2025-01 自転車専用道路
冬の季節に、少し話題としてずれてしまいますが、昨秋ヘルシンキを訪れて気づいたことがあります。中央駅近くのSOKOSデパートの前の大きな通りを渡ろうとしたら、歩行者の信号の横に自転車専用信号がついていました。昔、アムステルダムへ行った時、自転車信号に、さすが自転車の都市と思い感心したことがありますが、ヘルシンキにも現在信号が完備されつつあるのかと思いました。つい最近我が国では、自転車の飲酒運転、スマホのながら運転に罰則規定が強化されましたが、この国の感覚のずれ具合には、平衡します。自転車の事故が、増えたと言って、おざなりの自転車道をとってつけたように、現状の道路を幅を変えるでもなくラインだけをひいたり、自転車は、車と同じ左側通行ですと言うだけの、根本的な対策を未だとっていません。
災害時に、緊急車両の通行ができるようにと、ようやく電柱のない道路を作り始めるのは良いのですが、幹線から脇の道路の電柱は、逃げた分の電線が増す有様です。都市の美観として、電柱のない風景が良いから推進するのではなく、予算ありきの最低限のスタートです。始めないより良いのではなく、街の将来像、文化そのものを、考えるべきなのではないでしょうか。
話を、自転車に戻します。ヘルシンキ市内、気にしてみると、実によく自転車道が整備されています。ホテルの窓から、いまさら通勤時の人々の流れを見ていまして、自転車通勤の数の多さに驚きました。地下鉄、バス、市電と首都ですから、他都市に比べたら交通網は完備しているはずです。ですが、ヘルメットを被り自転車道を多くの人が駆け抜けています。日本のように歩道を、我が物顔ですり抜ける自転車は、これこそ、文化のレベルの低さだと思います。歩道、自転車道の分離は当たり前です。ヘルシンキですと、公共交通機関の路線地図と同様に自転車道地図もあたり前にあります。レンタルサイクルも完備していて、自転車の乗り降りができるスポットが、ヘルシンキ市内だけで、100箇所くらいあります。レンタル料は、1日5ユーロ、1週間10ユーロ、ひと月35ユーロです。さすがに月単位の値段は、5年前は25でした。この値段ですから、夏場の良い季節は、のんびりと港の海岸線を自転車を漕ぐのも良いと思いました。忙しく動いています私は、残念ながら一度も使ったことがありません。
日本でも、インバウンドで多くの人々が訪れ、レンタルサイクルも増えていますが、自転車道一つを取ってみても現状は、あまりにもひどすぎます。遅きに過ぎたで、許される事ではないことに行政は、立ち上がらなければ先進国という、何を基準にしているのか知りませんが、文化レベルを図りなおした方が良いと思います。
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2024-12 ヘルシンキ中心部街並み
12月になると、ヘルシンキのメインストリート、マンネルヘイム通りとアレキサンテリン通りがクリスマスイルミネーションの飾りで、暗い北欧の冬が少し輝きを増します。時計のある正面のストックマンデパートの出口から外に出て、3人の鍛冶屋の像のスクウェアーに何か違和感を感じました。通りの対面に大きなタワークレーンが2基立っていました。そう言えば奥のTORNIホテルの塔がはっきりと見えています。隣接していた建物に前のビルの痕跡が残っています。通りを隔てた大きなビルが消えたと気づきました。
街中で、タワークレーンが立っていることに、工事現場でしたら別に珍しいしいことでも何でもないのですが、大きな建物が、無くなったことに驚きました。以前ストックマンデパートが大掛かりな改修工事をしたときでさえ、ファサード古い前面の外壁は残して、時間をかけてあまり違和感のない建物に生まれ変わったというより、元に戻ったという感じでした。駅近くの大きなバスターミナルを、地下に持っていったヘルシンキ中心部最大の再開発でさえ、二階建てのバスターミナルの上家は残っています。ターミナル近く、マンネルヘイム通りのガラスパレス、ヘルシンキ最初の機能主義建築と言われた1935年竣工の建物も店舗等は、時代で変化していますが、健在です。この建物を残すというヘルシンキ市民のセンスが私は、好きです。ですから、中心部の建物が、消えていくということに驚きました。少し冷静に考えると、隣のレンガ調の建物、その隣も残っています。以前の写真を調べてみましたら、確かに残すべきファサードの建築物ではありませんでした。少しホッとしてヘルシンキ中央駅に向かいました。ヘルシンキ中央駅からの正面の建物は、私が1971年に駅に降り立って眺めた景色と違和感はありません。何年経っても、昔の記憶を蘇らせてくれる街は、捨てがたいものです。
