2023-01フィンランドでの新年
50年以上フィンランドと付き合っている私は、1月にヘルシンキを訪れたことは、10回をこしています。社員を連れての何度かの会社のフィンランド旅行は、仕事柄忙しくない冬を選びますので、必然的に1月になってしまいました。 元旦早々の出発は、いくらなんでも厳しすぎますので、大体2日、3日が定例でした。当時成田発のフィンランド航空は、札幌からの当日接続が無理でしたので、成田前泊が必要でした。時々成田山で初詣をしてからフィンランドへ向かうこともありました。
考えてみますと、私がフィンランドで新年を迎えたのは、学生時代を含めて3度程度だと思います。今も同じだとは思いますが、大聖堂の前でのカウントダウン、大統領演説、港からは、汽笛が鳴り響き空には花火が上がります。日本の信念とは、当然異なりますが、新しい年を迎える感慨は変わらないと思います。家庭では、馬蹄の形をした錫をスクープに乗せ溶かして、水の入ったバケツに注いで、その形から新年の運を占います。全てが真似事で、どれが正しいのかわかりませんが、見よう見真似で、フィンランド人のように新年を迎えた事を思い出します。
楽しかったフィンランドでの新年の記憶、一人孤独を感じて迎えた外国での新しい年を、どう生きようかと悩んだ時もありました。全ての関わりを、友人達に支えられ、50年の月日をフィンランドと関わって生きてこられたことは、今にして、幸せだったとつくづく思います。
コロナによって、ポッカリと空いてしまった時間を、どのように修復できるのか、未だ定かではありませんが、少しずつ、今更前に向かっていこうと思います。フィンランドにとっても、私にとってもロシアの問題を避けては通れませんが、非は、全てロシアにあります。マルクス、ガブリエルではありませんが、論理的説明を、できないものは、屁理屈以外の何者でもありません。
核の脅威に対処するという言葉を、散々使ってきておきながら、いとも簡単に主張が崩れ去り、前世紀の遺物のような社会に戻ることさえも阻止できない、現在の先進国と称する国々は、大戦を経て、何を学んできたのでしょうか。
理想国家など、あり得ませんが、フィンランドと長く付き合ってきて、根本的な政治への関わりの違いを感じずにはいられません。どちらが正しいとかではなく、どこへ向かうのかを、自分の意見として、見極めなければいけない時期に、確実に入って来ていると思います。
2022-12 クリスマスシーズン
クリスマスカードを友人に送る準備をしなければいけない季節になりました。会社を経営していますので、年賀状は毎年200枚くらい書いていましたが、仕事の規模も減らし、営業も手抜きになっていますので、年賀状も数年前からやめにしました。ただ、クリマスカードだけは、フィンランドの友人、会社関係へ送り続けています。取引先の担当者が、変わったり定年でやめたり、変化はあるのですが、毎年25枚くらいは送っています。できるだけ日本を感じるもの、札幌のイメージ写真等です。
一人、取引先を辞めて久しい人ですが、カードは送り続けていました。数年前から、代筆になっていましたが、昨年老人介護施設からカードが届きました。当人は、亡くなられましたとの添書きがしてありました。コロナのせいで、また一人、挨拶もできないまま、顔を見ることなく去ってしまいました。同時に、施設の方の心遣いに心温まる思いでした。毎年代筆をしてくださった方かどうかはわかりませんが、わざわざ知らせていただいたことに、今更フィンランド人の優しさを感じました。
私も充分、高齢になってきていますから、元気なうちにフィンランドへ行かなくてはと思います。幸い仕事の打ち合わせがありますので、足を少し伸ばすだけなので、主体が墓参ツアーにはならないと思いますが、現在、三カ所を訪れるのは少々大変かもしれません。長年フィンランドと付き合っていると、もちろん友人も増えますが、別れも増えるということに少々寂しさも覚えます。
クリスマスといえば、もちろんサンタクロース、サンタクロース村のある北極圏のロバニエミ市は、今年も賑わっていることと思います。ここも随分通いました。我が家の子供が小さいときは、ここから、サンタさんの手紙を送ってもらえるように手続きもしました。当時は、手数料もかかりませんでした。
