2022-01 Jukka
年末も近づき、使わなくなった子供たちのロッカーを整理がてら、片付けていたら懐かしい玩具の箱が二つも出てきました。フィンランドの木製玩具の老舗で90年以上の歴史を持つJoho Jussila社のものです。子供の顔にJUKKAのマークです。Jukka-taloの愛称の組み立て式の各種本物のようなログハウスです。
住宅、サウナ小屋、倉庫、風車の4種類があります。現在製作されていませんから、ありましたでしょうか。フィンランドには、住宅メーカーで 同名のJukka-taloという商標の会社が存在しますが、これとは関係ありません。
我が家の棚に今も並んでいるのは以前、子供が小さい時、フィンランド出張の時、年に何度も出かけるので、毎回何を買おうかと迷って、探し当てお土産に買ってきたものだと思います。
素朴な木製玩具が色々あって、私のImatra(イマトラ市)の友人は、長男が汽車を好きなのを知っていて、プレゼントにいただいた列車などがあります。結構大きなものですが、機関車、客車、貨物の3両からなっていてカラーですが、木独特の素朴さを漂わせています。
フィンランドは、そもそも木材の使い方が、上手ですが、子どものおもちゃにもその優しさが伝わってきます。今、子供たちのおもちゃというか遊具は、ゲームだったり、自然との関わりから遠く離れた世界に移っていますが、これは、多分フィンランドにおいても同じだと思いますが、木の感触、素材に触れる生活を子どもの時から味わってほしものです。
2021-12 クリスマスプレート
イアーズプレートというと、一般的にロイヤルコペンハーゲンの100年を超える歴史を持つ深い青色のプレートが有名だと思いますが、アラビアのイアーズプレート、特に私はRaija Uosikkienのクリスマスプレートが好きで、1989年までの12枚のシリーズに何気なく興味を持ちました。古い街並みのデザインと色が気に入って、私は1987年から買い始めたのですが、わずか3年で、このシリーズは終わってしまいました。クリスマスが近づき、意気揚々とエスプラナーデのアラビアのショップへ出かけたのですが、作風がガラリと変わって、現在のフィンランドの田舎の風景になりました。小さなもみの木の横に斧を持って子供を待つお父さんは、一瞬ドキッとしました。キューブリック監督の映画シャイニングの世界ではないかと思いました。フィンランドの田舎の家庭では、随分前は、近くの林からクリスマスツリーに似合う、もみの小木を切って室内にセットしました。車の屋根に乗せて運んでくる人もいました。もちろん、そんな田舎ではなかったり、手に入らない人のために当然のように、シーズンは、朝市等でも売られていました。
現在、フィンランドのクリスマスがどのようになっているか、コロナのせいで3年ほど行っていませんので分かりませんが、昔は、地方行きの列車が夜には止まってしまうぐらいでしたから、ヘルシンキの町はみんな地方へ帰って閑散たるものでした。田舎に知り合いがいなければ、観光客でさえ寂しい季節だったと思います。
クリスマスプレートですが、新しいToveSlotte-Elevantのデザインのものを8年ほど買いましたが、飾るところが無くなったのか、またデザインが変わったのかよく覚えていませんが、いつの間にかやめました。私は本業が設計事務所ですので、私の設計させていただいたお宅には、必ず完成年のアラビアのクリスマスプレートあるいは、フインランドの叙事詩kalevaraのイアーズプレートをお届けしていました。みなさん、自宅をお建てになるときは、もちろん真剣ですが、時間が経つと、何年に建てたか、結構記憶が曖昧になって来ます。それと建築年を確認していただくことで、メンテナンスの必要な時期を、再確認していただけます。大金をかけた、マイホームですから、北欧の人々のように我が家に愛着を持って生活していただきたいものです。私の、ニセコのコテージにも、もちろん1991年のクリスマスプレートがログの壁にかかっています
