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2015年1月8日 木曜日 フィンランドとの関わり 回想5
古都トゥルークの古城を訪れ、町並みを散策した後、まずどこへ向かおうかと思い、第二の都市タンペレを目指すことにしました。日本では、ヒッチハイクなどしたこともなかったのですが、当時ヨーロッパは、若者の旅には寛大というガイドブックを頼りに手を上げてみました。何せ初めての挑戦なので、恥ずかしいような、複雑な心境でした。まさか、一台目の車から止まってくれるとは思いませんでした。7月に入ったばかりで、日は高く順調に移動を続けられました。タンペレでは、タンペレタワー、ピエティラの教会に感動を受け、何も考えずにさらに北へ、北へと向かいました。オウル、ロバニエミへは、ヒッチハイクで順調にたどり着きました。ロバニエミから北は、本当に田舎です。通る車も極端に少なくなります。せっかく乗せてもらっても、次の町までとそれ以上、北へは向かいません。若く元気でしたので、北への道を進んでいると、タクシーが止まりました。私はヒッチハイカーで手を上げただけと、必死で説明しました。笑顔で、帰り道だから乗って行けとのことです。サイレンのなっていない救急車も同様に帰り道に乗せてもらえました。 ヘルシンキから北へ1300Kmもあるウツヨキ迄、ヒッチハイクでたどり着きました。わずか3日の旅です。今度は、南下ですが、ロバニエミからは、当時のソ連との国境東側からヘルシンキを目指しました。カヤーニ、クオピオこの町の図書館のレベルには感心しました。サボンリンナの古城を見学して、フィンランドで一番大きな湖サイマーを見るため、徒歩で旧道を進みました。この湖の一番の景観地プンカハルユの景色にみとれながら写真を取り、歩きました。赤いルノーの親子連れの車が止まりました。「後部座席、小さな子供二人だから良かったら乗りませんか。」声をかけてもらいました。いろいろ話をして、建築を学んでいるなら、私たちの町イマトラをぜひ見たほうが良いと、3泊もさせていただきました。御主人は、全く英語を話せませんでしたが、相手の気持ちを考えてくださる良い方でした。アールトのVuoksenniska 教会をイマトラで知りました。 この後、ヘルシンキ迄、再びヒッチハイクで行き、ヘルシンキからは船でストックホルムに戻ります。 この8日間の旅が、長いこれからのヨーロッパ、北アフリカ、インド、アジアの旅を終えて、日本に帰り後半の大学生活を終えても、フィンランドの大学へ留学しようとの決意を新たにしたと思います。 ヘルシンキ大学へ留学して、最初のクリスマスに、イマトラを訪れ、下手なフィンランド語で御主人(マルクス)と会話が出来たことが、私のフィンランドとの関わりをより一層深めたと思います。
2014年12月3日 水曜日 フィンランドとの関わり 回想4
社員食堂でのアルバイトも1ヶ月が過ぎ、休日は、ストックホルム市内の散策です。当時、私が唯一知っていた、スウェーデンの建築家ラグナーヨストベリが20世紀始めに建てたストックホルム市庁舎を訪れるのが好きでした。今では、ノーベル賞受賞の晩餐会すっかり有名になっていますね。あと、国会の地下一階が、図書館になっていて、誰でも自由に入れました。音楽コーナーで、ヘッドホンでドボルザークの新世界を毎週末聴いていました。社員食堂のチーフから、夜も仕事してみないかと紹介されて、ストックホルム中心部の大通りに面するレストランの、皿洗いの仕事も引き受けました。これも同じく食器を業務用食洗機にひたすら入れる仕事です。夜間勤務は、給料が割り増しになります。土日出勤すると、ほぼ倍額で、しかも食費がまるまる浮きます。今後の長旅を考えると、ここでしっかり稼いでおかなければと思い、かなり無理して働きましたが、毎週では、さすがに疲れるので、時々郊外も見て歩きました。郊外の地下鉄の各駅は整備され、ビル、住宅郡がおしゃれに配置され、幹線道路とは隔たりを持たせ、遊歩道等もあって、都市計画が人間的で、自然との強調は、さすがと思いました。 2ヶ月が過ぎ、貯金も出来て、借りている学生寮もまだ期日には時間があったので、簡単に通り過ぎてしまったフィンランドへ、これから始まる本格的なヨーロッパへの旅立ちの前に、もう一度行ってみようと思いました。 ストックホルムから、フェリーでフィンランドの西、古都トゥルークへ渡りました。今思い返すと、あの時、フィンランドをもう一度訪れようと思わなければ、40年以上続くフィンランドとの関わりが生まれなかったのです。
