2020-12 セピア色の旅の記憶-4 スペイン2
何度かのヨーロッパ横断を続け、地中海からではなく、フランスから北部スペイン、バスク州へ入りました。当時も治安が良くないという情報でした。フランコ政権の悪政が当時も人々にしこりを残したのでしょうか。国境駅では随分と停車しました。国が変わると牽引する機関車は変わるのが普通ですが,スペインの鉄道は新幹線より広い線路幅,広広軌鉄道ですから、牽引される車両も車軸距離が異なります。私の記憶では、車軸距離を変える作業で時間がかかっていたと驚いたことを覚えています。サンセバスチャンからサンタンデールへ向いました。途中のBilbo当時はビルバオには、グッケンハイム美術館は存在していませんし、ビスカヤ橋の存在も知りませんでした。いまして思うと、ビスカヤ橋は渡ってみたかった。途中下車することなく、目的はただ一つ、歴史の教科書に載っていたアルタミラの洞窟を見てみようという思いでした。Santanderサンタンデールからローカル線に乗換え、車窓から景色を眺めていると、女子中学生が、私の乗っている車両一杯に乗り込んできました。当時まだ日本人は、珍しくスペイン語で質問攻めです。幸い少しスペイン語を話せたので必死に会話を続けました。目的地を聞かれ、アルタミラの洞窟を見に行くと言うとけげんな顔をされました。面白くないよとの返答です。1時間弱SantaIsabel 駅から徒歩2Km当時は博物館も何もなく、ただただ田舎道の野原が続だけです。少々不安を覚えながらも,通る人に道を尋ねながら歩きました。お粗末な標識を見つけました。これが歴史の教科書にも載っている、かの洞窟なのか。列車を乗り継ぎ、ここまで歩いてきてまた、駅まで引き返すだけの無駄骨か。
半信半疑、中をのぞき込むと人がいました。入場料を取られてたのかどうか全く覚えていません。それぐらい品粗な入り口でした。狭く,薄暗い洞窟というよりほら穴の感じです。少しすると目がなれてきました。確かに教科書に乗っていた絵が上に見えました。中央に寝そべるように上を見上げる姿勢での鑑賞です。何となく満足してアルタミラを後にしました。写真を撮れるレベルの明るさではなかったですし、フラッシュは禁止でした。外はすでに、日が陰り始めていました。駅につく頃には,アルタミラの丘は夕日に包まれていました。
何年か後に、平成天皇御夫妻が、皇太子殿下時代に訪れたのを最後にアルタミラの洞窟は閉鎖されたままのようです。
2020-11 セピア色の旅の記憶-3 スペイン
依然、出張の目処がたちません。旅の記憶を続けます。
1971年スゥエーデンから旅を続けて、ヒッチハイクで南下を続けましたが、1週間ほどで東欧に着きました。東欧に入ってからは、車の数の少なさで、移動距離が極度に落ちてしまいました。予定のたて難い移動も相まって、ユーゴスラビアでヒッチハイクを終わりにしました。
いよいよ父に買ってもらった、3ヶ月のユーレイルパスを使い始めました。当時は,列車もさほど混んでなく、まして1クラスのコンパートメントは、貸し切り状態です。1日中歩き回り町中を見学、夕方スーパーで食料を仕込んで,夜出発の列車に乗り込みます。翌朝着きそうな次の国へ移動です。こんなスケジュールを繰り返し、フランスからスペインへ。
当時、私は大学で第二外国語にスペイン語を履修していました。1年生の時は、予習、復習をして毎週教室へ向かいました。何せ語学は真面目に時間を費いやすしかないからです。ところが2年生になって、私の通う大学でさえ、学生運動が盛んになり勉強どころではなくなりました。大学のロックアウト後、秋に授業は再開されましたが、あまりの環境の変化で力が入りません。思うところあって、休学して1年ヨーロッパへ旅立つことを決めました。ところが、スペイン語の先生から呼び出され、成績芳しくないのでもう一年補修を告げられました。休学するので1年まってくれと言うと、私は来年でこの大学をやめると言われ、それは困ると交渉の結果、先生のスペイン留学の時の下宿先を必ず訪れるという条件で何とか単位を取得しました。