現在、北欧は暗い、寒いよくない季節ですが、クリスナスシーズン到来で、街にはイルミネーションが輝き、クリスマスセールで、人々の表情は明るさを増すと思います。コロナが季節とともに去りゆくことを願って、1日も早くフィンランドの地を踏めることを祈ります。
2021−11アアリッカaarikka
以前は、フィンランドを訪れるたびに、ヘルシンキのエスペラナーディのアアリッカの店へ必ずと言って良いほど顔を出しました。お土産には、スペースを取らない小物も多く、決つして安いとは言い難いのですが、木の温もりを持ったセンスの良さを感じていました。昔はよく木のイヤリングを買いました。フィンランドでは、ピアスが普通でしたが、日本ではまだ多数派ではなかった時代、ピアスでないものを選んで買っていました。デザインが奇抜で、お土産にプレゼントすると、みんなに結構喜ばれました。アアリッカは、木の素材を生かして、動物、鳥も多くデザインされています。今もあるかどうかわかりませんが豚の貯金箱はユーモラスです。トナカイ、鶴、カラス、小鳥のデザインは、置物だけでなくナプキン立て等数多くあります。最も有名な動物は、体が木玉で覆われた羊でしょうか。色々なサイズ、木目、白、黒とカラーも選べます。小さいものでも結構高額です。
以前、ゴルフ場関連の仕事をしていまして、そのゴルフ施設のコンセプトがフィンランドでしたので、多い時には、年に10回フィンランドへ出張していました。オーナーが、ゴルフ場の竣工祝いに、工事功労者にフィンランドのものをプレゼントしたいということになり、アアリッカの一番大きな羊を送ろうと提案されました。アアリッカの店舗にさえ一台置いているかいないかの数でしたので、ヘルシンキでショップを経営する友人に頼んで直接アアリッカと交渉してもらいました。さすがに、アアリッカもあの大きさの35個という単位の注文は、初めてだったそうです。友人の努力のおかげで無事、日本に到着しまして、みなさまへお渡しすることができました。オーナーから、私へも大きな羊のプレゼントをいただき、今でもニセコのコテージに、場所を取りすぎるので、設置箇所に悩み最終的に冷蔵庫の上に、黒い大きな羊が飾られています。自分で会社を始めて、40年近く経ちますと、何げなく買ったアアリッカの品々が、我が家にも溢れていることに気がつきました。
新聞の記事にフィンエアーの千歳―ヘルシンキ便が、3月末、夏期スケジュールから再開というニュースが載っていました。フィンエアーのホームページでは、4月便からになっていましたが、いずれにしても少し明るい方向になって来ました。フィンランドと関わって、一年どころか、こんなに長い間訪れなかったことはありません。少し、浦島太郎の気分です。
2021-10 Iittala kylä Iittala-(ガラス)村
今回のイイッタラ村は、Hämeenlinnaの北にあるイイッタラの工場のことではありません。1987年から始まったガラスの塊で作られた家々の村のことです。最初手に取って面白いと思いながらも、重さ(600g以上あります)と価格の高さに最初は躊躇したのですが、年に一度の買い物ならよいかと思い、1991年まで毎年買い続けました。毎年限定3000個とのナンバーリングが打たれています。ちなみに私のは、若い番号で1987年の283番、1991年ので2121番です。その後、なんで買い続けなかったのか、終わってしまったのか記憶は定かではありませんので、結果はどうなったか知りません。ただ、我が家の食器棚には、地震の被害に遭わず整然と並んでいます。
Iittalaのグラスは、世界的に有名な工業デザイナーTapio Wirkkala、Timo Salpanevaが黄金期を築き、あまりにも有名ですが、1970〜80年台に活躍したJorma VennolaもIittalaのグラスを語るには欠かせない存在です。グラスではないガラスの家は、彼の作品です。
