2021-09 ムーミンMoomin
今までムーミンについて書いたことはほとんどなかったと思います。日本にいたときは虫プロのアニメ、ムーミンを楽しくテレビで見ていた程度の記憶です。最初に訪れたフィンランドの時もムーミンは脳裏にありませんでした。次にヘルシンキ大学へ留学を決めたときも、頭は建築の知識以外あまり興味を持っていませんでした。大学で、たまたま同時期留学の同級生の女の子が、童話作家を志していて、ムーミンを称賛していました。日本でブームになっていた割にはフィンランドでは静かなものでした。フィンランド最大の新聞Helsingin Sanomatヘルシンギンサノマトには、確かにムーミンの漫画が連載されていました。この年1974年、ムーミンオペラがヘルシンキ中央駅すぐ右横の、国立オペラ劇場、現在の国立劇場(当時は、現在のTÖÖLÖ湖沿いのオペラハウスが存在していませんでしたので)で初演されています。私は、友人に誘われて子供のためのムーミンオペラを、Bulevardi通りにあるアレクサンテリン劇場で、大勢の子供の中で楽しく観たのを思い出しました。甲高いミーの声がやけに耳に残りました。
自分で仕事を初めて、毎年フィンランドを訪れるようになった頃、家族全員のムーミンのマグカップを揃えました。各人の色を決め、朝食の時はマイカップで食事を楽しみました。現在は、ニセコのコテージの食器棚に収まっていますが、トーベヤンソン自らのデザインのムーミンマグカップですので、信じられないネット価格がついています。そんなこととは関係なく相変わらず普通に使っています。
ムーミンの人形、ムーミン谷の家も自宅の棚に収まっています。地震でグラスは、随分割れましたが、幸いムーミン一家、住まいはなんの損傷もなく全員無事でした。さすが、アラビアの陶器は丈夫です。
我が家のトイレの壁には、ムーミン達のプレートが掛かっています。フィンランドを訪れたとき、楽しそうなので買おうと思いましたが、枚数が多くて重くなりすぎるのと、価格が高すぎました。別の店で見ると、1種類だけセールをしていました。さっそく1枚を買うことにしました。次回訪れた時に別の1枚と買い足していましたが、残念ながら13枚、大中小のプレート途中で生産中止になり全プレートを飾ることは、できていません。特にフローレン(ノンノ)のプレートがありませんので、ムーミンが寂しがると思いますので、次回フィンランへ出張の際探すことにします。
2021-08 アラビア・ヌータヤルビ
2018年、胆振大地震では、我が家も大きく揺れて倒れこそしませんでしたが、食器棚の扉が開いて半分近く、長年、出張のたびに買い揃えていた大切なフィンランドのグラスを失いました。床一面、ガラスの海と化しましたが、幸い誰も怪我せず、特に愛犬がそこに居なかったのには安堵しました。片付けを終えると、乱立していたグラスの棚がすっきりして、グラスを各々きちんと見ることが可能になりました。
フィンランドのグラスを揃え始めたのは、留学時代はそんな余裕がなかったので、出張で訪れるようになってからだと思います。当時、少しワインに凝っていて、私好みのワイングラスがなかなか見つからず、重厚でないシンプルなデザインの、特に赤ワイン用のグラスをずいぶん探しました。そこでアラビアのガラス部門のNuutajärviのワイングラスに出会いました。赤、白各ダースは、ゆうに超えて揃えましたが、これも半減してしまいました。
年に何度かフィンランドを訪れるのですが、必ず仕事で向かうのはヘルシンキから西へ120kmに位置する、ロイマー市という小さな町です。かれこれ、30年は通ったでしょうか。行きはトゥルク方面への高速E18を走りますが、帰りはいつも内陸の国道E63、高速E12を使いヘルシンキへ戻ります。帰路は、イイッタラの工場に立ち寄るのが目的ですが、時々少し道を逸れてヌータヤルビにも立ち寄ります。イイッタラに比べたら小さな工場ですが、現在でもアート作品等制作していますが、イイッタラに併合されてからは、過去のグラスはもう生産を終了しています。ショップは併設されていますが、アラビア、ヌータヤルビというブランドさえイイッタラと混同して訳がわかりません。
