2020-09 セピア色の旅の記憶-1 ドイツ
ここまでコロナウィルスが、出張を不可能にするとさすが、新しいフィンランドの話題と写真を、見つけることが出来ません。少しくフィンランドを離れて、遠い記憶のヨーロッパを振返ってみたいと思います。今から50年近く前、貧乏人の定席ルート、シベリア鉄道経由で、憧れのヨーロッパへ出掛けたのは、大学2年生を終えて休学して、大陸の空間を自ら感じ取りたかったからです。今でも鮮烈に覚えているのは、当時西ドイツのケルン中央駅で下車して、駅前というか、駅そのものにケルン大聖堂がそびえ立っていたことです。京都駅に清水寺がくっついているような衝撃でした。歴史と生活が違和感なく繋がっていることへの文化の違いを見せつけられた感じです。
次の衝撃は、東西ベルリンです。国境を接するのではなく、東ドイツの中に西ベルリンが存在しているというのは、実感としてピンときませんでした。私は、ヒッチハイクで西ベルリンに入ったので、車のトランクは、当たり前で、大きな鏡で車の下、ボンネットの中までチェックする検問の凄まじさを見て初めて、NHKのニュースの東西ベルリンが頭に入りました。西ベルリンからの東ベルリン見学の更なる検問、地下鉄が、薄暗い東ベルリン駅間は止まらず通過すること、その駅には銃を構えた兵士の存在、明るいイメージは皆無でした。ペルガモン博物館見学の後、素朴なアイスクリームが、とてもおいしかったのを覚えています。
ベルリンの壁が崩壊してから私は、4度ベルリンを訪れています。直後に出かけた時は、異次元の時代が突如くっついた感じでした。地下鉄Uバーンは、新旧混在駅でしたし、Sバーンの駅舎は空爆を逃れてかろうじて残っているようなものでした。どう見ても賢いドイツ人が考えることでは無いと思いました。フィンランドで、仕事を終え日本へ帰る機内で、隣の席は見るからにいかついビジネスマンというドイツ人でした。私は、質問してみました。東西ドイツが一つになったことについての感想でした。彼は、壁の崩壊をテレビで観ていて、涙が止まらなかったそうです。どう見ても泣きそうな感じの方では有りませんでした。昨日まで、逃亡者は容赦なく射殺していたのは、憎しみではなく、体制維持の職務と割り切ってのことだったのでしょうか。根底には、ドイツ国民という誇りなのか、自負なのかが延々と流れていたのかも知れません。少し違う角度からドイツ人を、見た思いがしました。
2020-08ステイホームではなく、本来の家族の過ごし方
コロナウィルスは、現代社会をあざ笑うかのように、おとろえる気配がありません。完熟したかのように言われてきた資本主義経済は、貧富の格差を是正するどころか広げるばかりです。ストレス社会は、外出自粛で個人に、さらにストレスを増長させ続けています。私が、40年以上言い続けてきた『フィンランド人のような生き方を、しませんか』を、今一度思い浮かべてください。
フィンランドは、世界的に教育レベルが高くて、高福祉国家です。私が生活していた1970年代と比べますと、生活が豊かになった反面、都市化は、どんどん進み、国際競争力が増すということは競争社会も生まれ、ストレスを抱える人も増えて、必ずしも憧れの理想国家ではありません。それでも、私がこの国にこだわり続けるのは、もちろんフィンランドが好きということは有りますが、長年付き合ってきた人々の優しさ、自然との関わり、素朴な生活の過ごし方ではないかと思います。身分相応な生き方、つまり見栄を張らず、肩の力を抜いて生きる。独立心の強いフィンランドでは、高校を出るとほぼ親に頼らず自立します。家族関係が、あまりにもあっさりしていて、日本人から見ると驚かされるほどです。私の親しい家族でも、日本的な家族は、1、2家族のみです。でも、子供が小さい時は、家族での移動が普通で、週末のコテージへ出掛けたり、長い夏休みには、コテージでの生活を満喫する、自然と親しむことをごくごく当たり前に過ごすのです。北国ですから、厳しい冬が訪れます。その時は、日本人がハワイへ行くよりも頻繁に、太陽旅行へ南の地中海、カナリア諸島へ家族で旅行します。昔から、今のLCCのような格安航空があって、1週間のホテル代込みの信じられないくらい安いツアーが溢れていました。