2014年11月1日 土曜日 フィンランドとの関わり 回想3
ヨーロッパ2番目の国、スエーデンの首都ストックホルム到着です。連絡バスで地下鉄の駅へ、さらにストックホルム中央駅へ向かいました。長期滞在の予定ですので、部屋を借りる算段です。中央駅から地下鉄でわずか3駅Medborgaplatsenのアパートの1室を週単位で、借りることが出来ました。数日観光したら、早速アルバイト探しです。当時は、アルバイトといっても語学も片言の英語しか話せませんから、皿洗いと決まっていました。何社か面接で、スーパーマーケットチェーンの社員食堂への配属が決まりました。当時ですから、週5日、週末は休みです。昼食が近づくと準備です。社員の食べ終わった食器をトレイごと別室へ運びます。皿洗いといっても業務用食洗機へ並べてスイッチを入れるだけです。運ぶ回数は多いのですが、チーフがいい人で、日本人と聞くと親切に仕事の段取りを教えてくれました。 6月に入ると、ストックホルム大学の学生寮が夏期休みで、貸し出されるという情報を知らせてもらい、早速引っ越しです。ヘルシンキからフェリーで到着した港の近くの地下鉄駅Gärdetの近くの9階建ての学生寮です。学生用ですから部屋は狭いのですが、地下に、サウナ、洗濯室が完備していて、快適でした。ここから毎日地下鉄で仕事へ通ったのですが、で感じたことは、1971年すでに各駅は、エレベーターが完備、すでに老人、ハンディキャップの人々にも優しい町づくりだったのです。地下鉄、入り口のステンレスのガラス扉を、必ずといっていいくらい、次の人が見えると押さえて待ってくれているのです。岩盤の国ですから、地下鉄の路線のトンネルは岩肌がむき出しです。駅のホームは岩に吹きつけのアートです。終電になると、洗剤でホームは、きれいに清掃されていました。なんと素晴らしい清潔な国なんだろうと思いました。 ストックホルム中央駅から町の中心部の広場に向かうと、右手には、ガラス張りの近代的な国会が位置して、左手に規則正しく並ぶ5つの近代的なスマートな高層ビル、当時東京でもはまだ高層ビル郡はありませんでした。その奥はノーベル賞のコンサートホールと続いていて、そこでは朝市が開かれていました。食べ歩きという習慣が、あまりなかった日本人には、とても新鮮に見えて、早速まねしたものです。朝市が終わるとブラシ付きの清掃車が走り回りきれいに片づけてくれます。歩道も広くゴミも落ちていないすてきな町並みです。 近年、ストックホルムを訪れた方は、私の表現に違和感を覚えることと思います。地下鉄の落書き、町中あちこちに散乱するゴミ、一言で片づけてはいけないのでしょうが、若者が憧れた、アメリカ、悪い意味でのアメリカナイズが、スエーデンの若者の心にもしみ込んでいきました。歴史を感じることと、新しいものに憧れることは、若者の心には共存出来ないのでしょうか。
2014年10月6日 月曜日 フィンランドとの関わり 回想2
生まれて初めての海外、大学を休学して一年間の海外旅行の始まりです。最初は、ヘルシンキ駅のホテル案内で宿探しです。貧乏学生ですから、当然ユースホステルを希望します。当時は、インターネットもありませんし、高い電話代をかけて予約など考えもしません。満室との返送、いきなり、つまずきました。ヘルシンキのユースホステルは、国立競技場の中にあります。戦後日本が、初めて参加したオリンピックの開かれた所です。次に、駅の近くの一番安いホテルを、探してもらい、地図をもらって、駅を出ました。海外旅行ですから、旅の仕方もわからず、当時最も有名なサムソナイトの重いスーツケースを引いて、きょろきょろしていると、若いカップルが、親切にどこへ行くのかと聴いてくれて、ホテルまで連れていってくれました。スーツケース重いからと言っても大丈夫とホテルまで、持ち続けてくれました。なんと親切な人たちなのだろうと感激しました。 早速、市内観光です。ヘルシンキ市内地図片手に、朝市の開かれている港、元老院広場、大聖堂等、お決まりの観光コースですが、見るもの全てが、新鮮でした。初めて味わったソ連の堅苦しい市内観光とは大違いでした。