バルセロナを訪れた時、もちろん真っ先に先生の下宿先へ向かいました。たどたどしいスペイン語で、説明するとそうか、わざわざ挨拶に来てくれたかと、たいそう歓迎されました。その後のスペインの旅は、スペイン語が話せるだけで随分楽しいものになりました。語学は大事だとつくずく思いました。
当時は、まだ、サントリーがスペインの一大キャンペーン広告をうつ前でしたから、スペインブームでもなく、観光客もさほど多くなく、サグラダファミリアも閑散としていました。建築専攻の私ですから、時間をかけて,隅から隅まで見学出来ました。勝手にガウディの気持ちを考えながら、思いを巡らしました。もちろん、その後何度も訪れていますから、完成に近づく変化を見ていますが、最初に受けた衝撃を、超えることはありません。何とも言えない存在感、絶望的な時間をこえての完成を、彼は本当に現在進行中の姿を夢見ていたのでしょうか。既に、風化の始まった歴史的建造物遺跡とさえ思えました。私は、コンクリートと共存するサグラダファミリアの完成を、何が何でも見に行きたいという気持ちではありません。完成を願う気持ちと、完成をあえて望まない当時の姿を思う気持ちが交錯します。
2020-10 セピア色の旅の記憶-2 スウェーデン
シベリア鉄道経由で、憧れのヨーロッパへ。最初の地、フィンランドから第一の目的地、スウェーデン到着。当時は、日本から持ち出せる外貨に厳しい制限があって千ドルと決まっていました。一ドル360円の固定レートの時代です。千ドルで一年旅行が出来るわけありません。しかも,当時のソ連経由の旅ですから、100ドル以上が、既に消えているわけです。
ストックホルムに着くなり、求職のスタートです。駅近くの宿泊案内所で、まずは宿の確保です。次に仕事探しです。おおらかな時代で,国際学生証を持っていると短期間の滞在許可証と労働許可証は、仕事先を見つけると、問題無く下ろしてもらえました。まず大手スーパーの会社を訪れ,面接で社員食堂への配属を告げられました。昼食時の片づけの仕事です。社員がどんどん入って来る1時間は、目の回るような忙しさでしたが,後はのんびり仕事ができます。ひと月ほど続けると、大学生が夏休みのため、地元学生のつてで、開放された学生寮を借りることが出来ました。10階建てで、各個室、フロアーごとの共同キッチン、シャワールーム、地下には、洗濯機、乾燥機が並んでいます。日本での学生生活よりずっと快適でした。馴れてきたので,紹介で夕方から市の中心部のレストランの皿洗いのバイトも始めました。定期券を買って、週末も休みが無くなりました。土、日曜日は、時給が1.5倍、夜遅くは2倍になります。レストランですから、夕食も自前で払わなくて済みます。全然お金を使わない1週間、次の旅の資金は想像以上に稼げました。ただ昼も夜も働いて、週末もとなると少々疲れを感じて2ヶ月で仕事を辞めて、スウェーデンを離れることを決めました。
ストックホルムに滞在して,最初に驚いたのは町が近代的で、全体が実に清潔だったことです。夜12時なると地下鉄駅は、洗剤できれいに洗われます。もうひとつ1971年に既に大きな駅には、エレベーター、エスカレーターが有りました。地下鉄の駅に向う人は,次の人が見えると扉を押さえて待ってくれていました。なんて素晴らしい国なんだろうと思いました。市の中心部には,真新しい国会議事堂があって、中心部は開発真っ最中、国会の地下には図書館が併設されていて,音楽も自由に聞くことが出来ました。始めのころは、週末ドボルザークを第一楽章から順番に聞いていました。当時、ノーベル賞も日本人は文学賞の川端康成を含めてまだ3人でしたから、市庁舎を訪れる人も少なく、私は建築が専門ですから、設計者のラグナーヨストベリの市庁舎を隅から隅まで時間があると歩き回っていました。学生の時、父の元上司のお宅にお邪魔した時、見せてくださったヨーロッパの建築という古い本に北欧で唯一載っていたのはストックホルムの市庁舎でした。
オールドタウンも,なれると道に迷うことなく歩けますし、日本との文化の違いを堪能していました。当時は、どこを歩いても理想的な国に思えました。
