2016-03 トラム沿線
週末、ヘルシンキでぶらりとトラムに乗りました。2日券(12€)を買っていたので、市内の市電、バス、地下鉄、鉄道は乗り放題です。乗り間違えたら、降りればよいだけですが、結構路線は複雑です。昔は、ライン3のみがTとBで市内を内回り外回りの感じでしたが、現在は、2と3が引き継ぎ、鉄道の次の駅Pasilaパシラ付近で7がABで巡回するなど乗り慣れていないとけっこう難しい。系統は、1,2,3,4,6,7,8,9,10の9路線です。町の中心部でも、何年かすると平然と線路が変わるので、これには驚きです。ただ実にきめ細やかに走っているのには感心させられます。町並みにトラムは似合います。特に古い建物が背景ですと絵になります。ヨーロッパの多くの都市がそうですが、鉄道駅を降りると駅前にはトラムが走っています。旅をしていることが実感できる風景です。同じ鉄路のつながりを感じるからでしょうか。
数年前、トラム(raitiovaunu)No 8でアラビアのショップを訪れた時は工事中でアウトレットの入り口が複雑でしたが、現在は、昔のアラビアの工場の煙突の建物の横が、ガラス張りのエントランスとなっていて煙突さえ見つければすんなり入場できます。建物にしるされたARABIAの文字と煙突を見るだけでとても懐かしさを覚えます。
現在は、イーッタラ傘下ですのでアラビアでも何でも買えますが、昔、アラビアの工場の時は、アラビアの食器がメインでしたから、知人の紹介で、内部の窯、絵付け製作現場等々を隅々まで説明してもらい、とても楽しく見て廻る事が出来たことを覚えています。帰りがけに正規の食器は当時、高くて買えないので、セカンドメイドを思い切って買いました。大学の学生寮での生活で、アラビアの食器で食事をしていると、フィンランドへ来ているという実感がわいてきたものです。その食器類は今でも健在で、新しい食器と混在で使っています。パラダイス絵柄のマグカップは、一度柄が取れて自分で修理したので使えますが、棚に飾ってあります。40年以上前のものですが、現在でもパラダイスのシリーズは、人気があって製作が続いています。時を超えて共有できる器は素敵ですね。
今回は、特に食器を買う予定もないので、またトラムに乗って、景色を楽しみながら中央駅方面へ向かいました。
2016-02-2 久々のフィンランド 3
いつもは忙しく動き回るフィンランドですが、用件が全部片づいたので週末は、ヘルシンキで過ごすことができました。ゆっくりと市内を散策するため、ホテル正面からtöölönlahtiトゥーロ入江沿いを一廻り、オペラハウスもゆっくりと見て歩き、対岸の木造3階建ての石造建築財団の横を通って、ヘルシンキ中央駅へと歩きました。駅のエリアは大幅に変化が見られます。
私は、ヘルシンキという町は、何十年ぶりに訪れても、古い建物はしっかりと残っていて、昔の旅情を思い出させてくれるとても良い町と、いつも言っていました。駅舎から正面の扉を出ると、確かにビルは昔のままに存在しています。レヴェルのフィンランドでは珍しいコルビジェの影響を受けたセンタービル、石造りのセウラフオネホテル確かにそのままです。駅舎のホームにガラスの屋根がかかっても特に違和感はありません。中央郵便局が建物だけになり、マンネルヘイム将軍像の横に現代美術館、新聞社のガラス張りビルまでは、都市の活性化のためには、仕方のないことと思っていました。でも、貨車の操車場が消え、その跡地に次々とビル群が立っています。音楽堂が完成し、次は中央図書館、事務所ビル群と駅の西側だけを見たら、昔ののどかなイメージは全くありません。東京から比べたら人口5,60万の都市の変化など微々たるものかも知れません。でも、ヘルシンキ中央駅を出発しての車窓の景色は、のどかな出発風景から、ほんのわずかですが、ビル郡を抜ける中部ヨーロッパの都市と変わらないものとなってしまいました。