1960年代、北欧の建築は、世界から注目され、隣町Espoo市のタピオラTapiolaは、理想の田園都市として、世界中から視察団が訪れたほどです。フィンランドの著名な建築家がこぞってこの地区に腕を振るいました。オタニエミ工科大学(現アールト大学)は、アールト、学生会館はピエティラ、礼拝堂はシレン(安藤忠雄氏がイメージを感じたという)錚々たるメンバーでした。
私は、このフィンランドに憧れて大学へ行きましたが、住んでいた学生寮は、現在も続いているパシラ地区の再開発の先駆けとなる、東パシラ高層地区のど真ん中にいました。理想と現実のギャップに苦しんだ時代でした。
当時の理想都市タピオラ、地下鉄が通ったことで旅の終わりに訪れてみました。駅の周りは、ターミナルビル等が、建設途中なので、出口からどう動くと良いのか、ずいぶん迷いました。やっとのことで、昔タピオラセンターと言われていた、老朽化が進んでいるビルを見つけました。田園都市、遠い昔の話でした。バスに乗って次の地下鉄の駅まで行ってみました。住宅地区の配置に関しては、さすが、都市計画から、住宅も始まるという根本的なことは、しっかり生きているなと、少しホッとしました。
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2024-11 ヘルシンキ大学図書館
ヘルシンキ大学図書館、以前新しい図書館のニュースを見て、今回初めて訪れました。ヘルシンキ中央駅近くのOodiヘルシンキ中央図書館は、デザインの特異性、図書館のイメージさえ変えてしまう画期的空間で注目を集めましたし、全国各地から、人々が訪れましたが、ここは、第一印象、しいていいますと図書館らしい図書館でした。デザインは、馬蹄形アーチの巧みな外観、内部のオーバルの吹き抜け等流石に、フィンランドの建築家が、脈々と生き続けているという北欧らしいデザイン力に感心しました。各フローアーをゆっくり見学するほど、時間がなかったのですが、近隣建物を含めた模型を見て、ヘルシンキ大学の関連建物の多さに今更びっくりしました。一般的に言う大学キャンパスとは異なるのですが、町のど真ん中で、これだけの建物を連ねているのですからすごいことです。
私の学生時代は、大聖堂横の大学本館と道路を挟んだ丸いドーム屋根のいかつい建物が、大学図書館でしたので、よく通っていました。内部の重厚さが、古めかしさを感じ、いかにも貫禄の図書館という感じで好きな場場所の一つでした。少し気になって、行ってみましたら、プレートは、国立図書館と書かれていました。
私は、日本の学生時代後半は、卒業研究に没頭していまして、専門書を何冊も漁るため、勿論購入出来るほどの金銭的余裕もありませんから、どんな本でも揃っている国会図書館はよく通いました。閉架式という意味がよくわからず、何度も係の人に尋ね、必要な本を持って来てもらったことを思い出しました。半年以上、国会図書館通いでした。ですが、他に、日本の図書館はあまり知りません。フィンランド人は、読書好きで有名ですが、私もかなりの本を読む方ですが、買った本で無いと読みたくならない性格なので、本屋さんへはよく行きますが、図書館へは行きませんでした。
最初に、フィンランドを訪れた時、地方の都市(KUOPIO)の図書館をみで、建築の学生の目線なのかもしれませんが、建物のデザインにしばし、見惚れていました。ロバニエミ市のアールトの図書館も、もちろん有名ですが、私には、フィンランドにおける図書館のイメージは、クオピオの図書館でした。そういえば、私が一級建築士の試験を受けた時の、製図の課題は、図書館でした。受かるための試験ですので、何を意図しているのか、図面に表現することだけに追われる、思い出したくない苦痛の時間でした。