時を隔てて、訪れるとストックホルム市内は、落書きが目立ち、地下鉄も、日本の駅の方がきれいとさえ思えました。若者がこぞってアメリカナイズされることは、どこの国でも同じことですが、ベトナム戦争でアメリカも傷ついて、若い世代の新しい世界が生まれるかと期待した結果が、同じ歴史の繰り返し、空しさを感じます。
2020-09 セピア色の旅の記憶-1 ドイツ
ここまでコロナウィルスが、出張を不可能にするとさすが、新しいフィンランドの話題と写真を、見つけることが出来ません。少しくフィンランドを離れて、遠い記憶のヨーロッパを振返ってみたいと思います。今から50年近く前、貧乏人の定席ルート、シベリア鉄道経由で、憧れのヨーロッパへ出掛けたのは、大学2年生を終えて休学して、大陸の空間を自ら感じ取りたかったからです。今でも鮮烈に覚えているのは、当時西ドイツのケルン中央駅で下車して、駅前というか、駅そのものにケルン大聖堂がそびえ立っていたことです。京都駅に清水寺がくっついているような衝撃でした。歴史と生活が違和感なく繋がっていることへの文化の違いを見せつけられた感じです。
次の衝撃は、東西ベルリンです。国境を接するのではなく、東ドイツの中に西ベルリンが存在しているというのは、実感としてピンときませんでした。私は、ヒッチハイクで西ベルリンに入ったので、車のトランクは、当たり前で、大きな鏡で車の下、ボンネットの中までチェックする検問の凄まじさを見て初めて、NHKのニュースの東西ベルリンが頭に入りました。西ベルリンからの東ベルリン見学の更なる検問、地下鉄が、薄暗い東ベルリン駅間は止まらず通過すること、その駅には銃を構えた兵士の存在、明るいイメージは皆無でした。ペルガモン博物館見学の後、素朴なアイスクリームが、とてもおいしかったのを覚えています。
ベルリンの壁が崩壊してから私は、4度ベルリンを訪れています。直後に出かけた時は、異次元の時代が突如くっついた感じでした。地下鉄Uバーンは、新旧混在駅でしたし、Sバーンの駅舎は空爆を逃れてかろうじて残っているようなものでした。どう見ても賢いドイツ人が考えることでは無いと思いました。フィンランドで、仕事を終え日本へ帰る機内で、隣の席は見るからにいかついビジネスマンというドイツ人でした。私は、質問してみました。東西ドイツが一つになったことについての感想でした。彼は、壁の崩壊をテレビで観ていて、涙が止まらなかったそうです。どう見ても泣きそうな感じの方では有りませんでした。昨日まで、逃亡者は容赦なく射殺していたのは、憎しみではなく、体制維持の職務と割り切ってのことだったのでしょうか。根底には、ドイツ国民という誇りなのか、自負なのかが延々と流れていたのかも知れません。少し違う角度からドイツ人を、見た思いがしました。
2020-08ステイホームではなく、本来の家族の過ごし方
コロナウィルスは、現代社会をあざ笑うかのように、おとろえる気配がありません。完熟したかのように言われてきた資本主義経済は、貧富の格差を是正するどころか広げるばかりです。ストレス社会は、外出自粛で個人に、さらにストレスを増長させ続けています。私が、40年以上言い続けてきた『フィンランド人のような生き方を、しませんか』を、今一度思い浮かべてください。
フィンランドは、世界的に教育レベルが高くて、高福祉国家です。私が生活していた1970年代と比べますと、生活が豊かになった反面、都市化は、どんどん進み、国際競争力が増すということは競争社会も生まれ、ストレスを抱える人も増えて、必ずしも憧れの理想国家ではありません。それでも、私がこの国にこだわり続けるのは、もちろんフィンランドが好きということは有りますが、長年付き合ってきた人々の優しさ、自然との関わり、素朴な生活の過ごし方ではないかと思います。身分相応な生き方、つまり見栄を張らず、肩の力を抜いて生きる。独立心の強いフィンランドでは、高校を出るとほぼ親に頼らず自立します。家族関係が、あまりにもあっさりしていて、日本人から見ると驚かされるほどです。私の親しい家族でも、日本的な家族は、1、2家族のみです。でも、子供が小さい時は、家族での移動が普通で、週末のコテージへ出掛けたり、長い夏休みには、コテージでの生活を満喫する、自然と親しむことをごくごく当たり前に過ごすのです。北国ですから、厳しい冬が訪れます。その時は、日本人がハワイへ行くよりも頻繁に、太陽旅行へ南の地中海、カナリア諸島へ家族で旅行します。昔から、今のLCCのような格安航空があって、1週間のホテル代込みの信じられないくらい安いツアーが溢れていました。