私が、初めてフィンランドでクリスマスを迎えたのは、1974年学生生活をしていたときです。驚いたのは、家庭に本物の?サンタクロースが入って来ることでした。サンタさんが持っている袋の中には、子供たちの分だけではなく、家族のプレゼントも次々、出てくることでした。私の分まで用意してくださった、イマトラ市の家族には、今でも感謝しています。クリスマスには、友人は必ずご先祖のお墓参りをしていました。毎回連れて行ってもらいましたが、墓地もローソクが、クリスマスのようにいっぱい輝いていました。
その後、何回もクリスマスシーズンにも、フィンランドを訪れていますが、ストックマンデパートの子供のためのショウウインドゥの飾り付けは、続いているのでしょうか。3年も訪れていないと自分の頭の中のフィンランドが、遠い世界の出来事のように思われてしまいます。
フィンランドの田舎のように、ニセコの外のサウナ小屋に、火を入れてローソクの灯りで、クリスマスのサウナを楽しみたいと思います。
2022-11 忘れていたアルバムの思い出
築40年を過ぎた我が家、フィンランドからの留学を終えて、会社勤めをしながら、私が最初に設計をした住宅。かつての父の書斎は、長男の部屋になり、現在は娘の部屋となっています。私は、事務所が家の隣にあるのと、時差の関係で、夜でもコンピューターに向かうことが多々あるので、書斎を持ちたいとはあえて思わなかったし、書斎にこだわりは持ちませんでした。部屋の模様替えをしていた娘が、書棚に残っていた、忘れかけた古いアルバムを持ってきました。
タイトルは、1989年、『夏の鈴木家の北欧の旅』。当時私は、仕事が一番忙しい時代で、年に10回フィンランドと日本の往復を繰り返し飛んでいました。ですから、家族旅行には残念ながら同行できませんでした。話は色々聞いていましたが、初めてアルバムを見ました。私が、ヘルシンキ大学の学生時代、父が定年で、両親ヨーロッパ旅行の時は、パリまで迎えに行って、2週間ほど旅に同行したのですが、あえて遠い北欧には足を伸ばしませんでした。父にとっては、息子の学生時代を過ごしたフィンランドを一度は訪れてみたかったようです。
私も自分で会社を始めて仕事も順調でしたので、父が望むフィンランドへ家族が、休める夏休みを利用して両親、私の家族、姪が加わって北欧の旅行を決行しました。私は、切符の手配等をしただけで、フィンランドの友人を総動員しまして、スケジュールを組んでもらい、観光地を楽しく廻れたみたいです。アルバムを眺めながら行き先を、今更理解しました。ロシアとの国境近くのImatraイマトラ市では、親戚のように付き合っているグローン家が、駅までクラシックカーを2台チャーターして迎えに来てくださり、街の評判になったとは聞いていましたが、写真を見ると確かに、これは目立ったと思います。私が最初にこの地を訪れて感激した、フィンランド人に愛された建築家アールトのイマトラ市にあるVuoksenniska教会も、しっかり父を案内して下さっていたんだと皆様の優しさを感じました。
30年以上前の写真を眺めながら、飛行機のルートが、現在、昔の機内から撮った北極海上空の姿に戻ってしまっている矛盾を感じながらも、写真に写る父の楽しそうな笑顔を見ていると、全てにおいて、父に逆らって生き、心配ばかりかけていた愚息にしてみれば、足元にも及ばないけれど、少しは親孝行になっていたのかもしれません。
夏の写真を見ながら、夕暮れが日1日と早くなる晩秋の北海道からフィンランドを思い浮かべる今日この頃です。
2022-10晩秋のフィンランド
1年で一番フィンランドの旅に適さない季節がやってきました。唯一の朗報は、羽田―ヘルシンキ便が始まったことです。札幌を、朝一番でなく夕方の便で出発できることです。ターミナルの移動はありますが、夜中に羽田を出発して、早朝のヘルシンキ到着です。13時間半のロングフライトですが、シベルア上空を飛べない不便さにはフィンエアー就航以来、乗り慣れている私には、この時間慣れていると言っても過言ではありません。