自由に自分の足で、どこへでも行けるということの素晴らしさを感じました。 建築学科に在籍していましたから、当時有名だった、タピオラ田園都市なるものを、一目見ようとバスセンターの窓口で教えてもらい、早速バスに乗車です。ここは、ヘルシンキ市の西隣、エスポー市にある地区です。自然環境の中に、職住近接という理想都市を目指し、フィンランドの有名建築家が多く参画してのスケールの大きなプロジェクトでした。タピオラセンターの最上階からの展望は、素晴らしいものでした。 ヨーロッパ長旅の始まりですので、長いは出来ません。昼食をとるにも、食べ物が高いのに驚きました。当時の日本のように、安く食べる事が不可能に思われました。このままでは、所持金がすぐになくなる不安がよぎりました。ヨーロッパの最初の玄関口ヘルシンキを、早々に出発して、次の目的地ストックホルムへ向けて、カーフェリーに乗船です。いろいろな資料から、ストックホルムでは、英語の学生証を持っていれば、アルバイトが容易にできるということでしたので、次は、ストックホルムと予定を立てていました。ヘルシンキとストックホルムを結ぶカーフェリーは、青函連絡船とは、ケタ違いの大きさでした。節約のため当然デッキクラスでしたが、ストックホルムへ近づくと、大きな船が、島々を縫うように進むのに見とれていました。
2014年9月11日 木曜日 フィンランドとの関わり 回想1
不注意による怪我で、入院、闘病としばらくコラムを休んでいました。死んでいてもおかしくない、大けがでしたが、当人にその時の記憶がないので、術後の体の変化が、理解できず、ひたすら回復に執着していました。今更、変かも知れませんが、私と、フィンランドの関わりを振り返ってみます。 1971年、4月18日、当時は、航空運賃も、高額でヨーロッパへの便数も限られていて、若者の選択は、横浜港からシベリア鉄道経由でヨーロッパにたどり着くのが普通した。ソ連の船、バイカル号、青函連絡船より一回り小さな船です。乗船すると明らかに日本の匂いではない船内、出港してから一泊して、右手に北海道、左手に下北半島の津軽海峡を通過して、2泊3日でようやく、当時のソ連、ナホトカ港へ到着です。 シベリア鉄道へと続く寝台列車に乗って翌日、ハバロフスクの駅で下車、シベリア鉄道を全線使うと、かなりの長旅になってしまうのでハバロフスク、モスクワ間は、アエロフロートの国内線を利用するのが、これもヨーロッパを目指すお決まりのコースです。国内線といっても広いソ連邦です。7、8時間を要します。当時私は、関東の大学へ行っていましたので、札幌へ帰省の時は、スカイメートでよく飛行機を使っていましたが、海外旅行初めての若者は、もちろん飛行機も初めての人が多く、機内は、無愛想なアエロフロートの客室乗務員のせいもあって、かなり騒然としていました。 モスクワのドボジェドボ空港へ無事到着。当時は、JTBのモスクワ駐在員が空港まで迎えに来てくれていて、モスクワ市内のホテルまで案内してくれました。外貨を稼ぎたいソ連は、若者には分不相応な大きな、高級ホテルへ選択の余地のない宿泊です。2泊3日のモスクワ市内観光、自由行動など、共産圏ではあり得ませんでしたが、何せ初めての異国の地、見るもの全てが興味深かったです。モスクワのレニングラーツキー駅を寝台列車で夜発って、翌朝、ソ連、フィンランドの国境駅バイニッカラで、ソ連税関による実に不愉快な延々の出国検査、終了と同時に、天気のせいでしょうが、空までもが、明るく見えたものです。みんなでソ連に向けて、思いっきり雪玉を投げました。当時は、海外へ出かける時、厳しい外貨制限がありまして、持ち出しは、1000ドル迄、レートは当時、固定で、1ドル360円、その貴重な外貨をソ連で2割近く強制的に旅費で、使われるのです。その恨みも重なったのかも知れません。 フィンランドの機関車に変えて、バイニッカラ駅を出発して約4時間で、西欧の最初の地、終着駅ヘルシンキ中央駅へ到着です。4月末、駅のホームには、まだ屋根もなく冷たい風と小雪が舞っていました。いよいよ、自力でのヨーロッパ旅行の始まりです。
2014年2月4日 火曜日 旅の続き