基本的に国民は、国を信頼していますから、老後の心配なく安心して、今有るお金を使って、生活を楽しみます。北欧のインテリアが優れているのも、家庭での生活を大事にし、家での過ごし方を知っているからではないでしょうか。
私の友人も随分現役を離れて、年金生活に入っています。驚くのは、大きな会社の経営者だったのに、仕事の未練ではなく、毎日、趣味に時間を使って生活できる喜びを実に楽しそうに、話してくれることです。
一日も早くコロナウィルスの収束を願いますが、今、改めて私は、『フィンランド人のような生き方、始めてみませんか』、と声を大にして叫びたい。家で楽しむこと、家族で生活すること、本来、一番日本人が大切に思っていたことではないでしょうか。
2020-07ガッレンカッレラ ミュージアム
EUが、7月 渡航を受け入れる国に日本も入りましたが、全面緩和の状況は遠く未だフィンランド出張の時期は見えません。先日、フィンランドに住む友人とSkypeでコロナの話をしていたのですが、少々気になる話題が有りました。現在ガッレンカッレラ ミュージアムが閉じているとのことです。私のコラムで以前、2004年6月に取り上げたこの季節絶好のお薦めスポットなのですが(興味の有る方は、古いコラムを読んでみて下さい)。何でも、国かエスポー市か解りませんが、遺族との話し合いが決裂して閉鎖状態だということです。
遠い昔、ヘルシンキ大学で学んでいた時、日本での学生時代と違って毎日、必死に勉強していた時がありました。週末だけは、息抜きに友人と散歩に出かけた青春時代の思い出の場所でもあります。
私の会社名でもありますHvitträskビタレスクは、同じくヘルシンキ中央駅、国立博物館の設計者であるサーリネン達の自邸、アトリエが、隣のエスポー市郊外にミュージアムとして、現在も財団管理で運営がされ、外国人のみならず自国民の歴史スポットとなっています。
ヘルシンキ市堺にあり、より地理的好条件の建物が朽ちることは、私には理解できません。フィンランド史を学んだ私としては、古き良き時代というより、独立を勝ち得て、多くの芸術家達を生んだフィンランドの民俗的象徴のような輝かしい時代の証の建築物でもあります。このような人たちがいたので、独立前の1900年のパリ万博でさえ、フィンランドという存在が知識階級の人々に認められていたと思います。その後、多くの世界的建築家の排出も、この歴史が物語っていると思います。フィンランドの叙事詩カレバラの地は、多くをロシアに割譲されてしまいましたが、カレリア地方の文化は、今もフィンランド人に受け継がれ続けていると私は信じたい。
この、コロナウィルスの蔓延が納まりフィンランド出張が、問題無く旅程を組めるようになりましたら、今一度、ガッレンカッレラの地を訪れてみようと思います。
2020-06 夏至 白夜祭( 夏至祭 )サウナ
未だフィンランドへ出張の予定がたちません。この季節の写真も新しいものが残念ながらありません。私は、週末ニセコに居ることが多いのですが、6月一人又やってきました。一人の時は面倒なので、室内の電気のサウナに入ることが多いのですが、この季節は、やはり外のサウナ小屋に火を入れたいと思います。フィンランド人は、夏至の週末は故郷へ帰る人が圧倒的に多いのですが、今年は、コロナで状況はつかめません。田舎の家々には、煙突から煙が昇り、サウナの準備が出来ていることが窺えます。今年最初の採れたてのビヒタも用意されている事でしょう。取れ立ての白樺の鮮やかな緑、オケの水にしたしてストーブの石に叩くように浸けるとさわやかな香りが室内に充満します。これが夏至のサウナの醍醐味です。新緑の葉のついた白樺の枝を束ねて作るのがビヒタです。白樺といってもフィンランドと北海道では樹種が大きく異なります。枝がしならない北海道の白樺は、ビヒタに向きません。そこで葉の若い小枝ばかりを集めて作ってみました。何とか1回は使えます。陰干しして保管した枝は、残念ながら使い物になりません。そこで、思いつきました。ニセコで、もう大木になっているフィンランド生まれの白樺の枝を、はしごを使って取ってみました。思った通りしなる、素晴らしいビヒタが作れました。