ヘルシンキ大学図書館、勿論一般の人が入館できます。2つの通りに面していて、大学本館正面のFabianin通りと駅から続くKaisaniemi通りにかかっています。地下鉄の駅ともつながっているのですが、以前は、駅名ヘルシンキ大学ではなく、カイサニエミ駅だったと思います。確かに、長いトンネルの通路で繋がっていますから、間違いでは無いのですが、昔、オタニエミ工科大学と言っていたのが、現在はアールト大学と言っています。勿論、大学の校舎の一部はアールト自身の設計のものがあります。観光客には、分かりやすくて良いのかもしれませんが、マサチューセッツ工科大学と比べられたオタニエミ工科大学の名前が消えることに、私は、寂しさを覚えます。カイサニエミ駅だって、古くから公園とつながる通りですから、市民にとっては、こちらの方が親しみやすいのではないでしょうか。市電の路線が、コロコロ変わって、それについて行ける、市民もすごいと思いますが、それとは別に、地名は大事だと思うことが、時代を感じてしまう年寄りの感慨なのでしょうか。
2024-10 久々のフィンランド-5
朝早く出かけようと思って、わざわざ前日にレンタカーを借りて、準備万端と思ったら、めざましのAM,PMをチェックせず、なりませんでした。急いで準備をして朝食へ、月曜日で仕事へ出かける人が多く結構混んでいました。わたしは北欧の朝食が大好きで、これは欠かせません。ジュースとミルクのグラスをまずテーブルに置いて、野菜、コーンフレーク、ハム等、今回は、パンを取らずにKarjalanpiirakkaカレリアパイがあったので、これを取りました。8時でもまだ外は薄暗いです。冬ですと、この時間は真っ暗です。デザートは大好きなベリー類をいっぱい盛ってその上にヨーグルトをかけます。これがいちばんのお楽しみ。コーヒーを、外の通勤の様子を眺めながら飲んで、いざ出発です。
今回一番の目的は、どちらかと言うと親友の墓参りです。コロナのせいもあって5年ぶりです。すごく気には、していました。私は、あまり語学が得意でないので、外人の、何でも話せる親しい友達が、仕事を通じてもできるとは思っていませんでした。そんな、彼からのメールで、『医者に長く持たないと宣告された』との報告。『鈴木、来れないか』というので、私は、次の日に飛行機のチケットを手配して、すぐ飛んで行きました。彼の家で家族とみんなで数時間話をして、彼も、疲れたから休むと言うのいで、ヘルシンキに戻り、私は日本へ帰りました。1週間後、弟から昨日、病院で亡くなったとの知らせでした。二人の息子と、奥さんを残して59歳でした
ホテルを出て、勝手知ったるマンネルヘイム通りを抜けて、フィンランドの古都Turkuトゥルク方面への高速道路をしばらく走ります。フィンランドは、郊外、国道は制限速度が、100kmですので、高速道路の120Km制限は、あまり変わり映えしませんが、信号がない分、確かに早いと思います。途中北のPoriへ向かう、国道へ道を変えて、再びTurkuへ向かう国道へ合流します。この道は、少なくとも年2回、多い時は数回、毎年車を運転していました。彼の住んでいたLoimaaロイマー市へ約2時間で到着です。最初に、少し気にしていた工場、事務所へ行ってみました。現在稼働している様子はありませんでした。もちろん会社の看板も変わっていました。エストニアの会社が、買収したという、噂は聞いたことがあります。ロイマー市郊外の墓地へ向かいます。小さな町ですから、市街を抜けてすぐ5分ほどでつきました。久々に墓跡の前に立ち、彼の好きなサントリーの山崎は、今、手に入らないので、北海道のニッカの小瓶を、墓石の中に作られているローソク台に入れました。『今度は、また来年来るよ、必ず!』
