2026ー04 サウナ 考察
日本におけるサウナブームは、若者の増加をともなって、落ち着いたと言えるのでしょうか。サウナストーブへ水をかける正しい使い方が、定着してきたことは、喜ばしいことだと思います。『ととのう』という言葉の使い方は、別にして、LÖYLYという難しい撥音のフィンランド語が普通に使われていることには少々驚きです。Ö,Yは共にフィンランド語では、母音ですので日本人には発音のしにくい単語です。
私の、ニセコのコテージには、建物の中に、電気ストーブのサウナ室、屋外には、別棟のサウナ小屋があって、そこは、薪ストーブに薪を燃やして入るサウナです。サウナは、一般的に、電気ストーブ、薪ストーブのサウナに分かれます。その他、スモークサウナという特別のサウナがあります。フィンランド全土でも、数年前に500を切ったと聞きましたので、現在はさらに棟数を減らしていると思います。私もニセコで、スモークサウナを作ろうと図面は書きましたが、年に数回しか入らず、入るまでに数時間と労力を費やすことを鑑み作ることを諦めました。フィンランドの友人で、何人かは、スモークサウナを持っていましたが、ラップランドの友人、窓の会社の社長は、共にすでに旅立ちました。現在、私の友人で持っているのは一人だけになってしまいました。
ニセコの建物の中のサウナは、電気ストーブですが、3面はシルバーパインで残りの壁は、特注のもみの厚いログパネルですので、普通のサウナ室に比べると体感がとても柔らかです。外のサウナ小屋は、丸太で直径23cm、26cmの交互に積んでいる特殊丸ログです。床はタイルで掃除をし易くしてあります。天井は、シルバーパインの引き割り板で仕上げています。築35年で、年に30−40回は使用していますので、1000回は越していると思います。
夏ですと、火を入れて20分、厳冬期でも、1時間くらいで入ることができます。薪は全て、敷地内から、調達しています。もちろん、チェンソーで自ら伐採して、割って2年くらい積んで使用します。もちろん、火力が強い方が早く温まりますので、木の選別も重要です。針葉樹は、火力はありますが、広葉樹の方が、だんぜん火持がいいです。室温が上がったら、入り時かというとそうではなく、壁面が一定の温度にならないと空気が安定していません。ですから、壁面を触って温かくなっていればOKです。
長年、サウナに入っていて、スモークサウナがなぜ理想なのか、色々考えてみました。煙を追い出して、入った時決して熱くないのです。煙突のない、石を積んだサウナストーブに、水をかけると、静かに熱い空気が伝わってきます。水をかけるたびに、静かに、静かに伝わってきます。たぶん、この暖かさが心地よいのだと思います。
最近、外のサウナに入る時、色々試行錯誤を繰り返しています。最初は、強い火力でストーブへ薪を入れますが、一定の温度になった後は、白樺の薪を少しずつ入れています。白樺は、あまり火力が強くありません。ですから暖炉に薪を入れるときは、厳冬期は、白樺は、室温を期待通りに上げてくれません。暖炉は、ナラ、タモが、回数も少なくてすみ、火力も期待できます。反対に薪のサウナは、残火の火力のように、細い白樺を時間をかけて燃やし続けると、理想のサウナ室になるのではないかと、今更、色々、温度の変化を試しています。いずれにしても、サウナ室を出て、羊蹄山を眺めながら、小瓶のビールを飲むひとときは、最高です。
2026ー03 大きな木伐採
