2020-05フィンランド出張延期
本来、4月にはフィンランドへ出張の予定でした。早朝の空港行きバスに乗り、成田、関空、名古屋経由でフィンランドへ向う無駄な時間を使わないで済む、待望の千歳―ヘルシンキ直行便のつもりでした。まさか、こんな事態になるとは思っても見ませんでした。直行便はおろか唯一、成田―ヘルシンキ便は運休にこそなっていませんが、フィンランドも首都圏封鎖状態では仕事になりません。6、7月は本来夏休みで打ち合わせになりませんし、あきらめて8月下旬から9月を目処にスケジュールを立てようと思っています。3月に計画した工程をそのままスライドさせようと考えています。というのも、私、今年でフィンランドと関わって49年になります。親戚のようなつき合いをさせていただいている家族、仕事で最初に関わっていただいた方、当然かなりの高齢になられています。私が自由に動けている時に、顔ぐらい見せないと私の人間性に自ら疑問を感じそうです。
最初に窓の輸入を始めた時の担当部長、往年のフィンランドF1レーサーのヶヶkeke Rosberg(元F1チャンピオン・ニコの父)のような顔立ちで、いかつい顔でした。最初は少し怖い感じでしたが、親切な方で、私が次に行く予定の家族の住んでいるイマトラ市Imatra迄、仕事のついでだと言って、400Km近くを送って下さいました。札幌で開かれた国際見本市では、当社の出展ブースまで来てくれました。その後、会社と意見が合わず転職したのですが、夜中に国際電話で長々と愚痴を一方的に聞かされた思い出もあります。新しい会社とは、その後10年ほど、ドアの取引をしました。何度もクオピオKuopioにある工場も行きました。ニセコのコテージの大きな玄関ドアは、その会社の製品です。今でも毎年クリスマスカードは、頂いているのですが、昨年は代筆になっていたので、工場打ち合わせの後、車で少し足を伸ばして、ジャンプ台で有名なラハティLahti市の老人施設を訪れてみようと思っています。彼の出身地はラハティです。
随分前、札幌国際スキーマラソンでフィンランドから高齢の女性が入らして、英語が堪能でないということで、北海道フィンランド協会で宿泊先を検討していました。フィンランド語は、私も女房も話せますのでわが家に4、5日滞在して頂くことになりました。競技前日、グリップの状態をチェックするなど、はりきっているなあと思っていましたら、年齢別で2位入賞でした。すごくうれしそうにわが家に帰って来ました。後で解ったのですが、Siiri Rantanenは、1958年のノルディックスキーの世界チャンピオンでした。冬期オリンピックでは3大会メダリストです。フィンランドでは、スキーの母として知らない人がいないくらいです。彼女もラハティ市民ですので、この町にも何かと思い出が有ります。
2020-04 フィンランドの猟犬
4月、わが家の愛犬ハルが、14歳半の命を終えてから1年になります。いつもMarimekkoのバンダナを首に巻いて、車に飛び乗り毎週のようにニセコのコテージに週末は一緒に出掛け、森を走り回って過ごしていました。父親は柴犬で母親は雑種、ですので柴っぽく見えますが首筋、顎はそんなに白くありません。フィンランド人に写真を見せるとみんなPisti koiraピスティコイラ(犬)かと尋ねます。すごくそっくりな大きさの猟犬が、フィンランドにいます。この犬種の雑誌もあるほどです。うちの奥さんが、趣味で弾いている、フィンランドの民族楽器カンテレの演奏で、わが家へホームスティしていた時の子が、実家でもピスティコイラ飼っていると聞いて、早速彼女がフィンランドへメールして写真が送ってきました。本当にそっくりでした。
フィンランド人の多くの人は狩りをします。ですから私の友人も何人か猟犬を飼っています。猟犬を連れ森に出かけ獲物を探します。私も何度か一緒に出かけましたが、鳥でもウサギでも仕留めると一目散に走っていってくわえて自慢気に帰ってきます。