帰りは、いつも違う道を走ります。第二の都市タンペレへ向かう国道です。途中、Nuutajarvi村を思い出し、少し道を逸れて向かいました。グラスはIittalaが有名ですが、アラビアのグラス部門は、ここで作られていました。工房も現存していますが、あまり目につくものはありませんでした。タンペレの手前で高速は、タンペレ方向とヘルシンキへ分かれます。ヘルシンキへ向かい、途中イイッタラの街へ高速を降ります。大きな工場と、OUTRETのショップがあります。夏は、観光バスがよく来ていました。私は、いつもここで買い物をします。TAPIOのグラスが、半額セールでしたので、いくつか買い物も済ませました。昔は、よく日本へ直接送ってもらいましたが、そのサービスは無くなったみたいです。今は、23kgのスーツケースが、2つ預けれるよになりましたので、随分買った物のパッキンングは、苦労せず、楽になりました。レンタカーを空港に向けて走らせ、行きと同じ建物の駐車場に戻して、カウンターにキーを放り込めば終了です。空港で、列車、市電、地下鉄の乗れる2日券(48時間)を買って、列車、地下鉄でホテルへ何事もなく無事戻れました。ただ、5年間のブランクは、景色も含めて変化が多く、いつもより疲労感が残りました。
2024-10 久々のフィンランド-4
ロバニエミ空港を出発して、ヘルシンキへ到着です。税関こそ通りませんが、荷物の受け取りが、こんなに空港を拡張したのに国際線の客と同じ動線ということが、いくら搭乗時のチェックが厳しいとはいえ、少し気になりました。出口は、日本から到着した時と全く同じ場所なので、預けておいたスーツケースを3日分の金額を支払い受け取り、レンタカーの手配です。日本から到着した時は、早朝でしたのでブースは、開いていませんでした。書類を書いて、車のキーを受け取り駐車場へと向かいました。駐車棟3Bの2階を指示されました。重いスーツケースを引きずりようやく辿り着くと、指定番号に車はありません。手当たり次第近くの車にキーを押してみましたが、反応はありません。仕方なくまたスーツケースをガラガラ引いて、受付カウンターに戻りました。別のキーを受け取りまた引き返します。今度は大丈夫でした。
気を取り直し、ヘルシンキ市内に向けてアクセルを踏み込みます。日曜日でしたので市内は、渋滞というレベルではありませんでした。マンネルヘイム通りを抜けて駅前を左折と思ったのですが、左折禁止、次の道もその次の道もダメです。結局港へ続く公園大通りを進み、ようやく左折ができました。大学で通い慣れたFavianin通りを抜けてKaisaniemi通りからHakaniemiここでまた大きな道路工事にぶつかって少々遠回りしてホテルへ辿り着きました。ここHakaniemiハカニエミは、港の有名な朝市と同じくらい大きなスクエアーです。映画の『かもめ食堂』にでてきた朝市は、ここです。市電の各路線、バス路線が多くあります。
スーツケースを開いて、3泊の予定ですから、ゆっくりしよかと思いましたが、天気が良かったので、外に出ました。1971年、最初にヘルシンキを訪れた時、中央駅には、案内ブースがあって、ホテル手配などの手配をしてくれました。ユースホステルを訪ねたら、満室ということで、近くの高くないホテルを、探してもらい、駅から歩いて行ける範囲の宿に泊まった記憶が微かにあります。駅を出て右も左もわからず若いカップルに道を訪ねたら、地図を見ながらスーツケースを持ってくれてホテルまで案内してくれて、なんと優しい人たちだろう、何といい国だろうと思いました。今でしたら、年寄りでない限り10人が10人、スマホ片手に住所を打ち込み、教えてくれる、今回何度も経験しました。さすがノキアを産んだ国です。
今回泊まったホテルは、あまり大きくないので、ロビーはこじんまりしていて、レストラン、バーラウンジなどもちろんありませんでした。少し疲れていたので、お酒でも飲みたくなり、Hakaniemiにあるヒルトンホテルへ歩いて行きました。以前、仕事で竣工してすぐのヒルトンへ泊まったことがあります。大きな吹き抜けのロビー、そこにはガラス張りのエレベータが動いています。フィンランドの各地の石を、ふんだんに使った室内、眩しいくらいのビームの電球を散りばめ、落ち着かないぐらいの煌びやかな部屋を思い出しました。バーカウンターに座って、Pitka Olutta 大きいグラスのビールを頼みました。銘柄を問われたので、もちろんLapinKultaラピンクルタTornio市に工場を持つフィンランドのKoffと同じぐらい有名なビールです。カウンターで、ゆっくりとビールを味わって、明日のレンタカーでの移動を考えながら、自分の宿泊するホテルへと戻りました。