ニセコのコテージ、築35年を過ぎると、当然まわりの木も成長します。建築当時、道路から敷地に入ると一面、熊笹と細い白樺に覆われていました。基礎工事のために熊笹を刈って遣り方をだしスタートしました。緩やかな登り坂の奥に、建設地を設定しました。この時点でまだ、シルバーパインのログは、フィンランドを出発していません。この時、建設のために切り倒した樹木は、わずか1、2本でした。年数を経て、庭の白樺は、我先にと、どんどん上へ伸びていきます。太くなれずに上へ行きますので、ヒョロヒョロの白樺では、様になりませんので、間伐が必要になりました。30本は、伐採したと思います。いつの間にか、チェンソーも難なく使えるようになりました。暖炉の薪は、全く不自由なく自分の敷地内で、入手できています。家の周りは、くるみの木も多く育っているので、いつもエゾリスが、庭を走り回っています。秋の枯葉の片付けは、いつも大変ですが、伸びた枝が、屋根にかかり、屋根にも落ち葉が多く降り注ぎます。雪のあるうちに、この枝をなんとかしようと今年、一大決心をして、まずは、建物の北側の大木を伐採することに決めました。20メートルは有にあります。幹は直径50cmを軽く超えています。さらに上で3本に大きく分かれています。見るからに大変そうです。友人と二人で、75歳を過ぎた祖父のやる仕事ではないことを自覚しながら、まず、ビデ足場を2段組みました。梯子を木に掛けて高いところの枝にロープを縛ります。安全な離れたところの木にロープを縛り付けチェーンブロックを用意してまず、倒す方向へテンションをかけます。足場に登り、チエンソーで切り込みを入れます。程よく切り込みが入ったらチェンブロックで引っ張りながら切り込みを深くしていきます。1本目の枝は、少々思った方向ではなかったですが、程よく切り倒しました。友人が、これ以上倒すのは無理かもしれないと、言い出しました。屋根に上がって、再度検討です。大丈夫倒せる、再び作業開始。今度は、屋根からの作業。枝切り用の長いマキタのチェンソーの登場です。これが結構優れものでした。小さいのに力が強くどんどん幹に食い込んでいきます。18Vx2の力です。エンジンのチェンソーに負けていません。予想外の速さで、切れたので、倒れるのではなく、真っ直ぐ下に落ちました。結果オーライでした。3本目は、思った方向ではなく、屋根に倒れました。これも、屋根に雪が残っていましたので、どこも傷つけることなく、無事、伐採終了です。我々の仕事は、いつもこんなもんです。普通、薪のサイズ、40cmの輪切りに刻んで運ぶのですが、過酷な労働で、チェンソーは焼けついています。大きく切り分けそりで運搬です。重労働を終え、外のサウナで疲れを癒します。ビールを飲みながら、残った幹を見ながら少し景色の変わったことに気づきます。静かに外が暗くなっていきます。35年この景色を見ていたんだなと、少し、幸せを感じます。
2026 ニセコ 屋根の雪下ろし
築35年を、迎えたニセコのシルバーパインのコテージ。フィンランド人は、多くの人々が、週末を過ごすログハウスを持っています。そのフィンランド人の憧れのログハウスがkelohonka希少な立ち枯れのパイン、通称シルバーパインのログハウスです。私は、横浜から船に乗って、シベリア鉄道を経由して、フィンランドと関わって今年で55年になります。当時大学生で、休学して1年ヨーロッパ、アフリカ、アジアを旅して帰国しました。大学生活を終えて、また、フィンランドの大学の学生生活をはじめました。遠い昔の話ですが、日本へ帰ってからは、就職して、それから1984年暮れに、自分の会社を立ち上げました。フィンランドで関わった人々に助けられ、建築関係の輸入を手がけるようになりました。設計業務の仕事と並行して、当時有名ではなかったサウナ事業、ログハウス、木製サッシ等、フィンランドと関係の深い仕事をこなしました。日本は、バブルの最盛期でした。ものすごく多きなプロジェクトに関わらせていただき、フィンランドからの、材料の輸入を一手に引き受けました。約5年の期間中、一番忙しい時は1年間、2週間、フィンランド、2週間日本という生活を続けました。今から思うとメチャクチャな仕事人間でした。そんな中、フィンランドの友人から、お前も少しはフィンランド人のような生活をしろと言われました。