秋から冬になると、アイリッシュコーヒーの似合う季節になります。私は、いつもフィンランド出張の折、定宿のホテルのバーで飲んだ後は、このコーヒーを飲んで部屋へ戻るのを常としていました。ニセコのコテージでも、寒い季節は、来客にアイリッシュコーヒーを振る舞います。そこで、活躍するのが、もう一つヌータヤルビの好きなグラスである細長いコーヒグラスがあります。アイリッシュコーヒー専用グラスとして重宝しています。上にホイップクリームをフロートさせた後の飲み口が絶妙で、お気に入りです。ただ数をあまり多く持っていませんので、コロナが明けたら、アンティックショップを探して見つけようと思っています。毎年作っているフィンランドの景色の卓上カレンダーの写真も使い果たしましたので、写真アングル考えながら動かなくてはいけません。やらなくてはならないことが、まだまだあります。2年間行けていない友人の墓に、日本のウィスキーも添えなければなりません。
2021-07 本場の白樺 ビヒタ復活
6月、ニセコ、サウナ小屋横の2本の白樺の大木を1本伐採しました。大きくなりすぎて万が一倒れてきて、建物を痛める恐れがでてきたからです。というのも、この滝台地区はニセコでも風の少ない場所だったのですが、開発が進んで、裏山にも手が延びてきました。秋には落葉がたくさん取れたカラ松林が見事に消滅しました。結果、裏の2本の栗の木の枝が、秋の強風で無惨な姿になりました。よって伐採を決めました。この白樺、25年ほど前、帯広の造園屋さんが、タネから育てたフィンランドの白樺、1メートルほどの苗木を分けてもらったものです。周りにも白樺はたくさんあるのですが、秋、白樺が葉を落としても、この2本だけは遅くまで葉をつけていました。こんな寒さまだまだと言いたげの姿でした。
今、空前のサウナブームですが、サウナに使う白樺の枝葉ビヒタ、日本の白樺は枝が硬くて使えません。若葉で何度も試しがしたが、すぐダメになり香りが今ひとつです。そこで、フィンランドからビヒタをコンテナに入れてみましたが、枝葉のついた木材は、規則で燻蒸しないと輸入出来ません。渋々規則に従うと、パサパサになり叩くと葉がほとんど落ちてしまいました。
フィンランド、田舎では夏至にもサウナに入ります。薪ストーブのサウナにはビヒタが必需品です。5月の第三金曜日に取ったビヒタが一番葉がが良いとか、色々伝授されました。そこで今回、伐採した白樺からビヒタを作ろうと思いました。大木なので枝の多さに閉口しました。気を取り直して20本ほど、作りましたが、終了です。翌週大雨が幸いして、また少しビヒタに使える枝葉が残っていました。早速、外のサウナ小屋に火を入れ使ってみました。枝のしなり、香り、完璧なビヒタです。
今回、今更分かったことは、陰干しの重要性です。日の当たるところに吊るすと、葉がすぐ茶色になってしまいますが、日陰で保存すると葉の緑色が持続されることです。ワインセラーにも置いてみましたが、湿度があってまずいかと思いましいたが、緑を保ち、室内が白樺の香りに包まれていました。
伐採した、フィンランドの白樺のおかげで当分、ビヒタには不自由なく外のサウナを楽しめそうです。早くコロナのワクチンが行き渡り、蔓延防止の地域がなくなり、ニセコのサウナをみんなで楽しめる季節の到来を切に望みます。渡航制限が解除されて、再び、フィンランドを訪れる日を心待ちにしています。
2021-06 ARABIAアラビアの食器
二年前の4月、(思い起こすとフィンランド関わって2年以上フィンランドを訪れなかったのは、1974年以来、初めてです。)アラビアの工場跡地のイイッタラのショップに足を伸ばしたとき、面白いコーナーが目に留まりました。新製品ではなく懐かしいアラビアの品々が並んでいました。不思議に思って尋ねますと、家庭で使われていた食器の販売でした。不要になったコーヒーカップ、プレート等を使用者が持ち込み、廉価で販売代行をしているとの事です。一時のイベントのつもりが、評判がいいので持続するとの事でした。よい話を聴いたと思い、時々このコーナーを尋ねてみようと思いました。それが、想像をはるかに超えるコロナの蔓延、イベント自体が持続しているかどうかも解りません。