基本的に国民は、国を信頼していますから、老後の心配なく安心して、今有るお金を使って、生活を楽しみます。北欧のインテリアが優れているのも、家庭での生活を大事にし、家での過ごし方を知っているからではないでしょうか。
私の友人も随分現役を離れて、年金生活に入っています。驚くのは、大きな会社の経営者だったのに、仕事の未練ではなく、毎日、趣味に時間を使って生活できる喜びを実に楽しそうに、話してくれることです。
一日も早くコロナウィルスの収束を願いますが、今、改めて私は、『フィンランド人のような生き方、始めてみませんか』、と声を大にして叫びたい。家で楽しむこと、家族で生活すること、本来、一番日本人が大切に思っていたことではないでしょうか。
2020-07ガッレンカッレラ ミュージアム
EUが、7月 渡航を受け入れる国に日本も入りましたが、全面緩和の状況は遠く未だフィンランド出張の時期は見えません。先日、フィンランドに住む友人とSkypeでコロナの話をしていたのですが、少々気になる話題が有りました。現在ガッレンカッレラ ミュージアムが閉じているとのことです。私のコラムで以前、2004年6月に取り上げたこの季節絶好のお薦めスポットなのですが(興味の有る方は、古いコラムを読んでみて下さい)。何でも、国かエスポー市か解りませんが、遺族との話し合いが決裂して閉鎖状態だということです。
遠い昔、ヘルシンキ大学で学んでいた時、日本での学生時代と違って毎日、必死に勉強していた時がありました。週末だけは、息抜きに友人と散歩に出かけた青春時代の思い出の場所でもあります。
私の会社名でもありますHvitträskビタレスクは、同じくヘルシンキ中央駅、国立博物館の設計者であるサーリネン達の自邸、アトリエが、隣のエスポー市郊外にミュージアムとして、現在も財団管理で運営がされ、外国人のみならず自国民の歴史スポットとなっています。
ヘルシンキ市堺にあり、より地理的好条件の建物が朽ちることは、私には理解できません。フィンランド史を学んだ私としては、古き良き時代というより、独立を勝ち得て、多くの芸術家達を生んだフィンランドの民俗的象徴のような輝かしい時代の証の建築物でもあります。このような人たちがいたので、独立前の1900年のパリ万博でさえ、フィンランドという存在が知識階級の人々に認められていたと思います。その後、多くの世界的建築家の排出も、この歴史が物語っていると思います。フィンランドの叙事詩カレバラの地は、多くをロシアに割譲されてしまいましたが、カレリア地方の文化は、今もフィンランド人に受け継がれ続けていると私は信じたい。
この、コロナウィルスの蔓延が納まりフィンランド出張が、問題無く旅程を組めるようになりましたら、今一度、ガッレンカッレラの地を訪れてみようと思います。
2020-06 夏至 白夜祭( 夏至祭 )サウナ
未だフィンランドへ出張の予定がたちません。この季節の写真も新しいものが残念ながらありません。私は、週末ニセコに居ることが多いのですが、6月一人又やってきました。一人の時は面倒なので、室内の電気のサウナに入ることが多いのですが、この季節は、やはり外のサウナ小屋に火を入れたいと思います。フィンランド人は、夏至の週末は故郷へ帰る人が圧倒的に多いのですが、今年は、コロナで状況はつかめません。田舎の家々には、煙突から煙が昇り、サウナの準備が出来ていることが窺えます。今年最初の採れたてのビヒタも用意されている事でしょう。取れ立ての白樺の鮮やかな緑、オケの水にしたしてストーブの石に叩くように浸けるとさわやかな香りが室内に充満します。これが夏至のサウナの醍醐味です。新緑の葉のついた白樺の枝を束ねて作るのがビヒタです。白樺といってもフィンランドと北海道では樹種が大きく異なります。枝がしならない北海道の白樺は、ビヒタに向きません。そこで葉の若い小枝ばかりを集めて作ってみました。何とか1回は使えます。陰干しして保管した枝は、残念ながら使い物になりません。そこで、思いつきました。ニセコで、もう大木になっているフィンランド生まれの白樺の枝を、はしごを使って取ってみました。思った通りしなる、素晴らしいビヒタが作れました。