犬種にライカという猟犬を飼っている友人がいます。私は、旧ソ連が、1957年、世界で初めて人工衛星スプートニク1号を打ち上げ、さらに月をへだてて犬を乗せたスプートニク2号を打ち上げました。その犬の名前がライカ、ライカ犬と報道されていました。子供心に二度と地球に帰ってこれない犬の寂しさを感じていました。ですから、私は長いことライカ犬は、宇宙犬という意味だと思っていました。ライカという猟犬が存在していることに、少々の驚きを持ちました。先祖はシベリア原産のようです。私の脳裏に残るライカとは異なるのでしょうが、名前が繋がることによってライカ犬が生き続けているような気持ちでした。
私の友人の猟犬には、首輪にGPSが着いています。狩の最中いつでも犬の位置が、スマホに表示されます。やはり、ノキアで一時、世界を圧巻した国です。生活としっかりと結びついています。
2020-03 サウナ-続き
3月に入りますと、もちろんフィンランドも春の近さを感じますが、サンタクロース村のあるヘルシンキから北へ800kmのロバニエミでは、依然水面の見えない白い湖の世界です。私の友人は市内から少し離れた湖のそばにログハウスの住宅を持っていますので、訪れた時はいつも泊めてもらいます。この季節は、ラップランドは、多くのノルディック専用のアップダウンを楽しめる素晴らしいコース、例えば、ロバニエミから北へ100Kmのピュハルオスト国立公園のLUOSTO等が有りますが、1、2泊のスケジュールでは、ノルディックスキーをここの湖で一緒に楽しみます。表面がかなり堅くなっているので、想像以上のかなりのスピードが出ます。もちろんクラシカルではなく、スケーティングで滑るのですが、転ぶとかなりの衝撃が体を走ります。ですが、太陽も輝くようになり、青空の下、普通のノルディックスキーとは一味違う楽しみ方が出来ます。もちろん汗をかいた後は、サウナに入ります。住宅の中には、大きなサウナ室、シャワー室、くつろげる暖炉の部屋が、階下にあるのですが、天気の良い時はあえて時間をかけて、外のサウナの準備をしてくれます。。六角形の小屋が三連になっていて、一つは薪焚きのサウナ、もうひとつはスモークサウナ、真ん中はバーベキュースペースと連なっています。サウナで又一汗かいた後は、ソーセージを焼いてゆっくりとビールです。実に静かに時間がながれていきます。くつろげる空間、空気を感じます。夏場ですと、何度かサウナに入って、湖で体を冷やすのですが、まだ冬と同じく湖面は氷に覆われています。この季節も、湖面の氷の一部を切り取って水に入るのですが、一夜ですぐまた氷に覆われます。さすが、フィンランド人、天窓のような専用入り口を作ってさらにそこにヒーターまで付けています。ここまで準備してもらって、湖に入らないわけにはいきません。覚悟を決めて入ります。潜れとの指示、そんなに深くはないのですが、氷で太陽の光は届かず湖面は氷に覆われています。ほんの少しの距離なのに入り口に戻れるかという恐怖が頭をよぎります。寒さで、出たらすぐにサウナ室へ直行です。実に貴重な体験でした。
2020-02サウナブーム
日本では、今、大変なサウナブームです。本場フィンランドをしのぐ?ような盛り上がりです。なぜ、サウナブームなのか私にはよく理解できませんし、あえて調べようとも思いませんが。フィンランド語の中でも難しい発音のLÖYLYが、整えるとか、何とかいってさかんに使われていますし、昨日今日のブームでもなさそうです。
フィンランドでもヘルシンキ南港には、大きな観覧車があって、その横には、港の一部をプールに仕立てた大きなサウナ施設が有ります。おまけに観覧車の中の1台はサウナになっていますから、観光客向けなのかどうか、明らかにやり過ぎです。南港より西側のMERISATAMAには外部木造レストラン+サウナ施設が出来ました。こちらは地元の人にも人気で予約しないと入れないみたいです。元来、フィンランドのホテルは、必ずといえるほど専用のサウナ室が設けられていて、大きなホテルでは、プールが併設されている所も有ります。ですから、どこで勘違いされたのか、日本のサウナのように水風呂が付属のような考えはありません。何せ、湖が豊富な国ですから、湖面沿いにサウナ小屋が有れば自然とほてった体を冷やすために、湖に入いります。フィンランド人が、ごく普通に営んでいた週末のコテージの生活は、そんな自然との触れ合いから生まれたものなのだと思います。