私が、ヘルシンキの大学へ留学を決めたのが1974年、学生寮に落ち着いたのが、夏でした。早速、まず食器を揃えようと知人の伝手でアラビアの工場へ向かいました。迷う事なく、セカンドメイドから物色しました。パラティーシのマグカップとカイラ のスープ皿、平皿、コーヒーカップです。1972年から1979年に販売されていたAnja Jaatinenのデザインです。KAIRAとはラップランドの荒野のイメージだと思います。黒、こげ茶、紺色の直線のシンプルなデザイン、もちろん工場では、職人が一つ一つ手書きで製作が行なわれていました。ですから、一枚の微妙な違いが味でもありました。とても気に入っている食器なので、 今でも時々使っています。ただ、枚数が少なく、食洗機で洗うのでよく見ると、傷だらけです。もう少しカイラが欲しいと思っていたので、絶好の機会を捕えたと喜んでいたのですが、ショップを訪れる機会はいつになるやら。
アラビアの食器の優れているところはともかく丈夫な事です。特にこの時代のは肉厚です。余談ですが、パラティーシは現在でも人気があり白黒、カラーシリーズが販売されていますが、プレート、コーヒーカップの裏を見てみてください。時代ごとにARABIAのロゴは変わっていますが、決定的な当時との違いは、裏側のデザインがカラーでない事です。当時のものは鮮やかな表と同じカラー仕上げです。
アラビアの親会社は、バルツィラといって北欧きっての造船会社でした。社風が面白くて、船で使うものは自前で作る主義でした。陶器で言うと食器から便器までです。船舶エンジンから、陶器迄作る発想は実に面白いと思います。揺れる船の中でも支障なく使えるのですから、丈夫なわけです。
造船業はもちろん、今でもヘルシンキで客船から砕氷船まで、作られていますが、親会社は他国に移り、当時の栄華はありません。陶器のアラビアも名前こそ残っていますが、イイッタラの傘下で、あの時代を生きていた私は、懐かしさの感慨と同時に切なさを覚えます。
2021-05 セピア色の旅の記憶-9 インド
エジプトでの一ヶ月の滞在期限が近づきました。延長するにはドルの支払いが必要です。親との約束の一年間の旅も終盤ですが、旅を続ける費用も少なくなり、最後の手段で親に、エジプト航空のカイロから日本への航空券を送ってもらいました。今考えると、安い切符もない時代にすぐに手配してくれたと思います。今さらながら感謝です。当時の南回りの飛行機は直行便などありません。まず、カイロからボンベイ(現ムンバイ)です。ボーイング707、4発の単通路3+3席です。座席上の荷物の棚はまさに棚です。扉等もちろんありません。その狭い棚に、入るわけの無い大量の荷物を、乗客のインド人は、スチュワードの制止も振り切り押し込み続けます。ようやくインド到着です。
2月のボンベイは、湾からの蒸し暑い風が吹いていました。ボンベイからデリーを目指し列車に乗りました。夜汽車で一泊2日の旅を想像していましたが、3度日が沈みました。デリーではホテルというよりインド人の利用する宿に泊まりました。ここは、結構面白かったです。デリーの次は、憧れのタージマハールを、めざして、定刻にホームへ入ってきた列車に乗りました。何時間経ってもアグラへ着きません。どうやら南ではなく北へ向かった列車みたいです。乗換えようと思っても、反対方向の列車はなかなか来ません。友人と暇つぶしのトランプを延々と続けました。ようやくアグラへたどり着いたのは、夜になってからです。駅を出ようとすると、駅員に呼び止められました。駅長室へ連れて行かれ、切符を見せろと言われました。不正乗車だから、罰金を払えとの剣幕です。切符の有効期限を尋ねると2日間、問題ありません。検札の印がないと言うのです。堪忍袋の緒が切れました。検札など一度もないし、指定されたホームで待っていて別の列車が来る。おまけに、くたくたになって到着して不正乗車呼ばわりされておまえの国はどうなっているんだ。延々と叫び続けるこちらの剣幕が予想外だったようで渋々開放されました。