フィンランドの学生時代、何の根拠もなく将来自分のコテージを建てようという夢を持っていたことを思い出しました。当時、リゾートブームでしたから、早速、建設地を絞りました。スキーリゾート、将来的に残るのは、ニセコと判断して、知人のつてで、土地を手に入れました。サンタクロース村で有名な、ロバニエミ市のゼネコンの知人は、コテージを立てるなら、シルバーパインのコテージに限る、材料の手配、建築は我が社に任せろということになって、大きなプロジェクトの苫小牧のゴルフ場と、ニセコの建築現場へ足を運ぶ毎日となりました。5月の頭に基礎工事を終えて、フィンランドで加工組み立てを終えたシルバーパインは、解体してコンテナに積み込まれ、長旅を終えてニセコへ到着です。それから、過酷な仕事をこなして、翌年3月の竣工を迎えました。それから35年、多くの、気の遠くなるようなメンテナンスを経て、今年も、恒例の屋根の雪下ろしを迎えました。札幌同様、今年は、大雪でした。屋根の谷で深いところで2mはありました。11人の集まってくれたメンバー、流石に1日では終えることができず、翌日の午前中までかかりました。みなさん、疲れ切ったと思います。参加していただいた面々に感謝の気持ちしかありません。夜のサウナ、飲み会、集まれる場所として、楽しんでもらえるコテージは、疲れを、置き去りにして、空間、楽しい時間を今年もまた、共有できました。
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2025-10 ニセコ サウナ小屋
10月、今月も終わろうとしています。暖かい季節にフィンランドへ行こうと思っていましたが、未だ一定の仕事量が入ってきません。当社の一番の輸入品である、木製窓の工場も、久しく訪れていません。DOMUS社のときは、仕事以上に、社長と世間話というか、顔を見るだけのために、年に最低1回は時間を作っていました。親友を失うことは、フィンランドへ行く動機さえも薄れさせています。そうは言っても、何とか年内には行こうとは、思っています。
ニセコもそろそろ、落ち葉の片付けを終える季節になってきました。何せ、落ち葉の量が多いのです。くるみ、白樺がメインですが、毎週末、一輪車で4、5回運ぶ量の落ち葉が、石畳一面に広がっています。リスも、くるみ、栗を集めるべく、忙しく動き回っています。
この季節になると、外のサウナ小屋のストーブに薪をくべるのも、夏ですと30分かからずに入れるのに、1時間近く薪を炊いていないとあたたまりません。小屋の外には、薪を積んでいるのですが、防腐の材を敷いて薪を置いています。この材料でも年数が経つと腐ってきます。同じことの繰り返しに今回は少々嫌気がさしてきました。下段の薪が濡れるのも気になっていました。そこで、思い切ってコンクリートの基礎を打つことにしました。旧東ドイツ製のコンクリートミキサーを車庫から取り出し、セメント、砂、砂利をホームセンターから買ってきて、作業の開始です。周りを掘って、型枠を廻して、鉄筋を組んで、コンクリートを流し込みます。コンクリートミキサー1回で多分0.5立方メートル位のコンクリートが出来上がると思います。モルタル用のバケツで4、5杯分です。これを1輪車に乗せ、運びます。これを何度か繰り返して、ようやく基礎へコンクリートを流し終えます。
とても年寄りのする仕事ではありませんが、コテージのメンテナンスを30年以上続けていますので、体が慣れているのと、年はとっても、性分ですから適当な仕事が嫌いなので、老骨に鞭打って続けています。週末を優雅に過ごす雰囲気は、日中は全くありませんが、サウナに火を入れ、体が温まったら、外のベランダに腰掛け、瓶ビールを飲みながら、羊蹄山を眺めるのは、まさにリゾートの休暇です。