50年前は、横浜を船で出発、ナホトカから一部鉄道を使い、ハバロフスク〜モスクワは、アエロフロートのII-62というリアに左右2機ずつエンジンをつけた国内線ソ連の旅客機経由、再び鉄道でヘルシンキでした。私は、これより古いソ連の旅客機Tu-114というターボプロップの4発ですが、8枚プロペラの飛行機で、ハバロフスクからモスクワへ飛んだこともあります。もちろん最終目的地はヘルシンキです。ですから時間を要することには結構、割り切れます。
ただ、早朝のヘルシンキ到着、すぐレンタカーで移動したい私にとってカウンターオープンまで、少々時間を持て余します。
札幌―ヘルシンキ便の再開を期待して待つべきか、でも長く待たされるなら、冬道の運転覚悟で出張のプランを立てるか、迷いどころです。
さらに、いちばんの問題は、丸3年のブランクは、私にも少々想像しにくく、知らない土地を、訪れるような不安がよぎります。ヘルシンキ市以外は、多分そんなに変化していないと思いますが、いろいろな心配事が次々とよぎります。ゆうに100回を数えるフィンランド訪問ですが、全てが過去形で、自分の培ってきた時間さえ遠い昔の出来事のような気持ちを感じています。仕事は、景気に比例して、決して多いとは言えませんが、メールのおかげで、仕事に直接響くことはありません。昔でしたら、Faxも機種によって速度の違いがあって、図面の詳細部が読みきれず、電話での補足を繰り返すことも度々でした。電話代が嵩むだけなら、フィンランドへ飛んで、打ち合わせをした方が早いということもありました。そんな忙しく、今思い返すと、がむしゃらに働いた時代もありましたが、メールで、図面もPDFで送ることによってほとんど問題を生じません。良い時代というか、物足りないというか、仕事に対する情熱も年齢と共に薄れてきているのかもしれません。でも人生の半分以上、関わったフィンランドという国に対する情熱は、薄れていないと思います。
コロナの行方と、体力とを鑑み、いま少し旅のスケジュールを考えたいと思います。
2022-09 新学期
日本と違って、欧米の学校は、新年度は9月始まり。日本の四季を考えると春から始まることを必ずしも否定しませんが、先進国というイメージさえ怪しくなってきた日本にとって、政治家を含めて国際感覚の著しい欠如のこの国は、教育に関してはそろそろ足並みを揃えて9月新年度を始めるべきだと思います。
遠い昔、日本の大学を卒業して、大学入学時のワクワク感とは別の感慨を持って日本を後にしました。初めてヨーロッパに旅立った時と同じルートをたどって懐かしいヘルシンキ中央駅に到着しました。友人紹介のお宅に2週間ほどお邪魔してから、宿探しです。当時札幌のフィンランド名誉領事館を訪れ、紹介状をいただいたフィンランド日本協会の会長宅に伺いました。お父様が、宣教師で北海道にもいらした方で日本語が堪能でした。ヘルシンキ大学の入学手続きは、まだ済んでいませんでしたが、どのようなルートかは、分かりませんが、学生寮への入寮手配を済ませていただきました。これで、秋からの住まいは確保です。1952年ヘルシンキオリンピック開催の国立競技場内にユースホステルがありましたので、ここをしばしの宿にしました。
先駆的フィンランド在住の日本人に何人かお会いして、いろいろアドバイスをいただきました。何の予備知識もなく、出かけた私ですから全てがぶっつけ本番でした。ヘルシンキ市民、あるいは学生証がなければ 市電、市バスの定期券は発行されないのですが、その方は、市の交通局と渡り合って、なんと定期券を取得してくれました。
今更、思い起こすと何と親切な、日本人、フィンランド人に巡り会えたことでしょうか。
留学生担当者との面接を終え、ヘルシンキ大学の入学許可がおりて、いよいよ第二の大学生生活の始まりでした。
現在、コロナの蔓延で大学生は、授業どころかキャンパスライフさえ楽しめていない大学生活だと思いますが、私の日本の大学生時代も学生運動が盛んで大学のロックアウト等難しい時代でした。ですから、それに嫌気が差して、休学して1年間ヨーロッパ、アフリカ、アジアを放浪して、日本へ帰りましたら、あまりの雰囲気の変わった大学に又、嫌気が差してひたすら卒業研究に没頭しました。ですから、いよいよ私にとって、遅ればせながらの楽しい学生生活の始まりでした。大学は、市内のど真ん中、大聖堂の広場を挟んで港を背に右が外務省、左が大学というキャンパスというイメージはありませんでしたが。