私は、イスラム建築が好きで、アルハンブラ宮殿と同等に評価されるタージマハールにも憧れ2日間訪れましたが、美しさ以外にわくわくする感動は得られませんでした。人間が生きていたという生活空間の無い建築は、空しさを感じました。
私は、日本人なので、仏教の聖地も行ってみようと、悟りを開いたというブッダガヤ等も訪れました。菩提樹の下では、ヨーロッパ人らしき人がひたすら祈っていました。バラナシ(ベナレス)ガンジス川の沐浴は、カルチャーショックを受けました。カジュラホでは、生々しい彫刻の寺院、ヒンドゥーと仏教の違いをまざまざと感じました。今にして思えばめちゃくちゃなルートのインドの旅でした。コルカタ(カルカッタ)に着いた時に飲んだミルクティーのおいしさは今でも覚えています。友人とダージリンティーを買いにダージリンへ向かおうと決めました。当時もインドと中国は仲が良くなく、ダージリンの手前にタイガーヒルという軍事拠点があるので、市役所で入林許可書を取らないとすすめません。どこの放送局か覚えていませんが、一週間待っているという話でした。そんな時間は、我々にはありません。インド人に別の役所を紹介してもらいあっさりと許可書を取りました。コルカタから飛行機でバッグドグラへ、空港では恐ろしいほどのボディーチェックでしたが、機内ではみんな操縦席へ次々といっています。私たちも続くとヒマラヤ山脈の素晴らしい景色がコックピットの窓から見る事が出来ました。当時は何も問題無くコックピットへ入れる、のどかな時代でした。ダージリンへは、空港からジープのようなタクシーに相乗りで向かいました。ダージリンでは、二日過ごして待望のダージリンティーを現地で仕入れました。標高が高いせいか沸点が低いので、期待と違いあまりお茶はおいしいと感じなかったのを覚えています。ただ世界第三峰カンチェンジュンガが、雲の上にそびえていたのは、実に美しかったです。
セピア色の旅の記憶は、旅行中写したスライドフィルム3600枚から思い出していますから、まだいろいろ有りますが、セピア色がさらにくすむ前に終えようと思います。6月からは、まだ収束が見えず、いつ行けるか解らないフィンランドですが、フィンランドの話を再開しようと思っています。
2021-04 セピア色の旅の記憶-8 エジプト
スゥエーデンで知り合ったカイロ、アズハル大学の学生の奨めでエジプトへも行くことを決めました。1971年の年末、アテネの空港を出発しカイロへ到着です。友人とピラミッドの頂上で初日の出を観ようと約束していました。ピラミッドのあるギザ市のユースホステルで合流、早速ピラミッド見学。残念ながら夜間はピラミッド登頂禁止でした。作戦の建て直しです。元旦は逃しましたが、警備の薄い裏側からの登頂を決断。当然観光客が上れるように階段などついているはずがありません。おまけに、友人は高所恐怖症でした。夜である事が幸いして励ましながら、背丈よりも高い石を数えきれないほどよじ登り2,3時間かけて頂上へたどり着きました。想像していたよりも小さな空間でした。隣のカフラー王のピラミッドがやけに大きく見えました。夜は寒いと訊いていましたので寝袋とユースホステルから借用した毛布は持参していましたが、とても熟睡できる気温ではありませんでした。それでも元旦ではなかったのですが初日の出はしっかり観ることが出来ました。広大な砂漠から,ピラミッドの影を写しながらの日の出は、努力の甲斐がありました。程なく現地のガイドが上ってきました。こちらもびっくりしましたが、ガイドも驚いていました。すごい剣幕で怒鳴っていましたが、私たちは日本の建築科の学生と説明するとOKとそれだけ、のどかな時代でした。帰りに日本大使館によって日本の新聞を読ませて頂いて、その話をすると、そんな馬鹿な話聞いた事がないとあきれられました。