11月に入りましたら、裏のベリー類の冬囲いです。雪が多いのでしっかり囲わないと、ブルーベリーは枝が折れてしまいます。除雪機の整備も終えて車庫に、いつでも出動できるように待機しています。以前は、除雪機の整備も自分でやっていたのですが、ハイブリットになると、ベルトの交換も複雑で大変ですので、これは専門の会社にお願いしています。ただし除雪は、自分でやりますので、また大変な季節の到来です。
2025-09 ニセコ 石だたみ スロープ
9月、今月も今のところ出張の予定がたちません。ニセコ、久々に週末、石畳の補修をしました。石畳の工事を始めたのは、1997年コテージが、竣工してから、6年目でした。その前は、基礎がコンクリート剥き出しでしたのでフィンランドから取り寄せた暖炉用の石Raakakiviをこば積みして仕上げました。恐ろしいモルタル量でした。
石畳の石は、もちろんフィンランドから仕入れました。約10cm角のサイコロいわゆるぴんころ石です。フィンランドの岩盤によく見かける花崗岩です。比重は、2.6 ですから1個2.6kgあります。ヨーロッパでよく見かける石畳は、並びが均一で、私には面白くないので、前庭のマンホールの蓋の円から、放射状にパターンを広げることにしました。
最初は、ブルトーザーでスロープを平にしてもらい、砂利を敷いて転圧して、山砂を10cmくらいに敷き詰めてもらいました。普通の砂ですと、石を敷くとき反発力が弱いそうです。ここからは全て、私一人の手作業です。フィンランドから、コンテナに小型の200vのコンクリートミキサーを入れてもらいました。
最初の仕事は、石畳スロープの縁石の設置のための縁石の基礎作りです。ダンプトラックに今度は、普通の砂を運んでもらい、コンクリートミキサーで生コン作りを繰り返します。基礎ができたら、縁石をモルタルで固定していきます。縁石が完成したら、いよいよ石畳に取り掛かります。釘で山砂に円を描きながら、一個ずつ石を配置していきます。セットハンマーで少しずつ埋めていきます。何列か出来上がったら、砂を石の間に入れて、手で隙間を固く埋めていきます。均一に上から砂を撒いて、平プレートランマーで締め固めます。
仕事をしていますので、当然作業は週末しかできません。この繰り返しをして、門までたどり着いたのが、2000年7月、3年以上の年月を要しました。使った石は、24、600個、縁石は、750m、建物横のスロープは縁石を敷き詰めて仕上げています。実に使った石の総重量95トンです。
輸入の仕事をしていますので、当時2ヶ月おきにコンテナが、入ってきますので、その中に、丈夫な袋に入った石を3、4袋コンテナの隅に納めて運びました。
当時は、門の左側に別棟の倉庫をログハウスで建てる予定でしたので一部部分は、縁石が欠損していました。時間が経つと縁石がないと石に押されて沈んでいきます。
今回、倉庫の予定も無くなったので、縁石を繋げることにしました。基礎になる部分を掘って、型枠をつけて、コンクリートを打設します。当時、ニセコは、ダンプで砂を注文できたのですが、北海道新幹線工事で、砂の大きな注文ができません。ホームセンターから、20kgの砂を買わなくてはいけない時勢です。縁石をセットして、石畳の補修にかかったのですが、暑さのせいもあるのですが、かなりの重労働でした。20年以上も前、若かったとはいえ、今更、よくこの石畳を完成させたと思います。
2025-08 ユーレイルパス
8月は、遠い昔、ストックホルムでの2ヶ月間のアルバイトを終え、少し隣りのフィンランドを1週間旅して戻り、ストックホルムから、いざヨーロッパへの旅立ちの月でした。ストックホルムでは、最初アパートを借りていましたが、夏季、大学の学生寮が、2ヶ月貸し出されるという情報を得て、早速申し込み部屋を借りることができました。当時お決まりの、皿洗いの仕事を得まして、2ヶ月旅の資金を稼ぎました。最初は大手スーパーマーケットの社員食堂の昼食の片付けをしていましたが、チーフからもっと稼ぎたかったら王立公園横の、レストランの夜の仕事を紹介してくれると言われ、昼、夜働きました。土日は、夜の仕事だけなので、近くの市庁舎へよく行きました。今ではノーベル賞の受賞者の晩餐会で有名ですが、当時は観光客もまばらでした。私は、建築学科の学生でしたので、設計者のラグナーヨストベリを北欧の有名な建築家と知っていましたから、結構お気に入りの場所でした。