フィンランドでは、地方の公共のサウナはだいたい湖のそばに有ります。ですから、ほてった体を水に浸けるのは簡単です。ホテルのサウナもプールが付属しているとこが多いので水に入ることが出来ます。日本では、水風呂と称する物がついているのが一般的でサウナ通の常識になっているようですが、私は、この習慣に懐疑的です。心臓の負担が大きすぎます。そこで、足桶のお奨めです。サウナ室から出て、冷たい水の入った足桶に足を入れるのです。足の体温が体の方へ移動して代謝を感じることができます。心臓に余計な負担はかかりません。ドイツでは、スパのサウナに、各自が座って足を入れ、水を張って終わると栓を抜くという設備をよく見かけます。
サウナに入った後は、やはりビールがおすすめですね。フィンランドでは、小瓶のビールがスーパで普通に売っていますので、サウナ上がりに瓶ビールを普通に飲みます。私は、ニセコの屋外サウナは瓶ビールと決めています。北海道でも日の長い良い季節の始まりです。自然と親しみましょう。
2020-05フィンランド出張延期
本来、4月にはフィンランドへ出張の予定でした。早朝の空港行きバスに乗り、成田、関空、名古屋経由でフィンランドへ向う無駄な時間を使わないで済む、待望の千歳―ヘルシンキ直行便のつもりでした。まさか、こんな事態になるとは思っても見ませんでした。直行便はおろか唯一、成田―ヘルシンキ便は運休にこそなっていませんが、フィンランドも首都圏封鎖状態では仕事になりません。6、7月は本来夏休みで打ち合わせになりませんし、あきらめて8月下旬から9月を目処にスケジュールを立てようと思っています。3月に計画した工程をそのままスライドさせようと考えています。というのも、私、今年でフィンランドと関わって49年になります。親戚のようなつき合いをさせていただいている家族、仕事で最初に関わっていただいた方、当然かなりの高齢になられています。私が自由に動けている時に、顔ぐらい見せないと私の人間性に自ら疑問を感じそうです。
最初に窓の輸入を始めた時の担当部長、往年のフィンランドF1レーサーのヶヶkeke Rosberg(元F1チャンピオン・ニコの父)のような顔立ちで、いかつい顔でした。最初は少し怖い感じでしたが、親切な方で、私が次に行く予定の家族の住んでいるイマトラ市Imatra迄、仕事のついでだと言って、400Km近くを送って下さいました。札幌で開かれた国際見本市では、当社の出展ブースまで来てくれました。その後、会社と意見が合わず転職したのですが、夜中に国際電話で長々と愚痴を一方的に聞かされた思い出もあります。新しい会社とは、その後10年ほど、ドアの取引をしました。何度もクオピオKuopioにある工場も行きました。ニセコのコテージの大きな玄関ドアは、その会社の製品です。今でも毎年クリスマスカードは、頂いているのですが、昨年は代筆になっていたので、工場打ち合わせの後、車で少し足を伸ばして、ジャンプ台で有名なラハティLahti市の老人施設を訪れてみようと思っています。彼の出身地はラハティです。
随分前、札幌国際スキーマラソンでフィンランドから高齢の女性が入らして、英語が堪能でないということで、北海道フィンランド協会で宿泊先を検討していました。フィンランド語は、私も女房も話せますのでわが家に4、5日滞在して頂くことになりました。競技前日、グリップの状態をチェックするなど、はりきっているなあと思っていましたら、年齢別で2位入賞でした。すごくうれしそうにわが家に帰って来ました。後で解ったのですが、Siiri Rantanenは、1958年のノルディックスキーの世界チャンピオンでした。冬期オリンピックでは3大会メダリストです。フィンランドでは、スキーの母として知らない人がいないくらいです。彼女もラハティ市民ですので、この町にも何かと思い出が有ります。
2020-04 フィンランドの猟犬