まずは、フィンランド語の勉強です。これも行ってみて初めてわかったのですが、当時の日本人の同級生?皆さんしっかりと日本でフィンランド語の勉強をしてきているのです。私は、大学書林のフィンランド語4週間のみの持参でした。赤尾の豆単(昭和のレトロ英単語)ならぬフィンランド語、英語、フィンランド語の豆辞書を片時も離さず持ち歩き、目に付く言葉を片っ端から調べました。卒業研究以来、こんなに机に向かったのは初めてです。軽い朝食、昼食は学食、夕食も学食という具合でした。
学生寮は、ヘルシンキ中央駅から一駅のPASILAパシラ駅下車、あるいは市バスです。当時は、ヘルシンキでは珍しい再開発の高層ビル街の地域でした。私の部屋は9階、キッチン、シャワー等は4人共用ですが、もちろん家具付き個室です。地下には、洗濯室、最上階はサウナも完備されていました。
現在、パシラ駅は小さな木造から、大きな階上駅に変わりヘルシンキ駅の貨物ヤードがパシラに移って、大規模な再開発が西地区でも行われています。
この地区も3年がたって随分変わっていると思いますので、訪れるのが楽しみです。現在、ヨーロッパ、オイルサーチャージが往復10万円ですから、今しばらく出張は見合わせたほうが良さそうです。希望としては、千歳発着のヘルシンキ便が再開してくれれば最高です。
2022-08 夏季休暇とコテージ
8月に入ると、ほぼ全ての会社は平常業務に戻ります。昔のように工場等全てが止まる夏休みは、流石になくなりましたが、今でも工場はほぼ丸々1ヶ月休むところもあります。本来ならそろそろ私の出番ですが、コロナのワクチンを4回打ち終えていても、今出張に出かける気分にはなれません。友人の墓参りも3年行っていません。彼がいたなら、少々面倒な待機期間があっても予定を立てたかもしれません。フィンランド人との付き合いで親友と呼べる友人を得たことは、かけがえなない時を持つことができました。コテージでの語らいもそうでした。遠い昔のヘルシンキ大学の学生時代は、1、2度知り合いの家族にコテージへ連れて行ってもらったことはありますが、フィンランドとの仕事を始めてからは、いろいろな方の別荘、会社所有のコテージ等も見学、宿泊させて頂きました。
私の友人で一番広大な土地にコテージをお持ちの方は、500ヘクタールの敷地に大小7つのコテージを点在させています。彼はコテージ等の建築では有名ですが、フィンランド人でも別格です。数多く訪れたのは、やはり親友のヘルシンキから西へ50kmほどの、曲がりくねった道を、毎回迷いそうになる湖沿いの静かなコテージです。テニスコートを備えたおしゃれなデザインの、テラスハウスのようなくつろげる空間の建物です。少し歩くと湖です。そこには、暖炉スペースを備えたサウナ小屋と、隣にスモークサウナ小屋もあります。友人が子供の時は、家族で、今はサウナ小屋になっているログハウスで週末を過ごしていたそうです。ご両親の自宅は、ロイマー市の川辺にプールまで備えた平家の大きな住宅です。お父様の創業当時の写真を見せてもらうと、小さな工場からのスタートです。でも、子供が小さい時から、週末、長い夏休みは家族で自然と親しむ生活が、当たり前のようにフィンランドでは、育まれていたようです。
このコテージで、私は友人と二人きりで、バーベキューをしたり、エアーライフルを教えてもらったり、ペタンクをしたり、いつも静かな時を過ごしました。私がフィンランドを訪れる時、以前は年に数回、いつもスケジュールが一杯なのですが、彼と会わない旅程は一度もありませんでした。
私がこの仕事を始めてから、多くのフィンランド人との関わりで、フィンランド人の考え方、生き方を学びました。そして決めたことは、北海道に絶対コテージを建てるという何の根拠のない目標でした。
フィンランドと関わって20年、フィンランドの文化を伝えるのは、これが一番と、ニセコにフィンランド人の最も愛するログハウス、シルバーパインのコテージを何の躊躇もなく建てました。