フィンランドでは、地方の公共のサウナはだいたい湖のそばに有ります。ですから、ほてった体を水に浸けるのは簡単です。ホテルのサウナもプールが付属しているとこが多いので水に入ることが出来ます。日本では、水風呂と称する物がついているのが一般的でサウナ通の常識になっているようですが、私は、この習慣に懐疑的です。心臓の負担が大きすぎます。そこで、足桶のお奨めです。サウナ室から出て、冷たい水の入った足桶に足を入れるのです。足の体温が体の方へ移動して代謝を感じることができます。心臓に余計な負担はかかりません。ドイツでは、スパのサウナに、各自が座って足を入れ、水を張って終わると栓を抜くという設備をよく見かけます。
サウナに入った後は、やはりビールがおすすめですね。フィンランドでは、小瓶のビールがスーパで普通に売っていますので、サウナ上がりに瓶ビールを普通に飲みます。私は、ニセコの屋外サウナは瓶ビールと決めています。北海道でも日の長い良い季節の始まりです。自然と親しみましょう。
2020-05フィンランド出張延期
本来、4月にはフィンランドへ出張の予定でした。早朝の空港行きバスに乗り、成田、関空、名古屋経由でフィンランドへ向う無駄な時間を使わないで済む、待望の千歳―ヘルシンキ直行便のつもりでした。まさか、こんな事態になるとは思っても見ませんでした。直行便はおろか唯一、成田―ヘルシンキ便は運休にこそなっていませんが、フィンランドも首都圏封鎖状態では仕事になりません。6、7月は本来夏休みで打ち合わせになりませんし、あきらめて8月下旬から9月を目処にスケジュールを立てようと思っています。3月に計画した工程をそのままスライドさせようと考えています。というのも、私、今年でフィンランドと関わって49年になります。親戚のようなつき合いをさせていただいている家族、仕事で最初に関わっていただいた方、当然かなりの高齢になられています。私が自由に動けている時に、顔ぐらい見せないと私の人間性に自ら疑問を感じそうです。
最初に窓の輸入を始めた時の担当部長、往年のフィンランドF1レーサーのヶヶkeke Rosberg(元F1チャンピオン・ニコの父)のような顔立ちで、いかつい顔でした。最初は少し怖い感じでしたが、親切な方で、私が次に行く予定の家族の住んでいるイマトラ市Imatra迄、仕事のついでだと言って、400Km近くを送って下さいました。札幌で開かれた国際見本市では、当社の出展ブースまで来てくれました。その後、会社と意見が合わず転職したのですが、夜中に国際電話で長々と愚痴を一方的に聞かされた思い出もあります。新しい会社とは、その後10年ほど、ドアの取引をしました。何度もクオピオKuopioにある工場も行きました。ニセコのコテージの大きな玄関ドアは、その会社の製品です。今でも毎年クリスマスカードは、頂いているのですが、昨年は代筆になっていたので、工場打ち合わせの後、車で少し足を伸ばして、ジャンプ台で有名なラハティLahti市の老人施設を訪れてみようと思っています。彼の出身地はラハティです。
随分前、札幌国際スキーマラソンでフィンランドから高齢の女性が入らして、英語が堪能でないということで、北海道フィンランド協会で宿泊先を検討していました。フィンランド語は、私も女房も話せますのでわが家に4、5日滞在して頂くことになりました。競技前日、グリップの状態をチェックするなど、はりきっているなあと思っていましたら、年齢別で2位入賞でした。すごくうれしそうにわが家に帰って来ました。後で解ったのですが、Siiri Rantanenは、1958年のノルディックスキーの世界チャンピオンでした。冬期オリンピックでは3大会メダリストです。フィンランドでは、スキーの母として知らない人がいないくらいです。彼女もラハティ市民ですので、この町にも何かと思い出が有ります。