2024-10 久々のフィンランド-3
迎えに来てくれた、彼の家は、ロバニエミ市内から北へ15kmのノルバ湖畔の大きなログハウスです。空港の横の道を通るのですが、道が新しくなっていました。NATOに加盟してから道幅を拡張して直線部分も2.8Kmに伸ばしたそうです。そもそも滑走路として訓練時には使っていたのですが、再整備したそうです。使用は、年2回ほど約1週間この道路は使用できず、迂回路を通ることになるそうです。
私は一人の時は、いつも彼の家に泊めてもらうのですが、ロバニエミ市からさらに北へ500Km以上離れたところの別荘で暮らしていることが多く、連絡を入れておかないと留守なのです。地元の大きな建設会社の代表でしたが、弟家族に会社を譲り、今は悠々自適の生活です。狩三昧、釣り三昧の日々を過ごしているみたいです。弟家族も同じ湖畔の隣に、大きなログハウスの住宅に暮らしています。お互いの敷地の境界は塀が張り巡らされていますが、なぜかと質問すると、兄は、ポロ(トナカイ)が敷地内を彷徨くことを気にしないそうですが、弟は、畑の作物が荒らされることを防ぎたいそうです。もちろん柵を作ったのは弟で、わたしは感知していないと言っていました。私が訪れると必ず、弟夫妻は顔を出してくれます。今回は、彼の家の新たなサウナ小屋に招待してもらいました。以前、1955年に建てられたサウナ小屋買い取っていて、改修して使っているそうです。やはりサウナは、薪だきのストーブにかなうものはありません。湖面側を増築して、風が当たらないようにガラスの壁面のデッキにしています。さすがプロの出来栄えです。横には、2棟の異なる小さなコテージが建っているのですが、湖面に大きな開口を向けていて、来客が訪れた時、厳冬期に寒さを感じないで、オーロラを満喫できるための施設だそうです。私のニセコのコテージも、設計はもちろん私ですが、ここの会社に制作してもらっています。シルバーパインにかけては、フィンランドで各社を調べましたけれど、ここに技術面、繊細さでかなう会社は存在しませんでした。
ロバニエミ市は、サンタクロース村があることで有名ですが、施設のほとんどは、設計は、Esko-Lehmola エスコは、2年ほど前に亡くなりました。リゾート等の設計では、ヨーロッパで有名な建築家です。私もずいぶん色々と教わりました。そして施工は、彼らです。今回、久々にサンタクロース村にも行ってみましたが、当たり前なのでしょうが、いかにも観光客向けの建物がさらに増えて落ち着かないレイアウトが目につきました。特に気になったのは、手すり等が茶色や赤ではなく、朱色になっていたことが私のイメージからすると少々幻滅でした。
久々に、週末をゆっくりと過ごしました。日本では、毎週末はニセコで、果てしないメンテナンス、草刈り、薪割りと絶えず力仕事です。フィンランドにしては珍しく強い風が吹いていましたので、ノルバ湖は湖面が波立ち、少し異なる風景でしたが、湖面に静かに沈む夕陽は、白夜の太陽と異なり落ち着きを醸し出していました。
ロバニエミ空港からヘルシンキへ向けて出発です。
2024-10 久々のフィンランド-2
発車の合図も発車音もなく、列車は静かに動き始めました。最初の停車駅は、5分ほどで、PASILA駅、ヘルシンキ中央駅よりここが実質大きくなっています。ヘルシンキの象徴的中央駅の建物は、改修に限界があり、建て替えるという発想自体ヘルシンキ市民には、考えられないことだと思います。