自分の子供が小さい時、愛犬と一緒に自然の中で成長できたのは、フィンランドから学んだ1番の教えかもしれません。もちろん今は亡きフィンランドの友人もニセコの建物のオープニングの年を含めて何度も訪れてくれました。
2022−07 夏期休暇
この季節になると、まず、フィンランドの会社の夏休みの前に発注等の打ち合わせを済ませておくこと、遅れると、商品の到着に1ヶ月のロスを生じてしまいます。さらに、担当者の夏季休暇のスケジュールも把握しておかなければなりません。本人の休暇の間、別の担当者ですと、微妙に注文等の仕方にずれが生じて、予想外のミスが発生することがあります。できる限り、担当者の休み明けを待って、次の打ち合わせをするようにしているのですが、休みが明けてメールで、夏休みはエンジョイできましたかと、問いかけると、充分との答えの後に、休みが短すぎたとの返答をもらうことがしばしばです。私は、フィンランドとの付き合いが長いので、驚きはしませんが、北欧の人々の、夏に自然との関わりを貪欲なまでに謳歌する気持ちを羨ましく思います。
今の若者は、存在さえも知らない日本のバブル最盛期、コマーシャルでは、『24時間働けますか』などの過激な宣伝が、ごく普通に受け入れられていました。ヨーロッパの人々からは、エコノミックアニマルなどと陰口を叩かれながらも、それでも日本人はなぜか暑い中、わずかなお盆休みだけ休んで働いていました。ヨーロッパの国々は、しっかりと一月近い夏休みを取り、夏を満喫していました。当時、同じことをしていたら、日本の国力は落ちて行ったのでしょうか。長年の生活習慣、文化の違いで、片付けなかったら、少しは日本も変わっていたかもしれません。
仕事の関係で、夏にフィンランドを訪れることはあまり多くはないのですが、夏に行っても、工場は止まっていて動いているラインのチェクなどは出来ませんが、仕事上の打合せは、担当者ではなく上の役職についている人が、連絡さえ入れておくと時には、休暇先から駆けつけて対応してくれます。日本と違って、上の人間程よく働きます。俺にしか出来ない、私がいないと仕事はうまく回らない、こんな考え方だからいつまでたっても、交代で長い夏休みを取れないのでしょうね。誰にでも出来る仕事というと語弊があるでしょうが、交代してもスムーズに仕事が回るプログラムを作成することが、役職についている人間のするべき仕事ではないのでしょうか。
コロナによって、生き方そのものが今問われていますから、ここでしっかり夏休みをとるという考え方を、真剣に経営者は論議した方が良いでしょうね。北欧の人々のように週末の過ごし方が、生活に溶け込んでいると、夏休みの取り方も変わるのではないでしょうか。これは、定年になってからの生き方にもプラスになると思います。自然と親しむ趣味を持っていると、北欧の人々のように退職後、実に楽しそうに毎日を生活している友人を多く知っています。過去の仕事の自慢ではなく、今をどう生きているかを、私に実に楽しげに語りかけてくれます。
私は、新しい生き方として、週休3日制を始めても良いと思っています。週末の過ごし方を、よりアクティブに生きることができると思います。丸一日使える時間が存在すると無理をせず、仕事への体力のみならず、精神力さえも回復できると思います。
旅行を考えてみてください。いろんな所を訪ねて見ようと1泊2日の旅を続けると、疲れると同時に、毎日が移動日になり、じっくりと街並み、文化に触れることができません。デジカメ、スマホで写真に残る記憶で振り返るだけの旅になってしまうのではないでしょうか。画像で楽しむのではなく、目に映った風景、色彩、感動を、ゆっくりと体に取り込むことが、本当の旅なんだと思います。
2022-06 夏至祭
Juhannus今年の夏至は、21日ですね。フィンランドの夏至祭は週末に行われますから、24日からは、ヘルシンキみんな田舎へ帰るか、コテージへ出かけるかで街中は、観光客ばかりです。今年は、観光客もどうなのでしょうか。まずロシア人の団体はいないはずです。私も、ヘルシンキに住んでいた時以外は、夏至祭に参加したことがないので、最近の様子は分かりません。もう夏休みの始まりですから、出張しても仕事になりません。もう11年前に、ニセコのコテージで、多くの友人に集まってもらって、白夜祭を催したのですが、とても楽しく5年ごとに開催を目論んだのですが、私が、生死を彷徨う大きな怪我をしたり、フィンランドの親友、札幌の友人が相次いでこの世をさり計画は頓挫しています。フィンランドへの出張が再開したら、また考えてみることにします。