今を生きる人々の生活が優先で、一時の旅情などに口を挿む資格はないのかも知れません。昔、アールトが提示したヘルシンキ中央駅一体の都市計画が、奇抜でヘルシンキ市民に賛同を得られなかった事が、思い出されます。どちらが良いというのではなく、人工的ではない空間が、より多く存在していたのは、歴史の皮肉なのでしょうか。
少しがっかりしながら、街を港に向かって歩くと、依然町並みは、古い建物をしっかりと残し存在していて、私の気持ちをまた、なごませてくれました。
2016-02 久々のフィンランド 2
Ranua
ロバニエミ ノルバ湖岸
プダスヤルビ町を出発して、主要道78号線を北へ70Km、雪はしんしんと降り続いています。ラヌアで休憩、この町には少しユニークな自然動物園があります。動物の生活圏を守るため、熊には熊のストレスを感じないスペース、トナカイにもトナカイに合った敷地が与えられています。見学者の立場ではなく、動物のたちの生き方を見させてもらう感じです。ですから、動物園なのにお目当ての動物が見れないこともしばしばです。 さすがに、冬は閑散なのでしょうね。スノーモービルサファリの施設が加わって衣替えしていました。
休憩をとってさらに北へ80Km有名なサンタクロース村のあるロバニエミ市へ到着です。昨年はサンタクロース村倒産かと紙面をにぎわせました。ロシアの景気の落ち込みでロシア観光客が激減したからです。幸い新しいスポンサーが表れて一難は去ったようです。これからこの町は、多くの観光客でにぎわいます。もちろんオーロラを見るためのツアー客です。特に、日本の方は本当にオーロラが好きですね。
私はいつも、この町ではホテルを取らずに、友人宅へ泊まります。町には大きな川が2つ流れていますが、さらに北極圏寄りにNorvajärviという湖があります。車で20分程の湖沿いに、彼の大きなログハウスの自宅があります。1人の時は、いつもわが家に泊まれと言ってくれる古くからの仕事付き合いも長かった友です。今は、自分の会社を弟に譲って、夏場は300Kmも北のコテージで御夫婦で生活しています。昨年は川で、合計230Kgほど鮭を釣ったそうです。フィンランド人は、釣三昧、狩三昧と大きな会社を経営していても定年となると、いとも簡単に会社を辞めて趣味の世界へ入っていきます。家族に粗大ごみ扱いされることなく、趣味の時間が、生活そのものになって生きていく余裕でしょうか。自然との関わりを大切にしてきた国民性なのでしょうか。自然に恵まれていることは確かですが、生き方は、幼い頃から培われてきたモノなのでしょうか。日本では田舎暮らしが、最近さかんに言われていますが、あえて挑戦者たる覚悟を必要としない生き方も、フィンランド人の友人を見ていると一朝一夕で出来るものではないのでしょうね。
2016-01 久々のフィンランドで感じたこと
プダスヤルビ町中
左 給食棟 右 校舎
校舎内ホール
怪我の後、約2年近いブランクのフィンランド出張でした。ヘルシンキ空港から乗り継ぎで、北のオウル市へ飛んで、翌日レンタカーで北東へまず、80Kmの移動です。仕事の忙しかった以前は、月の半分は、毎日運転したなれた道ですが、久々のドライブは、雪の遅かった北海道はまだ冬道になっていなかったので、いきなりの冬道の運転と少し緊張しました。シャーベット状の雪は滑るのですが、フィンランドのレンタカーは、スパイクタイヤなので、少し楽に走れます。
人口8千人ほどの町の郊外に取引先の工場はあります。町の中心部を一回りして、オフィスへ向かいました。近年、ログハウスの仕事は多くないので、社長とは7年ぶりくらいの再会です。合理化の進んだ工場を隅々まで案内してもらってから、工場の食堂で昼食、続いて現在進行中の大きな現場を見せてもらいました。フィンランドで最大というログハウスの建物は、学校で9800m2もあります。