私はここPasilaパシラに2年住んだ経験があります。当時は、東パシラは、新興地区でビル群が次々と建設されていました。私の済む9階の窓から、休みなく来るコンクリートミキサー車によってビルが建ち上がってゆく現場を眺めていました。当時は本当に小さな木造の駅舎でした。この駅から各方面に列車は分かれていきます。乗客が乗ってきまして、ここで問題が起きました。座席がダブっているとのことです。青年は、番号を再度確かめて同じだ、向かい側へ座るからそこでいいよと席を譲ってくれました。検札が来て、調べてくれて私の車両番号が違うことが発覚しました。貴方は、3両前の2号車です。言われてみると、確かに予約した時の記憶を辿ると2階席で、椅子が、2列1列でしたが、ここは、2列2列です。ネットで買って印刷したチケットには、座席番号表示だけでした。青年に詫びて、階段を降り、食堂車を通過して、何度も自動扉のスイッチを押して、2号車に移りました。ここもほぼ満席でしたが、私の席は確かにありました。ゆっくりとサンドイッチでも食べながら、車窓の景色を楽しもうとテーブル付きの座席を予約していたのですが、テーブルが向かい合わせの座席です。しかもテーブルの半分は、ノートパソコンで占められて、忙しそうにキーをたたいています。とてもゆっくり食事を楽しむ雰囲気ではありませんでした。周りを見渡すとほとんどの席でキーを叩いている人たちでした。シートも少し高級そうでしたし、ビジネスシートなんだ、それで、プラス25ユーロ高かったんだと思いました。
北へ170kmほど走ってフィンランド第2の都市タンペレへ到着です。停車は、わずか3、4分です。車窓からの景色を写そうかと思いましたが、あいにくの雨、停車に合わせて扉の外の、駅からの景色を撮ることにしました。
さらに北へ450kmのOuluオウル市、ここは人口20万人くらいの都市、オウル大学があって、ハイテク分野にたけています。かつてノキアの全盛期には、ここに研究施設も数多くありました。私は、ここの空港を数えきれないくらい仕事で訪れています。空港からレンタカーで動いていたので、ホームから駅を眺めるのは、初めてです。この地区古いままだったのですが、駅前も工事が始まっていました。オウルを出発してKemiケミ市へ向かう途中、夥しい数の風力発電の風車が目に飛び込んできました。決して風の強い国ではありませんから、羽は、ゆっくりと回っていました。日本では、数が増えていますが、この国の景色としては初めてでした。
オウルから途中、何ヶ所か工区間があって速度を落とし、終着駅ロバニエミへは、30分遅れの、乗車時間9時間の長い列車の旅を終えました。雨足は弱まっていません。ホームというか広場には、迎えの人々が多数来ていました。プラカードに名前を書いて探している人もいました。私も、友人を探しましたが見当たりません。雨が強く一旦駅舎に入りました。再度、あちこち見渡しましたがいません。持ってはいきますが、使わない携帯電話を起動させて彼を呼びました。元気な声で、『ようこそ!今どこだ。』ロバニエミ駅に着いたと知らせると、彼は、空港で私を探していました。いつも飛行機なので、時刻も伝えてあるのに彼は、聞いた時間に近い飛行機で来るものと思い込んでいました。『今から駅に向かうから、20分待っててくれ。全然急がないので大丈夫。』5年ぶりの、こんな再会でした。
2024-10 久々のフィンランド-1
9月26日23時に、成田を飛び立ちました。夜中の出発なので、免税店も閉じていて、まるでローカル空港からの静かな旅立ちでした。スケジュールより早くヘルシンキ空港へ到着です。税関を通る時、いつもの単純な英語による質問に、私は必ずフィンランド語でしか返答しません。職員によっては最後まで英語で質問を通す人もいますが、彼は、優しく質問してくれました。行き先はロバニエミ市、次に親友の墓参りと雑談を交えて必要以上のことを会話しました。朝早いので全然混んでいませんでした。最初の仕事は、スーツケースのパッキングをやり直して列車の旅用に小さなバッグに詰め直しです。大きくなった空港を物珍しく眺めながら、スーツケースを入れるコインロッカーを探しましたが、見当たりません。スーツケース売り場が、荷物の預かり所を兼ねていました。小銭、カードの用意をしなくて済むので、ここに預けました。レンタカーの窓口はまだ開いていませんでしたので、時間だけチェックして帰りに借りることにしました。