グラスでは、多角形のKuusi(樅)が有名です。フィンランドは、森林王国ですが、樹種はパイン(欧州あか松)の次に樅が建築材料に多く使われています。クリスマスに朝市で売られているツリーは、このkuusiです。このkuusiのシリーズは、6本のもみの木が並んでいます。ちなみにフィンランド語の数字6もクーシです。キャンドルスタンドも色々な大きさのものも作品として残されています。もちろん現在は、作られていませんが、グラスが多角形という性格上、角にひびが入ることがあります。致命的なダメージではありませんので、私は使い続けています。
Jormaは、コンビネーションに優れた人で、グラスの取っ手に取り外し可能な金属を使ったコーヒーグラスもデザインしています。私は、同じデザインの大きなピッチャーに果物、ワインを入れパンチを作り、ピッチャーの周りにこのグラスを何個も掛けて各々のグラスとしてパーティーを楽しんだりしました。またグラス部分をを取り替えてビールからワインまで楽しめる色違いのプラスチックの台など素晴らしいアイデアの持ち主でした。
私が、今でもニセコのコテージで使っているエッグスタンドは、ヒヨコのデザインです。これにゆで卵を乗せると、それだけで楽しくなります。北欧を旅した時、ホテルでは必ず茹で時間の異なる、ゆで卵がエッグスタンドと共にセットされています。昔、スプーンを使って器用に上の部分だけをカットしてスプーンで卵を食べる北欧の人々のスタイルに感心したことを覚えています。このヒヨコのエッグスタンドは、そんな懐かしい思い出さえも、朝食の時に蘇らせてくれてもいます。
2021-09 ムーミンMoomin
今までムーミンについて書いたことはほとんどなかったと思います。日本にいたときは虫プロのアニメ、ムーミンを楽しくテレビで見ていた程度の記憶です。最初に訪れたフィンランドの時もムーミンは脳裏にありませんでした。次にヘルシンキ大学へ留学を決めたときも、頭は建築の知識以外あまり興味を持っていませんでした。大学で、たまたま同時期留学の同級生の女の子が、童話作家を志していて、ムーミンを称賛していました。日本でブームになっていた割にはフィンランドでは静かなものでした。フィンランド最大の新聞Helsingin Sanomatヘルシンギンサノマトには、確かにムーミンの漫画が連載されていました。この年1974年、ムーミンオペラがヘルシンキ中央駅すぐ右横の、国立オペラ劇場、現在の国立劇場(当時は、現在のTÖÖLÖ湖沿いのオペラハウスが存在していませんでしたので)で初演されています。私は、友人に誘われて子供のためのムーミンオペラを、Bulevardi通りにあるアレクサンテリン劇場で、大勢の子供の中で楽しく観たのを思い出しました。甲高いミーの声がやけに耳に残りました。
自分で仕事を初めて、毎年フィンランドを訪れるようになった頃、家族全員のムーミンのマグカップを揃えました。各人の色を決め、朝食の時はマイカップで食事を楽しみました。現在は、ニセコのコテージの食器棚に収まっていますが、トーベヤンソン自らのデザインのムーミンマグカップですので、信じられないネット価格がついています。そんなこととは関係なく相変わらず普通に使っています。
ムーミンの人形、ムーミン谷の家も自宅の棚に収まっています。地震でグラスは、随分割れましたが、幸いムーミン一家、住まいはなんの損傷もなく全員無事でした。さすが、アラビアの陶器は丈夫です。
我が家のトイレの壁には、ムーミン達のプレートが掛かっています。フィンランドを訪れたとき、楽しそうなので買おうと思いましたが、枚数が多くて重くなりすぎるのと、価格が高すぎました。別の店で見ると、1種類だけセールをしていました。さっそく1枚を買うことにしました。次回訪れた時に別の1枚と買い足していましたが、残念ながら13枚、大中小のプレート途中で生産中止になり全プレートを飾ることは、できていません。特にフローレン(ノンノ)のプレートがありませんので、ムーミンが寂しがると思いますので、次回フィンランへ出張の際探すことにします。