時には、土日の昼間も働き、レストランですから、食費も浮きます。さらに、土日は、時給が倍になります。かなり旅行の資金は貯まったのと、働きすぎで少々飽きてきました。ですから、8月の旅立ちは必然でした。
日本を出る時、父から3ヶ月のファストクラスのユーレイルパスを、餞別でもらっていましたが、まずは、ヒッチハイクからスタートしました。デンマーク、西ドイツ、東ドイツ、オーストリア、ユーゴスラビアと、ヒッチハイクの旅は順調でこのまま行くとイタリア、ギリシャに着いてしまいそうな勢いなので向きを変えて、各国のビザを取りながブルガリア、ルーマニア、ハンガリーと列車を使い、オーストリアからユーレイルパスを使い始めました。
日本を出る時は、初めての海外なので何も分からず、スーツケースでしたが、これでは身軽に動けないので、当時最新のアルミフレームのノルウェーのキスリングを買って、寝袋を括り付けての旅姿でしたから、車内で早速乗客に呼び止められました。君ここは、ファストクラスですよ。普通車両は後ろです。荷物は棚に上げていたのですが、若者の席ではないと思われたようです。当時、ヨーロッパの列車は、バカンス、クリスマスシーズン以外は、混んでいませんでしたので、コンパートメント車両の一室をほぼ独占できました。椅子を倒して、6席をフラットにしてシーツを敷きます。動くホテルの寝室完成です。
今は廃刊となった、トーマスクックの時刻表をかかえ、夜出発して、朝到着の都市を探します。スーパーで、夕食、朝食の買い出しをして、列車に乗り込みます。食事を済ませて、睡眠。朝、到着した駅で、リュックを預け、カメラの入ったショルダー一つで、夕方まで市内をひたすら歩き回りました。2日に一度はユースホステルに泊まり、シャワーを浴びて、洗濯。この繰り返しをして、ユーロッパ中を駆け巡り、3ヶ月のユーレールパスで、車中30泊で、旅を続けました。だんだんとヨーロッパの地図が頭に入り、パズルのように2つの都市を結べるようになりました。旅行中、長く泊まったのは、スペインのグラナダだけで、ほぼ、1泊2泊の旅でした。グラナダのアルハンブラ宮殿は、私の高校生時代からの憧れの建築で、1週間毎日朝から閉館まで通い詰めました。
この年、ニクソンショックでドルが暴落、アメリカ、カナダの若者の旅行者はドルの両替ができず、何日も銀行で待っていたようですが、幸い私は、スェーデンクローナを持っていたので、難なく旅を続けることができました。スペインでは、洪水で列車が大幅に遅れ、食料の配給があったのですが、ワインも配られ、流石スペインと思いました。数え上げると3ヶ月ですから、色々ありましたが、ユーレイルパスを、使っての列車の旅は、ヨーロッパの地理を体で覚えさせてくれた、若いからできた貴重な体験でした。
今また、ゆっくりとヨーロッパの列車の旅をするなら、食堂車のある列車に乗って、車窓から、移りゆく景色を眺めてみたい気分です。
2025-07 新緑のフィンランド
5月、久々に新緑のフィンランドを訪れようと予定を立てたのですが、予定していたほどの仕事が入らず、ダラダラと二月が経ってしまいました。毎年作っています卓上カレンダーの写真に、また新しい風景を加えることができず少々残念です。7月、8月は夏休みで航空運賃が高騰するので、はなから除外です。次は9月を一応予定に入れておきます。旅のスケジュールを組むだけで、気分は上向きますので良しとします。
気持ちを切り替えて、友人と力仕事に精を出しました。ニセコ、庭の白樺の大きな木を3本倒しました。これで、来年の暖炉の薪を確保です。伐採で思っていた以上に、サウナ小屋からの羊蹄山を望む景色が良くなりました。