フィンランドも他国と変わりなく、大都市一極集中が進んでいます。特に首都ヘルシンキ及び近郊に顕著です。ですから、田舎の町は、取り残され、人口がどんどん減っていきます。見学させてもらった学校は、 プダスヤルビPudasjärviという町で、現在全フィンランドから注目されています。注目を集めている理由は、点在する小中学校を、国道沿いの町の中心部に集め新校舎をログハウスで建設しています。三翼に分れた校舎で、それに給食センターが併設されています。児童は、バス、自家用車等で通学します。この給食センターは児童への給食はもとより、地域の老人住居、施設への配膳もこなします。
町長が、ユニークな方で老人へのコンクリート施設は、精神衛生上も良くないと、今、町の中心部にこれまたログハウスのテラスハウス(長屋)を新たに何棟も建設しています。
今日本では、過疎化が進み、地方都市では、財政難でコンパクトシティーの取り組みをさかんに言われています。土地にゆとりがある田舎でこそ、
プダスヤルビ町で始まろうとしている計画が、新たな町の行き方として参考になるのではないでしょうか。
2015年4月3日 金曜日 古くて趣のある建築散歩7
昨年は、暖冬で、ヘルシンキ市内は、雪の無い1月でしたが、私にしては、珍しく怪我もありまして、今年は、未だフィンランドを訪れていません。今年もヘルシンキは、暖冬で春を迎えそうです。4月に入りますと、フィンランドの人々はこぞって、外へ出かける季節です。 朝市の開かれる南港へ向かう公園、エスプラナーディーの右手、つまり南側に、7階建ての四角い窓の規則正しく並ぶ2棟のビルに挿まれるように、重厚なグレーの石造りの建物が目に入ってきます。手前の建物は、1階にアールとの家具、artekが入るビル。奥の四角いビルは、最上階にこれ又、アールトの家具、照明が素敵なレストランsavoyがあるビルです。 このグレーの正面中央に、列柱がデザインされた1907-1908年建築のこの建物は、抵当銀行協会で、ヘルシンキ市内に数多く点在するラルス、ソンクの設計です。建設当時左右の建物は、2階建てのオーソドックスなものでしたから、ひときわ存在感を示していたと思います。クラシカルなエレメントを多用したソンクの、当時ヘルシンキを圧巻していたロマン主義がよく表れている全盛期の建物といえます。奥に縦長広がる設計で、2つの中庭片方は、三角の屋根付き地上4階の建物です。現在は、増築年は私は把握していませんが、銅葺きの外観の2階が増築され、両隣の建物とほぼ同じ高さになっています。重々しい木製の玄関扉は、当時を彷彿させ、1900年初頭に時代をさかのぼる感覚です。 ヘルシンキ市内は、再開発が進み現代的なビルが、どんどん建てられています。でも、私が最初に訪れた44年前のヘルシンキ、中央駅を降りて目にする光景は、当時の建物が消えたわけではありません。記憶だけに存在するのではなく、調和をもって古い建物が生き続けています。ですから違和感を持たないで、又、ヘルシンキの町並みに接することが出来ます。 これからの季節、どんどん日照時間が増えていきます。新旧の建物を見ながら、ヘルシンキ市内を散策されることをお奨めします。
2015年3月2日 月曜日 フィンランドから学ぶもの 自然
自然と親しむことに、フィンランド人は実に長けています。多くのフィンランドの人々は、サマーコテージ等を所有しているか、共有していて、週末には、そこで過ごすことが習慣となって、生活のリズムに溶け込んでいます。太陽が輝く季節には、通勤ラッシュならぬ、金曜日の夕方の郊外へ出掛ける車が続き、日曜日の夕方は、都会へ戻る車のラッシュが見られるほどです。 どんなに忙しいフィンランド人でも、夏休みは、しっかり何週間も、取りますから、コテージで自然の中にどっぷりと漬かることが出来ます。親子で過ごす自然との関わり、森を散策したり、ベリーの採取、狩、湖で泳いだり、魚を釣ったり、まき割り、薪の熾し方、親から子供への自然との接し方が、確実に伝授されるのです。 