2021-08 アラビア・ヌータヤルビ
2018年、胆振大地震では、我が家も大きく揺れて倒れこそしませんでしたが、食器棚の扉が開いて半分近く、長年、出張のたびに買い揃えていた大切なフィンランドのグラスを失いました。床一面、ガラスの海と化しましたが、幸い誰も怪我せず、特に愛犬がそこに居なかったのには安堵しました。片付けを終えると、乱立していたグラスの棚がすっきりして、グラスを各々きちんと見ることが可能になりました。
フィンランドのグラスを揃え始めたのは、留学時代はそんな余裕がなかったので、出張で訪れるようになってからだと思います。当時、少しワインに凝っていて、私好みのワイングラスがなかなか見つからず、重厚でないシンプルなデザインの、特に赤ワイン用のグラスをずいぶん探しました。そこでアラビアのガラス部門のNuutajärviのワイングラスに出会いました。赤、白各ダースは、ゆうに超えて揃えましたが、これも半減してしまいました。
年に何度かフィンランドを訪れるのですが、必ず仕事で向かうのはヘルシンキから西へ120kmに位置する、ロイマー市という小さな町です。かれこれ、30年は通ったでしょうか。行きはトゥルク方面への高速E18を走りますが、帰りはいつも内陸の国道E63、高速E12を使いヘルシンキへ戻ります。帰路は、イイッタラの工場に立ち寄るのが目的ですが、時々少し道を逸れてヌータヤルビにも立ち寄ります。イイッタラに比べたら小さな工場ですが、現在でもアート作品等制作していますが、イイッタラに併合されてからは、過去のグラスはもう生産を終了しています。ショップは併設されていますが、アラビア、ヌータヤルビというブランドさえイイッタラと混同して訳がわかりません。
秋から冬になると、アイリッシュコーヒーの似合う季節になります。私は、いつもフィンランド出張の折、定宿のホテルのバーで飲んだ後は、このコーヒーを飲んで部屋へ戻るのを常としていました。ニセコのコテージでも、寒い季節は、来客にアイリッシュコーヒーを振る舞います。そこで、活躍するのが、もう一つヌータヤルビの好きなグラスである細長いコーヒグラスがあります。アイリッシュコーヒー専用グラスとして重宝しています。上にホイップクリームをフロートさせた後の飲み口が絶妙で、お気に入りです。ただ数をあまり多く持っていませんので、コロナが明けたら、アンティックショップを探して見つけようと思っています。毎年作っているフィンランドの景色の卓上カレンダーの写真も使い果たしましたので、写真アングル考えながら動かなくてはいけません。やらなくてはならないことが、まだまだあります。2年間行けていない友人の墓に、日本のウィスキーも添えなければなりません。
2021-07 本場の白樺 ビヒタ復活
6月、ニセコ、サウナ小屋横の2本の白樺の大木を1本伐採しました。大きくなりすぎて万が一倒れてきて、建物を痛める恐れがでてきたからです。というのも、この滝台地区はニセコでも風の少ない場所だったのですが、開発が進んで、裏山にも手が延びてきました。秋には落葉がたくさん取れたカラ松林が見事に消滅しました。結果、裏の2本の栗の木の枝が、秋の強風で無惨な姿になりました。よって伐採を決めました。この白樺、25年ほど前、帯広の造園屋さんが、タネから育てたフィンランドの白樺、1メートルほどの苗木を分けてもらったものです。周りにも白樺はたくさんあるのですが、秋、白樺が葉を落としても、この2本だけは遅くまで葉をつけていました。こんな寒さまだまだと言いたげの姿でした。