6月は、大学時代の同期がニセコに来てくれたので、久々に昔の大学生活を思い出して、夜中までグラスの氷を何度も入れ替えました。全国的に、学生運動が、激しさを増した躍動?の時代でしたが、何の根拠もない可能性を信じて生きていた、世の中が今より良くなる、錯覚さえ感じ取れる、ある意味とても良い時代でした。昔、学生時代に休学してヨーロッパの旅へ、旅立った時も同様でした。若者に対して、社会が寛大でした。美術館、博物館はグリーンカード(学生証)を、提示すると半額あるいはフリーでした。学ぶことに対して、優しく、寛容に見守ってくれていたような気がします。遠い昔の話です。
この時期、フィンランドは、日没も遅く最高の季節です。東のロシアとの国境にも近い、一番大きな湖SAIMAAサイマーは、どこから見ても絵になります。森と湖の国そのものです。湖沿い、森林を這うように走る国道、林道、風の少ない国ですから木々は、実にまっすぐ伸びています。
昔、ヒッチハイクをしながら、ここで、写真を撮っていると、1台の赤いルノーが止まりました。前席には、ご夫婦、後部座席には小さな女の子と男の子が乗っていました。 窓を開けてご主人が話しかけてくれているのですが、何を言っているのか解りません。奥様が、英語で私たちは、これからIMATRAという町に帰るところだけれど、よかったら乗っていかないかと言ってくれました。私を、助手席へ奥様は子供達と後ろの席へ移られました。
私は、このお宅に2泊もさせていただき、専門が建築ということで、イマトラ市にある世界的な建築家アールトのVuoksenniska教会へも案内していただき、湖岸の市のサウナへも連れて行っていただきました。ご主人は、全く英語が話せないのに、一所懸命会話を成り立たせようとしてくれました。
この、GRÖHN一家との出会いがなければ、大学卒業後、再びフィンランドへの留学にも結びつかなかったと思います。もちろん 3年後の留学時、その年のクリスマスには、再びイマトラのグローン家を訪れ、覚えたてのフィンランド語で、ご主人とも何んとか会話を成立させました。現在50年以上も、この家族との交流は続いています。素朴な、田舎のごく普通の家族、私の頭の中には、昔のフィンランド人のイメージが、この家族を通じて生き続けています。フィンランドが、目まぐるしく変化していっても、多分、大好きな国に変わりはないと思います。
2025-04 旅立ちの季節
4月は、私のイメージは、今でも旅立ちの季節です。1971年、信じられない50年以上前、横浜港、大桟橋より、当時の青函連絡船より小さなソ連邦のバイカル号に乗船しました。当時、横浜港でバイトしていましたので、海外の大きな豪華客船に、仕事で宿泊したこともありました。ですから、その船と比べると質素というか小さな船でしたが、初めての海外ということで、気分は高揚していました。横浜を出港して一泊、未だ日本、津軽海峡通過、船中2泊でナホトカ港へようやく到着です。今はもう伝説に近いシベリア鉄道に乗って、モスクワに到着。当時は、旅行会社の駐在員の方が、まだモスクワで対応して下さり段取り良く市内観光ができました。モスクワからまた列車に乗り、フィンランドとの国境で、うそのような厳しいソ連の税関の検査を受けて、憧れのヨロッパの入り口、ヘルシンキ到着でした。
大学2年を終え、各地の大学で学生運動、混乱していた社会に少々嫌気がさして、ヨーロッパの国々を、自分の目でみたくなり大学を休学して出かけました。
先日、50年前の出来事で、テレビで浅間山荘事件を取り上げていました。私はこのときは、日本へ帰る途中で、バンコクで事件を知りました。あの事件を、当時の学生運動と同一視して捉えられることには、今でも私は、抵抗を感じずにいられません。よど号ハイジャックと同様、あれは、殺人、強盗事件で、主義主張を語るれべるのものではありません。