社員、協力会社、友人を伴っての大人数の旅の続きです。取引先の工場ドムス社を訪れるのは、全員の11名。これは、選択肢として当然列車の旅でした。窓口で、人数をきかれると団体割引が適用されるとのこと。1階2階どちらが良いかときかれ、どちらでも良かったのですが、せっかくなので2階席を希望しました。フィンランド第二の都市タンペレ方向の長距離列車に乗って、途中トイヤラTOIJALAで乗り換え、フィンランドの古都、トゥルクTURKU方面の列車にて、目的地ロイマーLOIMAA へ行く予定でした。列車は、5分遅れで出発しました。全員2階席の快適なシートで旅を楽しんでいました。トイヤラが近づいて車内アナウンスで、乗り換え列車の出発時刻と2番ホームへとの案内です。列車が遅れぎみでしたので、わずか5分の、乗り換え時間です。反対側のホームへ急いで移り、ちょうど来た列車に、全員急いで乗車です。指定席へと向かうために車両移動です。2階席のない古い車両です。程なく、検札の女性の車掌さんが、切符の提示を求めてきました。切符を見ながら、けげんな顔。「この、列車は、タンペレ行きですよ」「この切符で問題無いから、タンペレで乗換えてください」と事務的に去っていきました。行き先を、確かめないで乗った私が悪いのでしょうが、反対側のホームになんで、同一方向の列車が入って来るんだ。 大変です。目的地で待ってくれている、ドムス社の社長に至急連絡です。「そうか。タンペレへ向かっているかと、大笑い。次の到着時刻を又知らせてくれ」との返答でした。タンペレ駅へ到着して、反対ホームに止まっていた列車の車掌さんに事情を説明して、次の列車の時刻を調べてもらっていると、遠くで乗ってきた列車の女性車掌さんが、怒鳴っていました。タンペレ発、ロイマー行きの列車をきちんと調べてくれていたのです。 2時間というフリーの時間が突如生まれましたので、到着時刻を再度連絡して、急遽全員でタンペレ、ミニ観光です。私もタンペレは久しぶりです。 タンペレ駅へ戻り、今度こそ、トゥルク行きの2階建ての列車に乗り込みました。早速検札の車掌さんが来ました。切符を見るなり、「ああ、君たちね」という顔をしました。素晴らしい連絡網です。フィンランド国鉄VRは、JR東海と提携を結んでいます。私は、ぜひ、気候風土の近いJR北海道と提携して、この、失った信頼と、なくしてしまった自信を、取り戻してほしいと切に望みます。 目的地、ロイマーでは、駅に車3台で、迎えに来てくれていました。当初の予定を2時間短縮して、昼食、工場見学、事務所での打ち合わせです。工場では、当社の1月コンテナに乗せる出荷パレットを、見せるために担当者が、待ってくれていました。説明を終えると、もう帰ってよいかと笑顔で訊いていました。多分、彼も2時間待ちだったのです。工場も、新年休暇の最中にも関わらず、工場を開けてくれたうえ、遅れたことに、いやな顔もせず、楽しく迎えてくれたこと、フィンランド人のやさしさに、改めて感謝の気持ちでいっぱいです。ハプニングも旅の醍醐味と、楽しんでくれた、旅の仲間にも。
2014年1月28日 火曜日 雪のないヘルシンキ
1月も終わろうとしていますが、2日から、フィンランドへ行っていました。積雪ゼロ、気温がプラスという1月のヘルシンキを、私は今まで訪れた中で、初めて味わいました。防寒対策を完璧にスーツケースに詰め込んで、出かけたものですから、拍子抜けです。 今回は、久々に、社員、協力会社、友人を伴っての大人数の旅でした。いつものように、取引先の工場を訪れるのが、一番の仕事なのですが、もう一つ、昨年亡くなった古い友人の墓参りを、しなくてはという、思いがありました。御主人から、昨年、お会いした時、墓地の住所を教えてもらってはいたのですが、時間がなく延び延びになっていました。ヘルシンキバンター国際空港のあるバンター市に墓地はあるのですが、近くの駅まで近郊電車で向かうことにして、ヘルシンキ駅へ行ったのですが、機械に向かってカードで支払う切符の買い方が、今一つ理解しがたく、窓口へ戻り順番札を取ってまちました。Tikkurila往復と告げると、往復を買うと座席指定になって、高くなるから片道の方が良いと言われて従いました。すぐだと思って乗ったのですが、20分程かかりました。駅について、タクシーに乗って墓地の場所を告げると、少し難しそうな顔で、車が動き出しました。確かに、日本でも知らないところのお墓参りは難儀します。大きな墓地で、幹線道路を挿んで左右にあります。