2020-04 フィンランドの猟犬
4月、わが家の愛犬ハルが、14歳半の命を終えてから1年になります。いつもMarimekkoのバンダナを首に巻いて、車に飛び乗り毎週のようにニセコのコテージに週末は一緒に出掛け、森を走り回って過ごしていました。父親は柴犬で母親は雑種、ですので柴っぽく見えますが首筋、顎はそんなに白くありません。フィンランド人に写真を見せるとみんなPisti koiraピスティコイラ(犬)かと尋ねます。すごくそっくりな大きさの猟犬が、フィンランドにいます。この犬種の雑誌もあるほどです。うちの奥さんが、趣味で弾いている、フィンランドの民族楽器カンテレの演奏で、わが家へホームスティしていた時の子が、実家でもピスティコイラ飼っていると聞いて、早速彼女がフィンランドへメールして写真が送ってきました。本当にそっくりでした。
フィンランド人の多くの人は狩りをします。ですから私の友人も何人か猟犬を飼っています。猟犬を連れ森に出かけ獲物を探します。私も何度か一緒に出かけましたが、鳥でもウサギでも仕留めると一目散に走っていってくわえて自慢気に帰ってきます。
犬種にライカという猟犬を飼っている友人がいます。私は、旧ソ連が、1957年、世界で初めて人工衛星スプートニク1号を打ち上げ、さらに月をへだてて犬を乗せたスプートニク2号を打ち上げました。その犬の名前がライカ、ライカ犬と報道されていました。子供心に二度と地球に帰ってこれない犬の寂しさを感じていました。ですから、私は長いことライカ犬は、宇宙犬という意味だと思っていました。ライカという猟犬が存在していることに、少々の驚きを持ちました。先祖はシベリア原産のようです。私の脳裏に残るライカとは異なるのでしょうが、名前が繋がることによってライカ犬が生き続けているような気持ちでした。
私の友人の猟犬には、首輪にGPSが着いています。狩の最中いつでも犬の位置が、スマホに表示されます。やはり、ノキアで一時、世界を圧巻した国です。生活としっかりと結びついています。
2020-03 サウナ-続き
3月に入りますと、もちろんフィンランドも春の近さを感じますが、サンタクロース村のあるヘルシンキから北へ800kmのロバニエミでは、依然水面の見えない白い湖の世界です。私の友人は市内から少し離れた湖のそばにログハウスの住宅を持っていますので、訪れた時はいつも泊めてもらいます。この季節は、ラップランドは、多くのノルディック専用のアップダウンを楽しめる素晴らしいコース、例えば、ロバニエミから北へ100Kmのピュハルオスト国立公園のLUOSTO等が有りますが、1、2泊のスケジュールでは、ノルディックスキーをここの湖で一緒に楽しみます。表面がかなり堅くなっているので、想像以上のかなりのスピードが出ます。もちろんクラシカルではなく、スケーティングで滑るのですが、転ぶとかなりの衝撃が体を走ります。ですが、太陽も輝くようになり、青空の下、普通のノルディックスキーとは一味違う楽しみ方が出来ます。もちろん汗をかいた後は、サウナに入ります。住宅の中には、大きなサウナ室、シャワー室、くつろげる暖炉の部屋が、階下にあるのですが、天気の良い時はあえて時間をかけて、外のサウナの準備をしてくれます。。六角形の小屋が三連になっていて、一つは薪焚きのサウナ、もうひとつはスモークサウナ、真ん中はバーベキュースペースと連なっています。サウナで又一汗かいた後は、ソーセージを焼いてゆっくりとビールです。実に静かに時間がながれていきます。くつろげる空間、空気を感じます。夏場ですと、何度かサウナに入って、湖で体を冷やすのですが、まだ冬と同じく湖面は氷に覆われています。この季節も、湖面の氷の一部を切り取って水に入るのですが、一夜ですぐまた氷に覆われます。さすが、フィンランド人、天窓のような専用入り口を作ってさらにそこにヒーターまで付けています。ここまで準備してもらって、湖に入らないわけにはいきません。覚悟を決めて入ります。潜れとの指示、そんなに深くはないのですが、氷で太陽の光は届かず湖面は氷に覆われています。ほんの少しの距離なのに入り口に戻れるかという恐怖が頭をよぎります。寒さで、出たらすぐにサウナ室へ直行です。実に貴重な体験でした。