一年のヨーロッパ、北アフリカ、アジアの旅を終え日本へ帰り、復学して大学生活へ戻ったのですが、嘘みたいな、平穏な日本社会にあぜんとしました。細々と、成田闘争が、続いていただけです。私は、日本において、革命という言葉は、幻想だとおもっています。ですが、あの当時の若者は、自分が動くことによって、世の中が変わるかもしれないという、淡い期待をもっていました。少なくとも、真剣に生きていました。その淡い期待も失せた日本に止まる気もなく、卒業と同時に、性懲りも無く、同じシベリア鉄道経由で 、再び4月に、ヨーロッパへ旅立ちました。それから2年半ヘルシンキでまた、大学生活をすごすのですが、ろくなスケジュールもたてずに、日本を飛び出した私に、1960年代シベリア鉄道で、フィンランドへ渡った、第一世代と言える先輩諸氏は、逞しく生きていて、優しく受け入れてくれました。学生証が降りる前に、ヘルシンキの市営交通の定期券の発行を、直談判で行ってくれたり、学生寮の手続きを手伝ってくれたり、今でもどうして、可能だったのか理解に苦しみます。
時が過ぎて、今では、この時の方々にお会いする機会もありません。昨年も、人伝いに、お一人が亡くなられた報をききました。
我々、第二世代?1970年初期のシベリア鉄道組も、後期高齢者の仲間入りです。私は、何とか現役を続けて、今でもフィンランドとの仕事を継続していまが、取引先の相手も当然、世代交代していきます。一抹の不安ではなく、寂しさを感じますが、今でも私を受け入れてくれるフィンランドの人々との付き合いを大切に生きたいと思っています。
今年は、新緑の季節にフィンランドを訪れようと思います。また何か新しい発見があるかもしれません。シベリア鉄道からつながる終着ヘルシンキ駅。まさか50年以上にわたってこの国と関わるとは、当時夢にも思っていませんでした。
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2025-03 ヘルシンキ地下鉄
昨秋、ヘルシンキを久々に訪れて、地下鉄が西へ、となりのエスポー市のKivenlahtiまで路線が伸びているのに驚きました。エスポー市まで伸びているのは、友人から聞いて知っていました。遠い昔、私がヘルシンキで、学生生活を送っていた時代は、工事は始まったけれど、本当に走るのかという程度の話でした。自分で仕事を始めて、度々ヘルシンキを訪れていた時代は、東へ伸びて行く地下鉄でした。中心部を過ぎるとすぐ地上に出て、地下鉄といっても地上を走る路線でした。スェーデンのストックホルム市は、昔から地下鉄の路線が多いですが、都心を出ると同じく地上を走っています。ですから、今回西の終点まで乗ってみて、ずうっと地下を走り続けるのには、驚きでした。硬い岩盤の地下深く走るのですか、建設費、工期も並大抵ではないことは、容易に想像がつきます。地下鉄開通当時、ヘルシンキ駅から地下のアーケードへ降りるとさらに下へ向かうエスカレーターがありました。乗ると、モスクワの地下鉄ほどではありませんが、深くホームへと降りていきます。エスカレーターを降りホームへ向かう手前に、とても厳つい厚い扉が収納されているのが目につきます。もちろんこれは、防空壕を兼ねた作りであることが想像つきます。
フィンランドでは、今でも法律で、公共建築物を建てる時には、建築面積に対して数%のシェルターを設けることが義務付けられています。昔、建築コンペを手伝ったことがあるのですが、条件のところに、確かに明記されていました。
訳のわからない、アラートが、朝から突然スマホで鳴りだして、『安全が確保できる建物に避難してください。』と、わかったような、責任の所在のはっきりしない、無責任なアナウンスが流れる国とは、大違いです。根拠のない?仮想敵国とは、違い、明らかに昔から、現在のロシアを想定した考えです。