先日、重信房子が出所したり、岡本公三がレバノンで集会に姿を見せたと新聞の報道がありました。当時、私はストックホルムにいましたので、彼らの動きはよく聞いていました。ハイジャックで北朝鮮へ亡命したグループは、さらに、ヨーロッパで、日本人をターゲットに北朝鮮への勧誘を盛んにしていたことも知っています。私も、かなり学生運動をしていましたが、彼らの行動は、決して許容できるものではありません。どんな屁理屈を並べようと、私は決して許さない。現在、プーチンがごたくを並べていることも然りです。
国連の存在感の軽さ。第二次世界大戦の戦勝国が、現在を牛耳っている実態を、どうして打破できないのでしょうか。核の脅威、抑止論の虚しさを今更味わおうとは思いませんでした。日本、ドイツ、そしてフィンランドも多額の戦後賠償を負わされてきました。今、戦争に勝とうが負けようが、ロシアは、ウクライナに対して国の存続が危ぶまれようが、賠償を課せなければなりません。それがなされなけば、国際社会の秩序などと、言わないでいただきたい。
フィンランドは、冬戦争では果敢に戦いましたが、それに続く、継続戦争ではドイツと組んで惨敗です。昨日の友を、フィンランドから排斥しなければならない条件を突きつけられ、北のロバニエミ市は、焦土と化しました。私の友人は、ロバニエミ市から少し北のノルバ湖のほとりに住まいがあります。その少し北に、ドイツ軍人墓地があります。Saksalainen sotilaiden hautausmaa石の外壁、内部には戦士者の名前が刻まれています。ほとんどが十代二十代の若者です。本人の意思と関係なく遠く離れた地で、虚しく命を落としているのです。私は、ここを訪れると、正義とか悪とかそんな理屈を抜きにして、虚しい感情だけが残ります。どうしてこんな過去を、忘れたかのように同じことを繰り返している、今のロシアは許せない国家です。若者の命を奪う権利が、為政者にあるわけがありません。
白樺の若葉、風薫る5月
長い、暗い冬を終えたフィンランドは、今一番良い季節です。人々の顔の表情も明るさを増す春です。成田―ヘルシンキも5月から毎日飛ぶようになります。現在、シベリア上空を飛べませんので、13時間を要します。日本を夜発ちまして、早朝ヘルシンキバンター空港到着です。昔のフィンランド航空の画期的なヨーロッパ直行便の飛行時間に戻った感じですが、考え方によっては、到着後朝から仕事ができる感じですので、本来すぐにでも、搭乗予約を取りたいのですが、世界情勢はままなりません。
私と昔から、家族付き合いしています家庭は、IMATRA市に住んでいます。ロシアと国境を接する一番南側の都市です。有名な建築家アールトのヴォクセンニスカ教会がある町としても知られています。1939年の悪夢が、21世紀に入って、こんな緊迫がまさか生じるとは思っても見ませんでした。この家族との出会いがなければ、日本の大学を卒業して、今更、フィンランドの大学へ行こうなどと思わなかったはずです。50年もフィンランドと付き合ってきて、多少人よりはフィンランドを知っていると思います。ウクライナの報道で、北欧のNATO加盟が取り沙汰されています。その時、フィンランド化という言葉が蒸し返されています。これは、揶揄ではなく侮辱です。時の中曽根首相が発言して、日本のフインランド大使館の参事官が、直ちに、猛烈に外務省に抗議に向かっています。スターリンによる悪義なフィンランドへの侵略に始まる冬戦争を戦い抜いた歴史の誇り、SISU(フィンランド魂)が、許せなかったのだと思います。同年、12月、中曽根首相は、独立の父、冬戦争の指揮官マンネルヘイムの墓前へ献花に訪れています。