2020-02サウナブーム
日本では、今、大変なサウナブームです。本場フィンランドをしのぐ?ような盛り上がりです。なぜ、サウナブームなのか私にはよく理解できませんし、あえて調べようとも思いませんが。フィンランド語の中でも難しい発音のLÖYLYが、整えるとか、何とかいってさかんに使われていますし、昨日今日のブームでもなさそうです。
フィンランドでもヘルシンキ南港には、大きな観覧車があって、その横には、港の一部をプールに仕立てた大きなサウナ施設が有ります。おまけに観覧車の中の1台はサウナになっていますから、観光客向けなのかどうか、明らかにやり過ぎです。南港より西側のMERISATAMAには外部木造レストラン+サウナ施設が出来ました。こちらは地元の人にも人気で予約しないと入れないみたいです。元来、フィンランドのホテルは、必ずといえるほど専用のサウナ室が設けられていて、大きなホテルでは、プールが併設されている所も有ります。ですから、どこで勘違いされたのか、日本のサウナのように水風呂が付属のような考えはありません。何せ、湖が豊富な国ですから、湖面沿いにサウナ小屋が有れば自然とほてった体を冷やすために、湖に入いります。フィンランド人が、ごく普通に営んでいた週末のコテージの生活は、そんな自然との触れ合いから生まれたものなのだと思います。
現在、あのフィンランドでさえ、他の国々と変わらず、ヘルシンキを中心に、大都市の一極集中が加速しています。ですから、環境、近隣トラブル等の問題で、本来の姿である薪ストーブによるサウナへ入るには、ヘルシンキでは一部を除いて出来なくなり、地方へ行かなければ味わえないものへと変貌しつつあります。ですから、時間をかけずに、気軽に味わえる、しかも海が見えるサウナに人気がでているのかも知れません。
あえて、本物、本来のサウナと言うのでしたら、スモークサウナだと思います。フィンランドでも、180万といわれるサウナの中で、数える程しか存在しなくなりました。普通の薪ストーブのサウナでさえ、入るには結構手間がかかります。私の友人のコテージでも、数時間を要するスモークサウナは、年に数回しか入らないと思います。ですからますますスモークサウナは、特に火災を含めて減少すると思います。ただ私は、別棟の屋外の薪焚きのサウナには、今後もこだわっていきたいと思います。
2020-01 国立図書館OODI
もう1年前になりますが、ヘルシンキ中央駅のすぐそばに建つ船のような形の国立図書館。完成したばかりのせいか、見学者で溢れていました。話に耳を傾けてみると、フィンランド各地から見学に訪れているようでした。
建築中は、又駅周辺に新しい施設が建つんだ位に思っていましたが、いざ訪れてみると、図書館という固定概念をはるかに超えていて感嘆しました。昔からフィンランドは、読書好きでクリスマスなど親子でプレゼントし合う位ですから、図書館は、各都市にもすぐれたものが有ります。古くは、ロバニエミ市のアールト設計の図書館は有名ですし、私が初めて訪れたフィンランドで、東部のKUOPIO クオピオ市の市立図書館は、いまでも当時の感激を覚えています。読書率が高いというのは、世界トップクラスの教育水準に繋がっているのかどうか解りませんが、良い図書館が生まれるというのは、フィンランドの国民性と合致していると思います。