左側が新しい地区ということで、何度も地図を見ながら、車の進入禁止を無視して-ひょっとしたらタクシーはよいのかもしれませんが-どんどん奥へ向かいます。前に頂いた墓石の写真を見せると、さすがフィンランド人、ぐるーっと一望して、多分あれだと、指さしました。半信半疑で近づくと、素晴らしい正解です。もし、見つからなくても墓地まで行ったことで、勘弁してもらおうと思っていたのですが、そして、雪に埋もれてわからないかもしれないと思っていたのに、暖冬が役に立ちました。多分、クリスマスに家族がいらしたであろうローソクがいくつもありました。 待っててもらった、タクシーに乗ると、次回は、最後の門を左に曲がって最初の道を右にと、道順を丁寧に教えてくれました。同じ駅に戻ってと告げると、切符を持っていないなら、窓口のある側へと車を向けてくれました。親切にしてもらって、助かりましたと言うと、やさしい笑顔で手を上げて去っていきました。駅で切符を買ってホームで待つと通過列車です。 いかつい、モスグリーンと青色の長い長い寝台列車でした。お墓に眠る吉崎さんも、私たちも40年前、シベリア鉄道を通って、モスクワからこの列車で、ヘルシンキへ向かったのです。
2013年12月5日 木曜日 サンタクロースの住むフィンランド
私が、初めてサンタクロースに会ったのは、1974年です。子供のころ、クリスマスの朝、起きると枕元にプレゼントが置かれていて、寝ている間に、サンタさんが届けてくれたと思っていました。北海道は、当時、各家庭に煙突があったので、サンタさんの入り口は、確かにありました。小学生も、高学年になると、みんな夢から覚めてしまいます。 ところが、フィンランドではサンタクロース村が、北極圏に存在して、北緯68度、標高483Mのコルバ山(korvatunturi)に住んでいるのです。クリスマスイブの日、良い子の家庭には、サンタクロースが玄関から、いっぱいのプレゼントを持って、入ってくるのです。 私が、訪れた家庭は、1971年にフィンランドを旅していて、親切にしていただいたイマトラ市(IMATRA ロシアとの国境の町)の家族で、1974年ヘルシンキ大学留学中に再訪した時のことです。もうすぐサンタクロースが来ると告げられ、半信半疑で待っていると、少し本物らしくないサンタクロースが、本当に玄関から入ってきました。でも、子供たちは、真剣です。「良い子にしていたかな」というサンタの問いかけに、緊張気味に答えると、サンタさんへのお礼の歌を子供たちで合唱、とても良い光景です。もう一つ驚いたのは、子供たちだけでなく、家族でそれもたくさんの、プレゼントを交換することでした。なんと、私の分まで用意してくださったことには、感激でした。 私が、今まで、永くフィンランドと関わって来ることが出来たのは、そして、こよなくフィンランドを好きでいられるのは、この家族の存在なくしては、考えられません。帰国した後、再度クリスマスにフィンランドを旅した時は、鉄道が夜の8時には、終了してしまい、最寄り駅で下ろされてしまいました。日本のお正月以上に、長距離列車さえ、交通機関等、早々と終わってしまうのです。どうしたものかと駅で考えていると、通り掛かりの家族が、今、ちょうど家にサンタクロースが来るところだから、一緒にどうぞと誘われ、暖を取らせていただいて、別の家庭のクリスマスも体験することが出来ました。さらに、私の知人に連絡まで取ってもらいました。知人は、100Km以上の凍てつく雪原の道のりを苦にもせず、迎えに来てくれたのです。フィンランドのクリスマスは、みんな故郷に帰るからヘルシンキのような都会は、空っぽになるんだと説明を受けて、納得です。 又、クリスマスには、まるで日本のお盆のように、先祖の墓参りをします。積雪は、さほど多くないので、墓地には、多くの家族が訪れます。暗闇の白い世界がキャンドルの明かりで美しく輝いています。 今年のクリスマスもフィンランド各地で、キャンドルが冬の夜長を照らしているとおもいます。
2013年11月1日 金曜日 11月のフィンランド