ギザのユースホステルでは、南京虫に悩まされ辛抱の限界で、カイロ市内の安いホテルへ移動しました。中心部の開放広場では、歩道橋の建設真っ盛りでしたが、寸法の誤差を気にせず大ハンマーで無理やり繋ぐいい加減さには驚きでした。この広場から出発するギザのピラミッド行きのバスに毎日乗って、友人の紹介で砂漠の乗馬を楽しみました。ピラミッドを背景にひたすら、ほぼ馬まかせで砂漠を駆けるのは実に楽しかったです。毎日通うバスは、当時前が一等、後ろが二等でした。もちろん料金は異なります。車掌さんが混んでいる車内をぬうように料金を集めます。停留所を出発すると、乗客が騒ぎ出します。どうやら 車掌さんが乗り遅れたようです。ある時は、いつもと異なるルートを走ります。停車して、クラクションを鳴らします。店から店員が出てきてお茶を渡します。飲み終えるといつものルートに戻ります。毎日が、実に適当でイスラエルにいつも負ける理由が解ったようなきがしました。
カイロからルクソールへ向いました。列車は、すごく混んでいてドア以外、窓からさえも乗車するすごさです。駅を出発する時、見送りの人々の発する声を聞いて、映画アラビアのロレンスの場面が浮かびました。ルクソールでは、もちろん王家の谷へ足を運びました。自転車でホテルへ戻る時見た夕日は、今でも表現しがたい美しかった記憶があります。王家の谷では、日本の発掘隊が調査をしていました。鈴木こんなところで何をしているんだ。突然声を掛けられました。調査隊のメンバーに大学の先生がいました。偶然は、忘れ難い思い出もつくります。
2021-03 セピア色の旅の記憶-7 イギリス
初めて,イギリスに渡ったのは、1971年の多分、夏の終わり。パリ北駅を出発したのは、覚えていますがドーバー海峡のどこの港かは全く覚えていません。着いた港から駅に向いロンドンまでの切符を買おうとしたら、シングル?と聴かれ片道かという理解に迷っていると冷たく聞き返されました。さらにどこの国から来たのかと、そっけない問に日本ですと答えると急に優しい顔になり、良い旅をと切符を渡してくれました。これが、私のイギリスに対する最初の印象でした。当時、日本のパスポートは、ヨーロッパではオランダ以外、税関も表紙だけ見て、ろくに目を通さないくらい優等生扱いでした。
ロンドンに着くなり、ユースホステル、YMCAは、空室なし。入国初日から宿無し、図書館の庭で寝袋の野宿でした。次の日YWCAなら泊まれると聴き早速チェックイン、やけに女性が多いと思いました。Wの意味がわかっていませんでした。後で、1室だけ男性用で泊まれると知りました。こんなレベルの旅です。大英博物館、内容の素晴らしさに驚き、学生無料には感激しましたが、占領地等のものを取ってきて展示しているのですから,当たり前かとも思いました。それにつけても、イギリスの天候のせいかファサードの重苦しい事、年末にギリシャを訪れパルテノン神殿を見て地中海の太陽の元で初めて大理石は輝くと感じました。
この後、随分イギリスを旅しています。ヘルシンキ大学在学中、父は定年退職して,両親がヨーロッパを見たいという事で2週間ほど一緒の道中再度イギリスへ、父はイギリスに感激していました。古い日本人にとって憧れなのかも知れません。バーバリーでコートを注文、私もトレンチコートを買ってもらいました。貧乏学生には手が出ませんのでこのときとばかりに。
時折フィンランドへ長期出張の時は、ロンドンへ出掛けました。昔、娘の3歳の誕生日が近かったので、とんぼ返りでバーバリーでベルベットのドレスを買ってヘルシンキへ戻ったら、友人からあきれられました。ゴルフ場の大きな仕事をさせてもらった時は、セント・アンドリュースのセンターハウスへ入れていただき、ゴルフをしない私でも楽しい時間を過ごさせてもらいました。近年では、フィンランド航空のストが予想外に長引き、打ち合わせに間に合わずロンドン経由でフィンランド入りした時、久々にヒースロー空港に立ち寄りました。相変わらず乗り継ぎが不便で、税関は愛想が悪く、楽しくない空港でした。過去の栄光にこだわったEU離脱で、私はグレートがぬけたブリテンになっていくと思っています。