現在、あのフィンランドでさえ、他の国々と変わらず、ヘルシンキを中心に、大都市の一極集中が加速しています。ですから、環境、近隣トラブル等の問題で、本来の姿である薪ストーブによるサウナへ入るには、ヘルシンキでは一部を除いて出来なくなり、地方へ行かなければ味わえないものへと変貌しつつあります。ですから、時間をかけずに、気軽に味わえる、しかも海が見えるサウナに人気がでているのかも知れません。
あえて、本物、本来のサウナと言うのでしたら、スモークサウナだと思います。フィンランドでも、180万といわれるサウナの中で、数える程しか存在しなくなりました。普通の薪ストーブのサウナでさえ、入るには結構手間がかかります。私の友人のコテージでも、数時間を要するスモークサウナは、年に数回しか入らないと思います。ですからますますスモークサウナは、特に火災を含めて減少すると思います。ただ私は、別棟の屋外の薪焚きのサウナには、今後もこだわっていきたいと思います。
2020-01 国立図書館OODI
もう1年前になりますが、ヘルシンキ中央駅のすぐそばに建つ船のような形の国立図書館。完成したばかりのせいか、見学者で溢れていました。話に耳を傾けてみると、フィンランド各地から見学に訪れているようでした。
建築中は、又駅周辺に新しい施設が建つんだ位に思っていましたが、いざ訪れてみると、図書館という固定概念をはるかに超えていて感嘆しました。昔からフィンランドは、読書好きでクリスマスなど親子でプレゼントし合う位ですから、図書館は、各都市にもすぐれたものが有ります。古くは、ロバニエミ市のアールト設計の図書館は有名ですし、私が初めて訪れたフィンランドで、東部のKUOPIO クオピオ市の市立図書館は、いまでも当時の感激を覚えています。読書率が高いというのは、世界トップクラスの教育水準に繋がっているのかどうか解りませんが、良い図書館が生まれるというのは、フィンランドの国民性と合致していると思います。
フィンランドの人は、実に木の使い方が上手です。外壁、内装にしてもきっと子供の時から、コテージで週末を過ごしたり、森の散策、自然との関わりを体で感じ取っているのだと思います。中央駅近くKAMPIの礼拝堂の外、内壁もそうですが、このOODI(図書館)が素晴らしいといって、真似して、なかなか作れるものではないと思います。
今、日本でもさかんに建築に木造を取り入れようとしています。その試みは決して間違ってはいないと思いますが、元来、日本の木の文化は、寺社、仏閣、豪奢のために重んじられ庶民の木に対する文化レベルが高かったかどうか、私ははなはだ疑問に思います。
話を、この図書館に戻します。3階建ての建物1階エントランス、各展示スペース、レストラン、映写室等、エスカレーターで2階へ昇ると、各個室がグループルーム、ゲーム室、読書室、コピー室等々休憩コーナーも有ります。3階は多数の書籍棚、ファミリースペース、圧巻はイベントスに使われる外部を見渡せる大きなガラス面の外壁、全面板張りの床がスロープでさらに上へ向わせます。天井は自然光を取り入れ優しく波打っています。実に素晴らしい空間です。ぜひ一度は訪れることをお奨めします。
2019-12一年半ぶりのコラム クリスマス
12月16日から、札幌〜ヘルシンキの直行便がいよいよスタートします。15日夕方、ヘルシンキを発つ第一便が千歳へ、朝到着して新路線の開設です。当初3月までの週2便と言われていましたが、とりあえず10月までは、確定したみたいです。チャーター便では、何度か千歳-ヘルシンキ間をフィンランド航空がDC10型機で飛ばしたことは有りますが定期便は初めてです。私は、いつも朝一番、千歳からの成田便に乗って成田乗り継ぎでヘルシンキへ向っていましたから、早起きと余分な時間を省けることは、大変助かります。
昨年末から、今年にかけて、長年付き合っていた窓の会社が倒産、エストニアの会社に買収されるというアクシデントで工場出荷がストップしたり散々でしたが、全く新しい会社との取引、1月、4月の2度のフィンランド出張で工場を自分の目で見て、ラインのチェック等、何とか本来のペースへ戻すことが出来ました。