今、空前のサウナブームですが、サウナに使う白樺の枝葉ビヒタ、日本の白樺は枝が硬くて使えません。若葉で何度も試しがしたが、すぐダメになり香りが今ひとつです。そこで、フィンランドからビヒタをコンテナに入れてみましたが、枝葉のついた木材は、規則で燻蒸しないと輸入出来ません。渋々規則に従うと、パサパサになり叩くと葉がほとんど落ちてしまいました。
フィンランド、田舎では夏至にもサウナに入ります。薪ストーブのサウナにはビヒタが必需品です。5月の第三金曜日に取ったビヒタが一番葉がが良いとか、色々伝授されました。そこで今回、伐採した白樺からビヒタを作ろうと思いました。大木なので枝の多さに閉口しました。気を取り直して20本ほど、作りましたが、終了です。翌週大雨が幸いして、また少しビヒタに使える枝葉が残っていました。早速、外のサウナ小屋に火を入れ使ってみました。枝のしなり、香り、完璧なビヒタです。
今回、今更分かったことは、陰干しの重要性です。日の当たるところに吊るすと、葉がすぐ茶色になってしまいますが、日陰で保存すると葉の緑色が持続されることです。ワインセラーにも置いてみましたが、湿度があってまずいかと思いましいたが、緑を保ち、室内が白樺の香りに包まれていました。
伐採した、フィンランドの白樺のおかげで当分、ビヒタには不自由なく外のサウナを楽しめそうです。早くコロナのワクチンが行き渡り、蔓延防止の地域がなくなり、ニセコのサウナをみんなで楽しめる季節の到来を切に望みます。渡航制限が解除されて、再び、フィンランドを訪れる日を心待ちにしています。
2021-06 ARABIAアラビアの食器
二年前の4月、(思い起こすとフィンランド関わって2年以上フィンランドを訪れなかったのは、1974年以来、初めてです。)アラビアの工場跡地のイイッタラのショップに足を伸ばしたとき、面白いコーナーが目に留まりました。新製品ではなく懐かしいアラビアの品々が並んでいました。不思議に思って尋ねますと、家庭で使われていた食器の販売でした。不要になったコーヒーカップ、プレート等を使用者が持ち込み、廉価で販売代行をしているとの事です。一時のイベントのつもりが、評判がいいので持続するとの事でした。よい話を聴いたと思い、時々このコーナーを尋ねてみようと思いました。それが、想像をはるかに超えるコロナの蔓延、イベント自体が持続しているかどうかも解りません。
私が、ヘルシンキの大学へ留学を決めたのが1974年、学生寮に落ち着いたのが、夏でした。早速、まず食器を揃えようと知人の伝手でアラビアの工場へ向かいました。迷う事なく、セカンドメイドから物色しました。パラティーシのマグカップとカイラ のスープ皿、平皿、コーヒーカップです。1972年から1979年に販売されていたAnja Jaatinenのデザインです。KAIRAとはラップランドの荒野のイメージだと思います。黒、こげ茶、紺色の直線のシンプルなデザイン、もちろん工場では、職人が一つ一つ手書きで製作が行なわれていました。ですから、一枚の微妙な違いが味でもありました。とても気に入っている食器なので、 今でも時々使っています。ただ、枚数が少なく、食洗機で洗うのでよく見ると、傷だらけです。もう少しカイラが欲しいと思っていたので、絶好の機会を捕えたと喜んでいたのですが、ショップを訪れる機会はいつになるやら。
アラビアの食器の優れているところはともかく丈夫な事です。特にこの時代のは肉厚です。余談ですが、パラティーシは現在でも人気があり白黒、カラーシリーズが販売されていますが、プレート、コーヒーカップの裏を見てみてください。時代ごとにARABIAのロゴは変わっていますが、決定的な当時との違いは、裏側のデザインがカラーでない事です。当時のものは鮮やかな表と同じカラー仕上げです。
アラビアの親会社は、バルツィラといって北欧きっての造船会社でした。社風が面白くて、船で使うものは自前で作る主義でした。陶器で言うと食器から便器までです。船舶エンジンから、陶器迄作る発想は実に面白いと思います。揺れる船の中でも支障なく使えるのですから、丈夫なわけです。