2021-02 セピア色の旅の記憶-6 ノルウェー
先日、NHKのBSで欧州大縦断鉄道の旅、ノルウェーからイタリアへ向う列車が放映されていました。最北の不凍港ナルビクNarvikからスエーデンのキルナKirunaを経由して南下する旅です。列車は当然新しくなっていましたが、景色にさほど変化はなく,50年前の記憶をよみがえらせました。
夏を迎え、旅の蓄えも出来て、日本から共に出発した友人とスエーデンで別れ、お互い各国自由気ままな旅を続けていたのですが、偶然オランダのハーグHaagのユースホステスで再会しました。旅の経過の報告がてら、ノルウェーを一緒に旅する事に決めました。オスロ郊外では、ガス欠の車で立ち往生している人に、近くのガソリンスタンドまで車を押すのを手伝ってくれないかと頼まれ、二人で後ろから一生懸命押しました。スタンドで無事補給を終えると、お礼にその町のユースホステルまで送ってもらいました。ホテルの無い田舎では、モーテルが当時から多く在って、値段交渉で安く泊めてくれました。木造教会の点在する地区を見て回り、憧れのフィヨルドも船に乗換え訪れました。夕日と湖、山並みのコントラストは実に絵になります。湖の半ばで、反対側から近づいてきた船が合流して停船、目的地によって乗客が乗換えるのには驚きました。山々はそれほど標高が高いわけではないのですが、緯度が高いので、まるでスイスのような景色に感じられました。列車でさらに北を目指す事にしました。ところが鉄路は国の半分くらいで止まってしまいます。尋ねると,もっと北へ行くには、スエーデン経由で回り道をしないと行けないという事でした。乗り掛かった船、列車です。スエーデンに戻り,北を目指しました。随分時間がかかったような記憶です。Kirna を過ぎて再びノルウェーへ入ると、さかんに貨物列車とすれ違います。短い列車ではなく、かなりの長さでした。昔から、スエーデンの鋼材は有名ですが、教科書に出てきたキルナ鉱山からの運搬列車だと思います。目的地として向ったナルビクは、メキシコ湾流の関係で冬でも凍らない鉱石積み出し港でも有るわけです。
ノルウェーの少しくらい歴史の中には、いち早くこの港に目をつけたヒトラーが、ノルウェーを実行支配し、戦後国民が、戦時の人々の行動に対して反目した時代がありました。
フィンランドも北でノルウェーと国境を接しています。私は、ほぼ最北のフィンランド、ウツヨキUtsjokiを1971年夏に1974年冬に2度訪れています。
私の友人は、ロバニエミに住居が有るのですが、定年後、夏はほぼウツヨキの別荘で暮らして、鮭釣をしています。遊びに来いといつも言われるのですが、なかなかあそこまでは当時以降、足を伸ばせません。(ヘルシンキから北へ約1300KM)
2021-01 セピア色の旅の記憶-5 スペイン-3
昔、旭川高専在学の時、地理の特別授業で、スライドによるアルハンブラ宮殿が紹介された。それ以来、私の脳裏に記憶されたイスラム建築を、いつか見てみたいと思っていました。Madridからcordobaを経由して憧れのGranadaに到着しました。その日は午後の到着という事もあって訪れるのをやめ、まず宿を取りました。もちろんホテルの格ではない通称流れ星、最初から決めていた1週間のステイです。次の日、はやる気持ちを抑えて静かに坂を上っていきました。入場料を支払って門をくぐり中へ入ります。もちろん写真からの想像をはるかにしのぐ、表現することが難しく、ただただ感動でした。まず、写真に納めるのではなく自分の目にしっかりと記憶させたかったのと、アルハンブラ宮殿の空気を感じたかったからです。2日目はスライドと白黒フィルムを用意して出掛けました。当時カラーフィルムは、高価でしたのでたくさんの写真を撮りたいのと、引き伸ばして飾ることも考えました。3日目からは、午前アルハンブラ宮殿,昼にグラナダの町に戻りグラナダ大学の学食で昼食、学生にグラナダの町の話を聴いて、午後は北にある庭園ヘネラリフェGeneralifeへ。水をこよなく愛するイスラム文化は、噴水、池の水の水源を遠くシエラネバタ山脈から求めているという壮大なスケールの庭園です。ここで閉園まで過ごしました。これが毎日のスケジュールでした。獅子のパティオは、白い石が敷き詰められていましたが、その4年後訪れた時は花が咲き乱れていたりしてがっかりした記憶も有ります。