よって、気を取り直してコラムを再開です。というのも、私の下手なフィンランド語に親身になって付き合ってくれるフィンランド人の気質が、やはり好きですから、彼らの生き方を、私なりに伝えていきたいと思います。
今月は、クリスマス、暗いフィンランドも人々の表情は明るくなります。私が初めて、本物の?サンタクロースを見たのは、1974年、ヘルシンキ大学へ籍を置いていたとき、クリスマス休みに、昔ヒッチハイクで知り合ったロシアとの国境近くのイマトラ市の家を訪問しました。その家族には、小さな女の子と男の子がいて、そろそろサンタさんが来るとそわそわしていました。荒井由実の歌ではありませんが、フィンランドでは、おとぎ話ではないのです。玄関から入ってきて子供たちにプレゼントを渡すのです。ヘルシンキから、北へ800Kmのロバニエミには、サンタクロース村が有りますから、子供たちには何の不思議でもないのかも知れません。
その次にサンタさんに合ったのは、1977年に再びフィンランドを12月に訪れた時です。今から思えば、のどかな時代でした。ヘルシンキ空港からヘルシンキ駅へ向い、すぐ列車でイマトラ市へと向ったのですが、飛行機の到着が遅れ、長距離列車はクリスマスで早々と終わってしまいました。KOUBOLAという町の駅 で下ろされました。クリスマスですから、人通りも少なくホテルも見当たらず途方に暮れていると、今娘のところにサンタクロースが来るので、一緒にどうかと自宅に誘われました。ここで又サンタさんと会いました。この時代のフィンランドの人々は、ほんとうに親切でした。携帯電話のない時代、私の友人宅へ電話をかけてくださり、友人は120Kmの雪道を飛ばして迎えに来てくれました。
こんな時代を過ごさせてもらったフィンランドは、私にとっては故郷に近い存在なのかも知れません。体力の続く限り、もう少しこの国との仕事に関わり続けようと思います。
2018-06トゥルクTURKU
6月白夜の季節です。ヘルシンキから西へ165km、トゥルク市、人口18万人、タンペレに次いでフィンランドで人口比3番目の都市です。遠い昔首都であったこと、多分ヘルシンキと今更競う気持ちはないでしょうが、古都トゥルクのプライドは市民が持ち続けていると思います。ストックホルムへの定期航路も毎日就航しています。
昔、ストックホルムで皿洗いのバイトをしていて、フィンランドを訪れようと思った時、ヘルシンキ行きの船よりトゥルク行きのフェリーの方が安いのでストックホルム〜トゥルク航路に乗船しました。トゥルク港に着いて船から降りて、アウラ川沿いを歩いたり、フィンランド3大古城のトゥルク城を散策していましたが、町中でセンスのよいアパート群が目に留まりました。都市計画に進もうと志していた私は、いつも自分の足で疲れるまで歩き回ることを常としていました。写真に収めたアパート群、特に意図するとこともなくスライドの1枚となっていました。それから、長い年月が過ぎて、自分で会社を興し、フィンランドとの関わりから、木製サッシを輸入する決意をして、トゥルクに比較的近い先方の会社を訪れました。社長室に招かれ、打ち合わせ、地元新聞記者からの質問等を受けていて、ひょっと壁に掛けられている絵を見て驚きました。私が興味を持ったトゥルクのアパート群でした。この時の窓の会社、ドムス社との取引を親子の代にわたって現在まで、させてもらっているのですから、時代は、重なるように流れているのかも知れません。
初夏のトゥルクは、見どころがいっぱい有ります。シベリウス博物館、手工芸野外博物館等、多々有りますが、私が何度も訪れ、心をいやされるのは、建築家エリック、ブリックマンの礼拝堂です。フィンランドといえば、もちろん一番有名な建築家は、アルバーアールトです。過去の人とはいえ、これに異論を唱える人は、あまりいないと思います。建築家の領域を超えて国民に愛されたアールトは、日本を含めて他の国では、無いのではないでしょうか。私がブリックマンが素晴らしいと思うのは、評価というものに捕らわれることなくトゥルクで、建築に生きた人のような気がします。今でも、最初に見た時の感動、復活礼拝堂の空間を忘れることなく覚えています。