造船業はもちろん、今でもヘルシンキで客船から砕氷船まで、作られていますが、親会社は他国に移り、当時の栄華はありません。陶器のアラビアも名前こそ残っていますが、イイッタラの傘下で、あの時代を生きていた私は、懐かしさの感慨と同時に切なさを覚えます。
2021-05 セピア色の旅の記憶-9 インド
エジプトでの一ヶ月の滞在期限が近づきました。延長するにはドルの支払いが必要です。親との約束の一年間の旅も終盤ですが、旅を続ける費用も少なくなり、最後の手段で親に、エジプト航空のカイロから日本への航空券を送ってもらいました。今考えると、安い切符もない時代にすぐに手配してくれたと思います。今さらながら感謝です。当時の南回りの飛行機は直行便などありません。まず、カイロからボンベイ(現ムンバイ)です。ボーイング707、4発の単通路3+3席です。座席上の荷物の棚はまさに棚です。扉等もちろんありません。その狭い棚に、入るわけの無い大量の荷物を、乗客のインド人は、スチュワードの制止も振り切り押し込み続けます。ようやくインド到着です。
2月のボンベイは、湾からの蒸し暑い風が吹いていました。ボンベイからデリーを目指し列車に乗りました。夜汽車で一泊2日の旅を想像していましたが、3度日が沈みました。デリーではホテルというよりインド人の利用する宿に泊まりました。ここは、結構面白かったです。デリーの次は、憧れのタージマハールを、めざして、定刻にホームへ入ってきた列車に乗りました。何時間経ってもアグラへ着きません。どうやら南ではなく北へ向かった列車みたいです。乗換えようと思っても、反対方向の列車はなかなか来ません。友人と暇つぶしのトランプを延々と続けました。ようやくアグラへたどり着いたのは、夜になってからです。駅を出ようとすると、駅員に呼び止められました。駅長室へ連れて行かれ、切符を見せろと言われました。不正乗車だから、罰金を払えとの剣幕です。切符の有効期限を尋ねると2日間、問題ありません。検札の印がないと言うのです。堪忍袋の緒が切れました。検札など一度もないし、指定されたホームで待っていて別の列車が来る。おまけに、くたくたになって到着して不正乗車呼ばわりされておまえの国はどうなっているんだ。延々と叫び続けるこちらの剣幕が予想外だったようで渋々開放されました。
私は、イスラム建築が好きで、アルハンブラ宮殿と同等に評価されるタージマハールにも憧れ2日間訪れましたが、美しさ以外にわくわくする感動は得られませんでした。人間が生きていたという生活空間の無い建築は、空しさを感じました。
私は、日本人なので、仏教の聖地も行ってみようと、悟りを開いたというブッダガヤ等も訪れました。菩提樹の下では、ヨーロッパ人らしき人がひたすら祈っていました。バラナシ(ベナレス)ガンジス川の沐浴は、カルチャーショックを受けました。カジュラホでは、生々しい彫刻の寺院、ヒンドゥーと仏教の違いをまざまざと感じました。今にして思えばめちゃくちゃなルートのインドの旅でした。コルカタ(カルカッタ)に着いた時に飲んだミルクティーのおいしさは今でも覚えています。友人とダージリンティーを買いにダージリンへ向かおうと決めました。当時もインドと中国は仲が良くなく、ダージリンの手前にタイガーヒルという軍事拠点があるので、市役所で入林許可書を取らないとすすめません。どこの放送局か覚えていませんが、一週間待っているという話でした。そんな時間は、我々にはありません。インド人に別の役所を紹介してもらいあっさりと許可書を取りました。コルカタから飛行機でバッグドグラへ、空港では恐ろしいほどのボディーチェックでしたが、機内ではみんな操縦席へ次々といっています。私たちも続くとヒマラヤ山脈の素晴らしい景色がコックピットの窓から見る事が出来ました。当時は何も問題無くコックピットへ入れる、のどかな時代でした。ダージリンへは、空港からジープのようなタクシーに相乗りで向かいました。ダージリンでは、二日過ごして待望のダージリンティーを現地で仕入れました。標高が高いせいか沸点が低いので、期待と違いあまりお茶はおいしいと感じなかったのを覚えています。ただ世界第三峰カンチェンジュンガが、雲の上にそびえていたのは、実に美しかったです。