私の好きなのは、華奢なツィンの柱です。この絶妙なバランスがイスラム建築の素晴らしさです。9・11の世界貿易センタービルは、設計者のミノルヤマサキが、こよなくイスラム建築を愛していたからツィンタワーなのです。この気持ちを知ってか知らずか歴史は残酷です。
10月にこの地を選んだのは、姉の結婚式があるので、どうしても私の愛するアルハンブラ宮殿のあるグラナダから祝電を送りたかったのです。生まれて初めての海外旅行、4月に横浜からバイカル号に乗って一泊、津軽海峡を通過時、姉は、父の転勤で函館にいました。函館山から船を見送ってくれたそうです。
1週間毎日通い詰めても、飽きることなく時が過ぎていきました。でも、もうこれ以上長居は出来ません。旅はまだまだ続きます。
グラナダ駅をを後にした時、アルハンブラの思い出がTARGO(スペイン国鉄自慢の特急初代タルゴ)の車内から流れてきました。到着時にも同様のメロディーが聞こえていたのに、なぜかこのメロディーが後ろ髪を引かれるような感慨を覚えたこと今でも、記憶の片隅に残っています。
2020-12 セピア色の旅の記憶-4 スペイン2
何度かのヨーロッパ横断を続け、地中海からではなく、フランスから北部スペイン、バスク州へ入りました。当時も治安が良くないという情報でした。フランコ政権の悪政が当時も人々にしこりを残したのでしょうか。国境駅では随分と停車しました。国が変わると牽引する機関車は変わるのが普通ですが,スペインの鉄道は新幹線より広い線路幅,広広軌鉄道ですから、牽引される車両も車軸距離が異なります。私の記憶では、車軸距離を変える作業で時間がかかっていたと驚いたことを覚えています。サンセバスチャンからサンタンデールへ向いました。途中のBilbo当時はビルバオには、グッケンハイム美術館は存在していませんし、ビスカヤ橋の存在も知りませんでした。いまして思うと、ビスカヤ橋は渡ってみたかった。途中下車することなく、目的はただ一つ、歴史の教科書に載っていたアルタミラの洞窟を見てみようという思いでした。Santanderサンタンデールからローカル線に乗換え、車窓から景色を眺めていると、女子中学生が、私の乗っている車両一杯に乗り込んできました。当時まだ日本人は、珍しくスペイン語で質問攻めです。幸い少しスペイン語を話せたので必死に会話を続けました。目的地を聞かれ、アルタミラの洞窟を見に行くと言うとけげんな顔をされました。面白くないよとの返答です。1時間弱SantaIsabel 駅から徒歩2Km当時は博物館も何もなく、ただただ田舎道の野原が続だけです。少々不安を覚えながらも,通る人に道を尋ねながら歩きました。お粗末な標識を見つけました。これが歴史の教科書にも載っている、かの洞窟なのか。列車を乗り継ぎ、ここまで歩いてきてまた、駅まで引き返すだけの無駄骨か。
半信半疑、中をのぞき込むと人がいました。入場料を取られてたのかどうか全く覚えていません。それぐらい品粗な入り口でした。狭く,薄暗い洞窟というよりほら穴の感じです。少しすると目がなれてきました。確かに教科書に乗っていた絵が上に見えました。中央に寝そべるように上を見上げる姿勢での鑑賞です。何となく満足してアルタミラを後にしました。写真を撮れるレベルの明るさではなかったですし、フラッシュは禁止でした。外はすでに、日が陰り始めていました。駅につく頃には,アルタミラの丘は夕日に包まれていました。
何年か後に、平成天皇御夫妻が、皇太子殿下時代に訪れたのを最後にアルタミラの洞窟は閉鎖されたままのようです。