今、緑が生える素晴らしい季節です。市の中心部から少し離れた市民墓地の中に、ひっそりとという表現が当てはまる静かな礼拝堂へ、時を忘れる空間を味わってみるのもおすすめです。
2018-05 成田空港
5月で、成田空港が、開港40年なるそうです。40年前、1978年1月には、モスクワから羽田空港へ到着した思い出があります。次は、成田になるのかと思いながら。
昔は、羽田空港は国内線と国際線のターミナルは同じビルでした。ヨーロッパへ出掛けるのは、お金のある人は北回り、少しでも安く行こうとする人は南回りと相場が決まっていました。我々貧乏学生は、絵に描いたように横浜港出港シベリア鉄道、ヨーロッパの時代でした。学生時代、休学して1年ヨーロッパ、北アフリカ、アジアと廻った時、帰国は羽田空港でした。大学紛争が激しい時でしたが、いろいろあって、少し学生運動にも嫌気が差して、外国を自分の目で見て、考えたのですが、帰国前には、タイで浅間山荘事件を知りました。復学すると、大学のキャンパスは、うそのように、何事もなかったかのように静まり返っていました。でもテレビでは、成田闘争のニュースが連日流れていました。テレビを見ながら傍観していることに、少し切なさを感じて、三里塚へも足を運びましたが、戦う農家のおばちゃんとセクトの言い分に違和感を感じました。1970年代はもっと純粋に、素朴に権力に立ち向かっていた気がします。大学を卒業して、すぐに就職の思いもなくヘルシンキ大学へ留学、2年後1976年秋の帰国もヨーロッパから、少しアジアをめぐって、当然南回りの羽田空港でした。
私は、空港が結構好きで、空港にはロマンが有ると思います。そこから出発すると、数時間で完全に異なる世界へ到着するという不安と同時に期待があるからです。夢をいだけない空港は、それだけでつまらないとおもいます。くしくも、成田開港の年私は、成田からフィンランドへ出発しました。成田は陸の孤島、空港周の恐ろしく高いホテルで前泊です。ホテルから出るバスは、検問に備えて出発予定の便の何時間も前に出発です。空港エリアに近づくと
それは信じられない光景でした。幾重にも巡らせた有刺鉄線を上部に備えた塀と、迷路のような道には機動隊が構えています。途中検問所で下ろされ、パスポートによる本人確認です。昔、西ベルリンから東ベルリンへ入った時より緊張感はあまり有りませんが、何倍も厳重でした。戦時国では有るまいし経済大国と呼ばれたこの国が、国民の安全という御託を並べて、国民目線ではなく、国家の威信で開港にこぎ着けた負の歴史でも有りました。ですからしばらく私は、成田を快く思っていませんでした。しかし、長い協議の末、国が地権者に対して頭を下げたことは、戦いを終結させる時期がきたと思いました。
フィンランド航空も就航して、私のフィンランドへの旅は、年に10回も成田空港を利用する年も有りました。今では、札幌から乗り継ぎですぐヘルシンキへ向えます。時代の移り変わりは、成田空港という昔から、存在していたかのような錯覚を覚えさせる存在になりつつあるのでしょうか。
2018-04 フィンランド航空と私の歩み
今年は、まだフィンランドを訪れていませんが、昨年は独立100年、来年は、日、フィン国交100周年です。私が、フィンランドを最初に訪れたのは1971年シベリア鉄道経由、その後も空路はアラスカ経由ヨーロッパ便を使うかソ連邦アエロフロート、モスクワ経由でした。1983年フィンランド航空は、画期的なヘルシンキ直行便を飛ばします。私が学生時代、フィンランドはまだ、当時世界をジャンボジェット機が空の旅を変革させていたとき、ヘルシンキ空港には、小型機が飛び交う、首都とはいえヨーロッパではローカルな飛行場した。ワイドボディーのダグラス社のDC-10が投入させると連日飛行場は見物客で溢れていました。なんて大きな飛行機だと、見てきたことが人々の話題になる、のどかな時代でした。北欧の人々には、日本人のハワイのような、カナリア諸島へのバカンス旅行が人気でしたが、この大型機もさかんに使われるようになりました。私も、ヘルシンキからカナリア諸島への旅、ギリシャエーゲ海の島巡りをこの大型機で味わいました。昔は、着陸の度に客席から一斉に拍手が起きる楽しい旅でした。