NATOへの加盟が、現実味を帯びてきていますが、フィンランドは、現在戦闘機、F18スーパーホーネットを64機持っています。後継機F-35も62機契約をしています。サンタクロース村で有名な北極圏のロバニエミ市、ここの飛行場は4000mの滑走路を持っています。以前12月には、超音速旅客機コンコルドが何度も訪れていました。ここの飛行場は、隣に空軍が常駐しています。航空母艦への発着訓練を想定した訓練は以前から行われていました。空港の少し北に、友人の住まい(私が訪れるときはいつも泊めてもらいます。)があるのですが、途中、直線道路の国道がいきなり幅が4倍くらいの道路となって続きます。非常時の滑走路です。これは、フィンランド各地にも存在します。毎年訓練が行われるときは、一時通行止めになるそうです。電源喪失も前提に、両サイドには松明が点されるそうです。
国民の2割ぐらいにすぎなかったNATO加盟の支持の時から、過去の侵略からの教訓は生き続けているのです。教育制度も然りです。小国の生き残るための国の方針は、平和外交を維持しつつ、最小限の自国防衛、国連平和維持軍への参加、中立を維持できない状況を生じた場合の対処も考え続けていました。ですから間違ってもフィンランド化などという知ったかぶりの不勉強を露呈する発言は、控えていただきたい。
それにつけても、フィンランドの白樺の若葉の緑の香りを、そろそろ嗅ぎたくなりました。友人の湖沿いのサウナ小屋から、日の長くなった夕日を見ながらビールを飲みたいものです。
2022-04シベリア鉄道〜ヘルシンキ
千歳直行便再開7月との報道があってから、やはりロシアのウクライナ進行で期限未定の延期になりました。名古屋、大阪便同様ですので、現在成田ーヘルシンキ便のみです。しかも、シベリア上空を飛べないため、13時間の長旅になります。さらにEU最後のロシアへの鉄路も28日からヘルシンキーサンクトペテルスブルグをつなぐフィンランドVR(国鉄)が止まりました。冷戦時代でもモスクワーヘルシンキは旅客定期路線で繋がっていました。私は、1971年シベリア鉄道経由で、モスクワから緑色のいかつい客車に乗って、国境駅Vainikkalaでソ連の機関車からフィンランドの機関車に連結され直して、ヘルシンキ駅へ到着しています。当時はガラス張りの屋根もなく、春まだ肌寒いのざらしのホームへの第一歩でした。その後、1974年も、ヘルシンキ大学留学のため、同じルートでヘルシンキへ向かいました。1975年は、逆にヘルシンキ駅からモスクワ駅へ鉄道で向かいモスクワから飛行機で日本へ一時期帰国しています。ですから、この鉄路は、私にとって忘れられない青春の大事な一ページでした。近年は、ヘルシンキ-サンクトペテルブルクは多くの観光客を乗せて、高速の特急電車ALLEGROが走っていました。
フィンランドの人々は、どのような想いなのでしようか。ウクライナの現状が、遠い昔の悪夢を歴史でしか知らない若者も敏感に感じ取っているのでしょうか。NATO加盟に必ずしも賛成でなかった人が、加わる事を真剣に考え賛成に回る人が6割を超しています。スターリン時代の理不尽な冬戦争、未だ帰らないカレリアの地、時代を超えてウクライナでまた繰り返されているのです。
国、自治体の建物を建設する場合、床面積の3〜5%を防空設備の設置という法律は現在も継続されています。ヘルシンキの地下鉄も地下ホームと地上の連絡通路には、分厚い鋼板の扉が閉鎖できるようになっています。市内中心部の地下駐車場も同様です。1300kmも国境を接する国において当然の対処なのかもしれません。根本的に信頼できる国では無いことを国民は熟知しています。
今は亡くなったフィンランドの友人に、人口500万人の国になぜ4箇所にも原子力発電所が必要なのかと聞いたことがあります。(現在Olkiluotoに2基増設済みです。)日本と同じエネルギーの確保は難しいが、ソ連からのエネルギー供給に頼る訳にはいかないのでどうしても、自前で確保しなければいけないとの返答でした。Olkiluototoから離れて2kmには、Onkalo使用済み燃料の最終処分場が建設されています。フィンランドは、既存の6基分のみを、自前で処理することを決めています。政府からの押し付けではなく、地元住民、科学者、各分野の専門家を交えて時間をかけて協議してきました。その結果の結論です。現在自然エネルギーの活用に世界は、舵を切っていますが、そのことを含めてフィンランド人の考え方は、ブレずに徹底していると思いました。