こんな素敵な生き方、フィンランド留学時代から、家族付き合いさせていただいた人々から学びました。会社勤めをやめて、独立してからフィンランドと関わる仕事を始めてからは、一層、仕事の人間関係においても、業務を終えた時間を、自然と親しみながら、狩に出掛けたり、湖で釣を楽しんだり、スノーモービルで何時間も山を駆け巡ったり、フィンランド人の生き方を学ばせてもらった感じです。 日本において、もし、こういう生活を始めたいと思ったら、東京のような大都会では、よほどのお金持ちでない限り不可能ですし、移動する時間がかかりすぎて、せっかくの休みも少なくなってしまいます。その点、北海道でしたら、フィンランド人のような生き方が可能な地域です。自然は、フィンランドと似ていますし、都市部を離れれば、道路も整備されていて土地も安く、広大です。食べ物は、フィンランドよりずっと恵まれています。この絶好の条件を、無駄にすることはありません。私は、随分とこの生き方を北海道の方々に、週末の過ごし方を説明してきました。バブルがはじける前は、ログハウスも北海道で、あちこち建てる方が増えました。しかし、バブルがはじけた途端、景気の悪化と共に自然との関わりも意気消沈でした。 今さらながら、私は思います。フィンランド人は、身の丈に合った生活を自然と共にしています。見えを張って生きていません。それが、自然と暮らすことではないのでしょうか。北海道も東京志向をそろそろやめて、この素晴らしい自然を誇りに生き始めるべきです。 何の成果も上がらない、道政を恥ずかしくもなく又、続けようという指導者は、そろそろ交代してもらって、若者が自信を持って生きていける北海道をつくりだしませんか。
2015年2月3日 火曜日 フィンランドから学ぶもの
私が、フィンランドと関わって今年で44年になります。大学留学でヘルシンキに住み始めてからも、40年以上の歳月が流れました。2年半の大学生活を切り上げて、日本へ帰り、人並に就職してからも、フィンランドとの関わりは続けていて、年末には、飛行機に飛び乗っていました。当時の建築業界は、冬場は決して忙しくなかったので、私の我がままをとおさせてもらえました。そんな私をフィンランドの友人は、いつも暖かく迎えてくれました。自分の設計する家は、北欧のレベルに達していなければ我慢がならず、ついに自分で会社を興すことにしました。何のあてもないけれど、北海道をフィンランドのように生活する環境を作りたかったのです。 最初に動きだしたのは、フィンランドはサウナで有名ということで、家庭にもサウナのある生活を奨めました。そうこうしているうちに、住宅の設計の仕事が、入ってくるようになりましたので、待望の木製サッシ、ドアの輸入を始めました。もちろん販売ではなく、自分が設計した住宅に、木製サッシ取り付けるためです。何せ、外国との商談ですから、当時電話代はものすごく高かったですし、ファックスもレベルが低かった時代です。打ち合わせのための安い飛行機を探して、年1回の出張です。フィンランドの会社の人たちは、こんな小さな会社の小さな商談に、来年又仕事になるかどうかも解らないのに、本当に親切に付き合ってくれるのです。ヘルシンキから離れた会社を訪れたときは、社長宅に泊めてくださったりもしました。大学留学時代より、はるかに広い世界の方々と、つきあわせていただくことが出来ました。 私の、今のフィンランドに関わる知識は、フィンランド人の生き方そのものを、直接生活の中で接することによって教わったものです。 時が流れて、日本がバブル景気という異常な景気に沸き立っていました。例外なく、私の会社もずいぶんと大きな仕事をさせていただきました。でも私は、フィンランド人の生き方を学んでいたつもりです。株価、土地に躍らされて、金もうけを考えるのではなく、フィンランドから学んだ集大成をフィンランドと関わった20年を、フィンランドの文化として形に残したかったのです。 フィンランド人が、週末家族で過ごすコテージ、自然がとても似ている環境の北海道に作ろう。ログハウスで、それも、フィンランド人の憧れのシルバーパインで、フィンランドの文化を伝えよう。 日本中が、リゾートブームでした。私は、北海道中を調べて、最終的に生き残るであろう、リゾート、ニセコに決めました。ブームで終わることのない本当のフィンランド人の週末の過ごし方を北海道の人に知ってもらいたかったのです。