やがてアジア路線開拓で、このDC-10型の座席を減らしてまで、燃料タンクを増やしたDC-10ERをフィンランド航空は、北極点経由11,000Kmを13時間半で成田ヘルシンキ便として週1便就航させます。仕事でフィンランド航空を使って出掛けると、スケジュールは最短1週間と決まってしまいます。時には、向い風が強くヘルシンキまでは燃料が持たないと、北極圏に近いオウル空港で燃料補給で臨時着陸といった、懐かしい思い出もあります。それが今や、シベリア上空ルートで9時間あまりで、成田、関空、名古屋から毎日ヘルシンキへ向けて飛んでいるのですから時代の移り変わりを感じます。成田便はさらに1日2便、日本航空便を加えると3便ですから、ヨーロッパへの最短便としてヘルシンキ空港は北欧のハブ空港へと成長しています。
日本は、フィンランド独立直後にいちはやく国交を結び、第二次大戦後は日本が戦後始めて参加したオリンピックが、ヘルシンキ大会ですから何かと縁が深い国なのかも知れません。そんな魅力ある国ですが、今若い人に人気があるとは言え日本人の大半は、ヘルシンキ到着後トランジットで他のヨーロッパ諸国へと向かっていきます。冬場のオーロラツアーは、確かに日本人が多いですが、春から夏は満席の機内の人が、通関時には後ろを振り返るとまばらになっています。
自然が好きな方なら、フィンランドは、本当はこれからがベストシーズンです。白夜にかけてどんどん日没は遅くなりますので、遅くまで野山の散策が可能です。湿度の低い澄みきった空気、多少着込めば寒さももう厳しくありません。ヘルシンキ近郊を訪れるのも本当に良い季節です。ラップランドはまだ寒いですが、湖が姿を現し始めます。ノルディックスキーもまだ楽しめます。何といってもまだ蚊に悩まされることのない季節です。
そろそろ私も次のフィンランド出張のスケジュールを立て始めようと思います。
2017-12 独立100年に思うこと
フィンランドは、12月6日で独立100年を迎えます。帝政ロシア時代には、フィンランドは既に自治権は得ていましたが、ロシアの末期の混乱、10月革命によって 時代はフィンランドの独立運動へと目まぐるしく動きます。赤軍は、ヘルシンキを制圧して、東欧諸国のようにソ連邦に組み入れられる可能性も有りました。ヘルシンキ市内の一番大きな道、マンネルヘイム通り、国会の向かい側近代美術館キアスマの横に建つ像。独立の父、マンネルヘイム将軍は、直接ヘルシンキに入れず、西のVAASAから、ヘルシンキに攻め入っています。殺戮の決して華々しい凱旋では有りませんが、結果とし独立を自力で勝ち取っています。フィンランド人の誇り、自国の文化、言語は守り通す、フィンランド魂なのでしょうか。
フィンランドにとって試練は続きます。理不尽な、スターリンの侵略に対しては、冬戦争、継承戦争と果敢にマンネルヘイム防衛線を駆使して老いた将軍は再度祖国防衛に立ち向かっていきます。 10日で占拠出来ると豪語していたスターリンに立ち向かい数ヶ月持ちこたえて、停戦へと話を進めます。しかし、第二次世界大戦の終局は、理不尽にも膨大な戦後補償をソ連から突きつけられます。世界は、フィンランドを小国と見なしていましたが、戦後賠償を終え、1952年には、ヘルシンキオリンピックを、開催するまで国力を回復させています。戦後初めて日本が参加したオリンピックは、ヘルシンキです。
私は、シベリア鉄道を経由して1971年初めてヘルシンキを訪れましたが、重苦しい共産圏を抜けて、自由な国の素晴らしさをかいま見ました。島国の人間には理解できない国境を接して生きていくことの難しさ、独立とはいかなるものなのか、そんなことを考えさせられました。500万の人口で、先進国として誇りを持って生きていくことは大変だと思います。遠い昔、ヘルシンキ大学で北欧史、バルト海史を学んだ私は、当時、独立記念日を、フィンランドの友人と過ごせたことは、フィンランド人の心に少しは、接することができたのではないかと、勝手に思っています。
100年の記念行事に参加させてもらうのではなく、静かに感慨を込めて、グラス越しにフィンランドを感じて、お祝いをしたいと思います。