セピア色の旅の記憶は、旅行中写したスライドフィルム3600枚から思い出していますから、まだいろいろ有りますが、セピア色がさらにくすむ前に終えようと思います。6月からは、まだ収束が見えず、いつ行けるか解らないフィンランドですが、フィンランドの話を再開しようと思っています。
2021-04 セピア色の旅の記憶-8 エジプト
スゥエーデンで知り合ったカイロ、アズハル大学の学生の奨めでエジプトへも行くことを決めました。1971年の年末、アテネの空港を出発しカイロへ到着です。友人とピラミッドの頂上で初日の出を観ようと約束していました。ピラミッドのあるギザ市のユースホステルで合流、早速ピラミッド見学。残念ながら夜間はピラミッド登頂禁止でした。作戦の建て直しです。元旦は逃しましたが、警備の薄い裏側からの登頂を決断。当然観光客が上れるように階段などついているはずがありません。おまけに、友人は高所恐怖症でした。夜である事が幸いして励ましながら、背丈よりも高い石を数えきれないほどよじ登り2,3時間かけて頂上へたどり着きました。想像していたよりも小さな空間でした。隣のカフラー王のピラミッドがやけに大きく見えました。夜は寒いと訊いていましたので寝袋とユースホステルから借用した毛布は持参していましたが、とても熟睡できる気温ではありませんでした。それでも元旦ではなかったのですが初日の出はしっかり観ることが出来ました。広大な砂漠から,ピラミッドの影を写しながらの日の出は、努力の甲斐がありました。程なく現地のガイドが上ってきました。こちらもびっくりしましたが、ガイドも驚いていました。すごい剣幕で怒鳴っていましたが、私たちは日本の建築科の学生と説明するとOKとそれだけ、のどかな時代でした。帰りに日本大使館によって日本の新聞を読ませて頂いて、その話をすると、そんな馬鹿な話聞いた事がないとあきれられました。
ギザのユースホステルでは、南京虫に悩まされ辛抱の限界で、カイロ市内の安いホテルへ移動しました。中心部の開放広場では、歩道橋の建設真っ盛りでしたが、寸法の誤差を気にせず大ハンマーで無理やり繋ぐいい加減さには驚きでした。この広場から出発するギザのピラミッド行きのバスに毎日乗って、友人の紹介で砂漠の乗馬を楽しみました。ピラミッドを背景にひたすら、ほぼ馬まかせで砂漠を駆けるのは実に楽しかったです。毎日通うバスは、当時前が一等、後ろが二等でした。もちろん料金は異なります。車掌さんが混んでいる車内をぬうように料金を集めます。停留所を出発すると、乗客が騒ぎ出します。どうやら 車掌さんが乗り遅れたようです。ある時は、いつもと異なるルートを走ります。停車して、クラクションを鳴らします。店から店員が出てきてお茶を渡します。飲み終えるといつものルートに戻ります。毎日が、実に適当でイスラエルにいつも負ける理由が解ったようなきがしました。
カイロからルクソールへ向いました。列車は、すごく混んでいてドア以外、窓からさえも乗車するすごさです。駅を出発する時、見送りの人々の発する声を聞いて、映画アラビアのロレンスの場面が浮かびました。ルクソールでは、もちろん王家の谷へ足を運びました。自転車でホテルへ戻る時見た夕日は、今でも表現しがたい美しかった記憶があります。王家の谷では、日本の発掘隊が調査をしていました。鈴木こんなところで何をしているんだ。突然声を掛けられました。調査隊のメンバーに大学の先生がいました。偶然は、忘れ難い思い出もつくります。