2015年1月8日 木曜日 フィンランドとの関わり 回想5
古都トゥルークの古城を訪れ、町並みを散策した後、まずどこへ向かおうかと思い、第二の都市タンペレを目指すことにしました。日本では、ヒッチハイクなどしたこともなかったのですが、当時ヨーロッパは、若者の旅には寛大というガイドブックを頼りに手を上げてみました。何せ初めての挑戦なので、恥ずかしいような、複雑な心境でした。まさか、一台目の車から止まってくれるとは思いませんでした。7月に入ったばかりで、日は高く順調に移動を続けられました。タンペレでは、タンペレタワー、ピエティラの教会に感動を受け、何も考えずにさらに北へ、北へと向かいました。オウル、ロバニエミへは、ヒッチハイクで順調にたどり着きました。ロバニエミから北は、本当に田舎です。通る車も極端に少なくなります。せっかく乗せてもらっても、次の町までとそれ以上、北へは向かいません。若く元気でしたので、北への道を進んでいると、タクシーが止まりました。私はヒッチハイカーで手を上げただけと、必死で説明しました。笑顔で、帰り道だから乗って行けとのことです。サイレンのなっていない救急車も同様に帰り道に乗せてもらえました。 ヘルシンキから北へ1300Kmもあるウツヨキ迄、ヒッチハイクでたどり着きました。わずか3日の旅です。今度は、南下ですが、ロバニエミからは、当時のソ連との国境東側からヘルシンキを目指しました。カヤーニ、クオピオこの町の図書館のレベルには感心しました。サボンリンナの古城を見学して、フィンランドで一番大きな湖サイマーを見るため、徒歩で旧道を進みました。この湖の一番の景観地プンカハルユの景色にみとれながら写真を取り、歩きました。赤いルノーの親子連れの車が止まりました。「後部座席、小さな子供二人だから良かったら乗りませんか。」声をかけてもらいました。いろいろ話をして、建築を学んでいるなら、私たちの町イマトラをぜひ見たほうが良いと、3泊もさせていただきました。御主人は、全く英語を話せませんでしたが、相手の気持ちを考えてくださる良い方でした。アールトのVuoksenniska 教会をイマトラで知りました。 この後、ヘルシンキ迄、再びヒッチハイクで行き、ヘルシンキからは船でストックホルムに戻ります。 この8日間の旅が、長いこれからのヨーロッパ、北アフリカ、インド、アジアの旅を終えて、日本に帰り後半の大学生活を終えても、フィンランドの大学へ留学しようとの決意を新たにしたと思います。 ヘルシンキ大学へ留学して、最初のクリスマスに、イマトラを訪れ、下手なフィンランド語で御主人(マルクス)と会話が出来たことが、私のフィンランドとの関わりをより一層深めたと思います。
2014年12月3日 水曜日 フィンランドとの関わり 回想4
社員食堂でのアルバイトも1ヶ月が過ぎ、休日は、ストックホルム市内の散策です。当時、私が唯一知っていた、スウェーデンの建築家ラグナーヨストベリが20世紀始めに建てたストックホルム市庁舎を訪れるのが好きでした。今では、ノーベル賞受賞の晩餐会すっかり有名になっていますね。あと、国会の地下一階が、図書館になっていて、誰でも自由に入れました。音楽コーナーで、ヘッドホンでドボルザークの新世界を毎週末聴いていました。社員食堂のチーフから、夜も仕事してみないかと紹介されて、ストックホルム中心部の大通りに面するレストランの、皿洗いの仕事も引き受けました。