私は、仕事の打ち合わせに、よく11月にフィンランドを訪れます。過去のスケジュールを見てみると、2007-2009年は、11月です。12月、1月の年もよくあります。 フィンランドへ旅行したいという方に問われれば、10、11月は、絶対にお辞めなさいと迷わず答えます。天候は悪く、冷たい雨が降り町全体が、グレー一色の感じです。とても観光で町を散策する気分にはなれません。ちなみに、11月上旬の日の出は、午前7時台後半、下旬では8時台後半、ピークの12月末では、9時20分台です。日没は、4時半位からどんどん早くなって12月には3時15分台です。性格の明るい方でも、この時期フィンランドを訪れると、気持ちが落ち込んで、良い印象を持ってもらえない気がします。カップルでの旅でしたら、近年地下街は増えていますし、中庭の天井をガラス張りにしたおしゃれなモールも多くなってきていますので、ショッピングは、楽しくできるかもしれません。 同じ暗くても、12月に入りますと、クリスマスデコレーションが町全体を埋め尽くし、通りにもイルミネーションが輝き、少し街が明るくなります。何といっても、人々の表情が明るくなります。ですから、11月は、観光のシーズンではありません。私の場合、仕事の打ち合わせは、クリスマスで浮かれ始める前に、打ち合わせをしたほうが、翌年のスケジュールを組みやすいので、この時期が多いかもしれません。 時折、北へもこの時期足を伸ばします。サンタクロース村のある、ロバニエミへも仕事の取引先があるので訪れるのですが、私の子供が、小さかったときは、サンタクロース村からサンタさんの手紙を子供たちへ出してもらうために、よく通いました。 ヘルシンキと違って、ロバニエミは、完全に冬の世界です。車の運転も、冬道走行です。ただ、フィンランドは、今もスパイクタイヤの使用が認められているヨーロッパでも数少ない国です。カーブでの安心感は全然違います。でも、その調子で日本へ帰ってきて運転すると大変なことになりますので、あくまでも、スタッドレスタイヤ走行のイメージで運転します。 町中は、外灯もありますので、さほど違和感はありませんが、郊外へ行くと-すぐ郊外ですが-本当に闇の世界です。遠目のヘッドライトが、ただ白い永遠に続いているかのような、道を照らします。この静寂、いかにもフィンランドにいるんだという実感がして、私は結構好きです。 フィンランドで、冬道のならし運転をスタートさせて、本格的な冬の運転を北海道で始めるのも北国の人間には、良いリズムかもしれません。
2013年10月11日 金曜日 ピュサッキ 停留所 PYSÄKKI
夏が終わり、北欧は再び厳しい季節が始まろうとしています。夏にはさほど、気にならない停留所での待ち時間ですが、寒さが増してくると苦痛以外の何ものでもありません。 ヘルシンキ市内だけで、市電路線9系統、143停留所、それに多数のバス路線、バス停留所があります。私は、市電はよく利用するので、乗り遅れても、次のを待とうという気持ちになります。バスは、路線が複雑で行き先等、定かでないとなかなか、乗る勇気がありません。まして降りる停留所の位置が、知っている所でない限りかなり不安です。どこで降車のボタンを押そうかと真剣になります。 地方へ仕事で出かけるときなど、空港からレンタカーを使うことが多いのですが、時々スケジュールの関係でバスを利用することもあります。町の中心部へ入ったのはわかるのですが、初めてのホテルなど地理感がないときは、けっこう心配です。 過去に2度ほど終点まで連れていかれたことがあります。もちろん乗車の際に、運転手さんには、目的地のホテル名と住所は伝えてありました。明らかに景色を見ていておかしいとは思うのですが、いかんせん運転手さんからの合図はありません。終点で後ろを振り返り、まだ乗っていたのかという顔をされて、「悪い悪い、出発まで10分あるから、乗っていていいよ。帰りは、間違いなく教えるから」こんな調子です。一度はノキアが華やかだった時代、オウル郊外の出来たばかりの研究棟の連なる地区を、観光バスのように楽しく見させてもらったときは、乗り過ごしも役に立つなあと思いました。 話を戻しますが、ヘルシンキでは、最近市電の停留所だけでなく、バスの停留所も全て次のバスの到着予定時間が表示されています。これは大変便利だと思います。寒空で待つ時間は特に長く感じられますから、これは素晴らしいサービスだと思います。 フィンランドは、人口に対して国土は広いですし、もちろん車社会です。ですが、最近鉄道網の質の充実を感じますし、公共交通機関の取り組みも人間的な尺度を感じます。北海道も停留所一つから取り組んでいただきたいものです。