な旅でした。 寒波というほどの寒さではなかったのですが、乗換駅での接続列車の10分遅れは、少々、吹きさらしのプラットホームで待つには、辛いものが有りました。待ち時間を利用してホームを散策してみると町中の線路を通り抜ける地下道と兼用になっていて、歩道、自転車道、ホームからのエレベーターと、人には優しい配慮がなされていました。ただ、目的地からの帰りの駅は、小さな古い駅で、駅舎は有るのですが、合理化で駅としての機能はなく無人で、発券機は、外のホーム脇に有りました。老夫婦が、難しそうに機械とにらめっこをしていました。どこの国でも、年寄りは暮らしにくくなっているのでしょうか。