これも同じく食器を業務用食洗機にひたすら入れる仕事です。夜間勤務は、給料が割り増しになります。土日出勤すると、ほぼ倍額で、しかも食費がまるまる浮きます。今後の長旅を考えると、ここでしっかり稼いでおかなければと思い、かなり無理して働きましたが、毎週では、さすがに疲れるので、時々郊外も見て歩きました。郊外の地下鉄の各駅は整備され、ビル、住宅郡がおしゃれに配置され、幹線道路とは隔たりを持たせ、遊歩道等もあって、都市計画が人間的で、自然との強調は、さすがと思いました。 2ヶ月が過ぎ、貯金も出来て、借りている学生寮もまだ期日には時間があったので、簡単に通り過ぎてしまったフィンランドへ、これから始まる本格的なヨーロッパへの旅立ちの前に、もう一度行ってみようと思いました。 ストックホルムから、フェリーでフィンランドの西、古都トゥルークへ渡りました。今思い返すと、あの時、フィンランドをもう一度訪れようと思わなければ、40年以上続くフィンランドとの関わりが生まれなかったのです。
2014年11月1日 土曜日 フィンランドとの関わり 回想3
ヨーロッパ2番目の国、スエーデンの首都ストックホルム到着です。連絡バスで地下鉄の駅へ、さらにストックホルム中央駅へ向かいました。長期滞在の予定ですので、部屋を借りる算段です。中央駅から地下鉄でわずか3駅Medborgaplatsenのアパートの1室を週単位で、借りることが出来ました。数日観光したら、早速アルバイト探しです。当時は、アルバイトといっても語学も片言の英語しか話せませんから、皿洗いと決まっていました。何社か面接で、スーパーマーケットチェーンの社員食堂への配属が決まりました。当時ですから、週5日、週末は休みです。昼食が近づくと準備です。社員の食べ終わった食器をトレイごと別室へ運びます。皿洗いといっても業務用食洗機へ並べてスイッチを入れるだけです。運ぶ回数は多いのですが、チーフがいい人で、日本人と聞くと親切に仕事の段取りを教えてくれました。 6月に入ると、ストックホルム大学の学生寮が夏期休みで、貸し出されるという情報を知らせてもらい、早速引っ越しです。ヘルシンキからフェリーで到着した港の近くの地下鉄駅Gärdetの近くの9階建ての学生寮です。学生用ですから部屋は狭いのですが、地下に、サウナ、洗濯室が完備していて、快適でした。ここから毎日地下鉄で仕事へ通ったのですが、で感じたことは、1971年すでに各駅は、エレベーターが完備、すでに老人、ハンディキャップの人々にも優しい町づくりだったのです。地下鉄、入り口のステンレスのガラス扉を、必ずといっていいくらい、次の人が見えると押さえて待ってくれているのです。岩盤の国ですから、地下鉄の路線のトンネルは岩肌がむき出しです。駅のホームは岩に吹きつけのアートです。終電になると、洗剤でホームは、きれいに清掃されていました。なんと素晴らしい清潔な国なんだろうと思いました。 ストックホルム中央駅から町の中心部の広場に向かうと、右手には、ガラス張りの近代的な国会が位置して、左手に規則正しく並ぶ5つの近代的なスマートな高層ビル、当時東京でもはまだ高層ビル郡はありませんでした。その奥はノーベル賞のコンサートホールと続いていて、そこでは朝市が開かれていました。食べ歩きという習慣が、あまりなかった日本人には、とても新鮮に見えて、早速まねしたものです。朝市が終わるとブラシ付きの清掃車が走り回りきれいに片づけてくれます。歩道も広くゴミも落ちていないすてきな町並みです。 近年、ストックホルムを訪れた方は、私の表現に違和感を覚えることと思います。地下鉄の落書き、町中あちこちに散乱するゴミ、一言で片づけてはいけないのでしょうが、若者が憧れた、アメリカ、悪い意味でのアメリカナイズが、スエーデンの若者の心にもしみ込んでいきました。歴史を感じることと、新しいものに憧れることは、若者の心には共存出来ないのでしょうか。