フィンランドの人は、実に木の使い方が上手です。外壁、内装にしてもきっと子供の時から、コテージで週末を過ごしたり、森の散策、自然との関わりを体で感じ取っているのだと思います。中央駅近くKAMPIの礼拝堂の外、内壁もそうですが、このOODI(図書館)が素晴らしいといって、真似して、なかなか作れるものではないと思います。
今、日本でもさかんに建築に木造を取り入れようとしています。その試みは決して間違ってはいないと思いますが、元来、日本の木の文化は、寺社、仏閣、豪奢のために重んじられ庶民の木に対する文化レベルが高かったかどうか、私ははなはだ疑問に思います。
話を、この図書館に戻します。3階建ての建物1階エントランス、各展示スペース、レストラン、映写室等、エスカレーターで2階へ昇ると、各個室がグループルーム、ゲーム室、読書室、コピー室等々休憩コーナーも有ります。3階は多数の書籍棚、ファミリースペース、圧巻はイベントスに使われる外部を見渡せる大きなガラス面の外壁、全面板張りの床がスロープでさらに上へ向わせます。天井は自然光を取り入れ優しく波打っています。実に素晴らしい空間です。ぜひ一度は訪れることをお奨めします。
2019-12一年半ぶりのコラム クリスマス
12月16日から、札幌〜ヘルシンキの直行便がいよいよスタートします。15日夕方、ヘルシンキを発つ第一便が千歳へ、朝到着して新路線の開設です。当初3月までの週2便と言われていましたが、とりあえず10月までは、確定したみたいです。チャーター便では、何度か千歳-ヘルシンキ間をフィンランド航空がDC10型機で飛ばしたことは有りますが定期便は初めてです。私は、いつも朝一番、千歳からの成田便に乗って成田乗り継ぎでヘルシンキへ向っていましたから、早起きと余分な時間を省けることは、大変助かります。
昨年末から、今年にかけて、長年付き合っていた窓の会社が倒産、エストニアの会社に買収されるというアクシデントで工場出荷がストップしたり散々でしたが、全く新しい会社との取引、1月、4月の2度のフィンランド出張で工場を自分の目で見て、ラインのチェック等、何とか本来のペースへ戻すことが出来ました。
よって、気を取り直してコラムを再開です。というのも、私の下手なフィンランド語に親身になって付き合ってくれるフィンランド人の気質が、やはり好きですから、彼らの生き方を、私なりに伝えていきたいと思います。
今月は、クリスマス、暗いフィンランドも人々の表情は明るくなります。私が初めて、本物の?サンタクロースを見たのは、1974年、ヘルシンキ大学へ籍を置いていたとき、クリスマス休みに、昔ヒッチハイクで知り合ったロシアとの国境近くのイマトラ市の家を訪問しました。その家族には、小さな女の子と男の子がいて、そろそろサンタさんが来るとそわそわしていました。荒井由実の歌ではありませんが、フィンランドでは、おとぎ話ではないのです。玄関から入ってきて子供たちにプレゼントを渡すのです。ヘルシンキから、北へ800Kmのロバニエミには、サンタクロース村が有りますから、子供たちには何の不思議でもないのかも知れません。
その次にサンタさんに合ったのは、1977年に再びフィンランドを12月に訪れた時です。今から思えば、のどかな時代でした。ヘルシンキ空港からヘルシンキ駅へ向い、すぐ列車でイマトラ市へと向ったのですが、飛行機の到着が遅れ、長距離列車はクリスマスで早々と終わってしまいました。KOUBOLAという町の駅 で下ろされました。クリスマスですから、人通りも少なくホテルも見当たらず途方に暮れていると、今娘のところにサンタクロースが来るので、一緒にどうかと自宅に誘われました。ここで又サンタさんと会いました。この時代のフィンランドの人々は、ほんとうに親切でした。携帯電話のない時代、私の友人宅へ電話をかけてくださり、友人は120Kmの雪道を飛ばして迎えに来てくれました。
こんな時代を過ごさせてもらったフィンランドは、私にとっては故郷に近い存在なのかも知れません。体力の続く限り、もう少しこの国との仕事に関わり続けようと思います。