これは、NATOに加盟することによってなされた措置でもなんでもありません。加盟する、しないに関わりなく、辛い冬戦争の経験から、なすべき、国の方向性は、一貫していたのだと思います。
地下鉄の話に戻ります。ヘルシンキ駅から東のITAKESKUSまでの開業が1982年、途中駅、Marimekkoのアウトレットがある駅Herttoniemiへは、行かれた方も多いのではないでしょうか。ちゅうしんぶHakaniem近くの、地下から地上へ出て海を渡りますが、ここも再開発地区で、2007年には途中にKalasatama駅ができました。ヘルシンキも一極集中は、止まりませんね。
今回、西の地下鉄へも乗ってみたのですが、Helsinki市、Vantaa市、Espoo市というヘルシンキ圏の考え方なのでしょうね。調べてみたわけでは無いのですが、どう考えてもこの地下の深さは、シェルターの発想以外にあり得ないと思います。あの岩盤を掘り進むですから、感嘆します。地下鉄を空港まで延伸する予定もあるようですから、また、当然地下を掘り進むのだと思います。
国を守ること、イコール国民を守ることだと、政府が考えているとすると、多少、日本よりは、随分まともな国なのかもしれません。
2025-02 屋根の雪下ろし
30年以上続けています、恒例の屋根の雪下ろしを、今年も無事怪我なく終えました。12月、ニセコの降雪量が多く、少し心配しましたが、1月はさほど降らず2月1日2日で11名のメンバーで、雪を残すことなく下ろし終えました。毎年メンバーが同じではないのですが、皆様ほぼ、ベテラン揃いですので要領よくひたすら雪を下に落とします。大型除雪機で、一人はひたすら落とされた雪を遠くへ飛ばします。幸い敷地が広いので四方へ飛ばせます。お昼はいつも豚汁で一休みです。夕方排雪を終えて、屋外サウナに火を入れます。15平方メートルまでないサウナ小屋ですが、このログハウスは、交互に径の異なる丸ログで積まれていて、フィンランンドでは一社しか作れません。サンタクロース村で有名な、ロバニエミ市に会社はあります。地場ゼネコンで、公共工事から、橋まで仕事を受けます。サンタクロース村の施設は、大部分この会社の仕事でした。近くにあるサンタトンネルも、この会社が受けました。競争入札で、フィンランンド1番のゼネコンを押しのけて、仕事を受けたのですから、腕も確かです。1本、1本旋盤のような機械で表面を、通称ビーバーイーティングカットと呼ばれる加工をします。樹種は北欧赤松ですが、北極圏より北の木のみを使用し、表面を削り落として、芯材のみを使って仕上げる、通称AIHIKIと呼ばれる特別のログ材です。ですから、この屋外のサウナ小屋は、薪焚きのサウナ小屋の中でもストーブに水をかけた後の、体に帰ってくる湿度が絶品です。昨年、フィンランドを訪れた時、このようなサウナ小屋を注文されたら、製作可能かと聞きましたら、AIHIKIのログはもう作っていないそうです。こんな手間のかかるログは、止めだそうです。なおさらこの、サウナ小屋は貴重になりました。
サウナで、過酷な屋根の雪下ろしの疲れを癒し、外で涼んで正面に見える羊蹄山を眺めながら飲むビールの味は格別です。
もし最高のサウナ小屋を、今望むなら、あとはKEROで作るしか方法は残っていません。立ち枯れのログ、通称シルバーパインと呼ばれているログハウスです。参考までに、これは、現在でも金額を問わなければ、手に入ります。
サウナから出たら、居間の暖炉の薪に火をつけて、いよいよ宴会の始まりです。皆様、いろいろの食材を持ち寄り、参加してくださるのですから、私は、なんと素敵な仲間と30年も付き合っていれるのだろうと、ただただ感謝です。
正直、あと何年この屋根の雪下ろしを、私は出来るのか分かりませんが、体力が続く限りは、続けていこうとまだ、思っています。

