4月、わが家の愛犬ハルが、14歳半の命を終えてから1年になります。いつもMarimekkoのバンダナを首に巻いて、車に飛び乗り毎週のようにニセコのコテージに週末は一緒に出掛け、森を走り回って過ごしていました。父親は柴犬で母親は雑種、ですので柴っぽく見えますが首筋、顎はそんなに白くありません。フィンランド人に写真を見せるとみんなPisti koiraピスティコイラ(犬)かと尋ねます。すごくそっくりな大きさの猟犬が、フィンランドにいます。この犬種の雑誌もあるほどです。うちの奥さんが、趣味で弾いている、フィンランドの民族楽器カンテレの演奏で、わが家へホームスティしていた時の子が、実家でもピスティコイラ飼っていると聞いて、早速彼女がフィンランドへメールして写真が送ってきました。本当にそっくりでした。
フィンランド人の多くの人は狩りをします。ですから私の友人も何人か猟犬を飼っています。猟犬を連れ森に出かけ獲物を探します。私も何度か一緒に出かけましたが、鳥でもウサギでも仕留めると一目散に走っていってくわえて自慢気に帰ってきます。
犬種にライカという猟犬を飼っている友人がいます。私は、旧ソ連が、1957年、世界で初めて人工衛星スプートニク1号を打ち上げ、さらに月をへだてて犬を乗せたスプートニク2号を打ち上げました。その犬の名前がライカ、ライカ犬と報道されていました。子供心に二度と地球に帰ってこれない犬の寂しさを感じていました。ですから、私は長いことライカ犬は、宇宙犬という意味だと思っていました。ライカという猟犬が存在していることに、少々の驚きを持ちました。先祖はシベリア原産のようです。私の脳裏に残るライカとは異なるのでしょうが、名前が繋がることによってライカ犬が生き続けているような気持ちでした。
私の友人の猟犬には、首輪にGPSが着いています。狩の最中いつでも犬の位置が、スマホに表示されます。やはり、ノキアで一時、世界を圧巻した国です。生活としっかりと結びついています。
2020-03 サウナ-続き
3月に入りますと、もちろんフィンランドも春の近さを感じますが、サンタクロース村のあるヘルシンキから北へ800kmのロバニエミでは、依然水面の見えない白い湖の世界です。私の友人は市内から少し離れた湖のそばにログハウスの住宅を持っていますので、訪れた時はいつも泊めてもらいます。この季節は、ラップランドは、多くのノルディック専用のアップダウンを楽しめる素晴らしいコース、例えば、ロバニエミから北へ100Kmのピュハルオスト国立公園のLUOSTO等が有りますが、1、2泊のスケジュールでは、ノルディックスキーをここの湖で一緒に楽しみます。表面がかなり堅くなっているので、想像以上のかなりのスピードが出ます。もちろんクラシカルではなく、スケーティングで滑るのですが、転ぶとかなりの衝撃が体を走ります。ですが、太陽も輝くようになり、青空の下、普通のノルディックスキーとは一味違う楽しみ方が出来ます。もちろん汗をかいた後は、サウナに入ります。住宅の中には、大きなサウナ室、シャワー室、くつろげる暖炉の部屋が、階下にあるのですが、天気の良い時はあえて時間をかけて、外のサウナの準備をしてくれます。。六角形の小屋が三連になっていて、一つは薪焚きのサウナ、もうひとつはスモークサウナ、真ん中はバーベキュースペースと連なっています。サウナで又一汗かいた後は、ソーセージを焼いてゆっくりとビールです。実に静かに時間がながれていきます。くつろげる空間、空気を感じます。夏場ですと、何度かサウナに入って、湖で体を冷やすのですが、まだ冬と同じく湖面は氷に覆われています。この季節も、湖面の氷の一部を切り取って水に入るのですが、一夜ですぐまた氷に覆われます。さすが、フィンランド人、天窓のような専用入り口を作ってさらにそこにヒーターまで付けています。ここまで準備してもらって、湖に入らないわけにはいきません。覚悟を決めて入ります。潜れとの指示、そんなに深くはないのですが、氷で太陽の光は届かず湖面は氷に覆われています。ほんの少しの距離なのに入り口に戻れるかという恐怖が頭をよぎります。寒さで、出たらすぐにサウナ室へ直行です。実に貴重な体験でした。