次にヘルシンキ中央駅へ向かうため案内板を確認しましたら、出口からすぐに、列車のマークが目につきました。下へ深く続くエスカレータがそこにありました。今までのように、国内線へ向かう長いローカを歩かなくてすみそうです。エスカレータに乗った瞬間、モスクワの地下鉄を思い出しました。恐ろしい音をたてながら動く階段、速度が恐ろしく早くて一瞬足を出すのを躊躇するぐらいでした。さらにその横を走るように降りてゆくモスクワ市民の姿は、呆気に取られました。そこまでは早くないのですが、エスカレーターに乗って降りてゆきます。廊下を進むと以前の通路に合流します。たった100mか200mのために岩を掘り進むのですから、さすが、岩盤の国です。ホームは、左右に列車が止まりますが、どちらもヘルシンキ中央駅行きです。リングにはなっていませんが、右回り左回りの異なる地域を通っています。
ホームにある販売機で、カードではなく、小銭で切符を買いました。ゾーン分けになっている切符で、A,B,C,Dに分かれています。ヴァンター市、ヘルシンキ市、エスポー市、空港はCゾーンになるので、少し高い4.1ユーロの切符を買ってヘルシンキ中央駅へ向かいました。結構頻繁に検札が入りますので、不正があれば100€の罰金ですが、スイスのように観光客であろうが、なんであろうが、切符を持っていなければ即罰金というほどではなく、観光客にはかなり寛大に対応してくれているように感じます。
1971年に初めてモスクワから、ヨーロッパへ到着した懐かしのヘルシンキ中央駅、と言っても5年ぶりですが、今回は、初めてのロバニエミ駅までの列車による長距離旅です。朝早かったので、列車で朝食を食べるべく、サンドイッチを買おうと思いました。レジでお金を払おうと思いましたら、ここはカードしか使えないと言われました。さすがカード先進国。
長距離列車なので、早くにホーム到着しているかと思えば、8時19分発なのに、8時を過ぎても列車は来ません。心配になってホームを確かめましたが、10番ホームに間違いはありません。長距離列車は、日本のように電車編成ではありません。電気機関車が、客車を牽引するタイプです。終着駅ですので、機関車が前から押してきてホームに到着です。いよいよ8時間半の列車の長い旅の始まりです。
2024-09 久々のフィンランド出張
コロナが明けて何度か、フィンランドへの出張を計画しましたが、なかなか一歩を踏みだせませんでした。もう丸4年フィンランドを訪れていません。最初のヨーロッパの地、フィンランドから53年がたち、1年以上フィンランドへ行かないのは初めての経験です。このままでは、昔を懐かしむ浦島太郎になってしまいそうで、思いを新たに、9月26日ヘルシンキ行きの切符を取りました。13時間半の飛行は、私にとってさほど、苦にはなりません。フィンランド航空が日本へ就航した時は、同じくシベリア上空を飛んでいませんでしたから、北極圏経由でヘルシンキに到着していました。DC-10ERという特別仕様の飛行機で13時間半をノンストップで飛んでいました。当時は、今のような高性能の機材がなかったので途中経由での長距離便でした。ですからフィンエアーは実に画期的だったのです。
現在のタイムテーブルは、夜日本発、早朝ヘルシンキ到着ですから、仕事をするには、有効に1日を使える感じですが、今回は、ヘルシンキから飛行機を使わず、あえて朝、ヘルシンキ中央駅から北のロバニエミまで列車に乗ることにしました。約8時間半、日中の景色を車窓から眺めてみようと思いました。予約したのは、2階席ですので、より景色は良いと思います。途中駅は18駅ほどですので、ところどころ町の写真を撮れれば、いつもの車での移動と異なった風景が、味わえるかとも思っています。
しばらく休んでいました、コラムもたくさん続きを書けると思います。とりあえず、26日から1週間旅を終えてからのコラム再開にご期待ください。
2024-03 ニセコ リゾート
ヨーロッパだけではなく、日本でも暖冬の雪不足でスキー場が早じまい、倒産と明るい話題が少ない中、ニセコは、コロナも開けて外人客が戻って来て、活気を呈しているみたいです。暖気が時々ありましたが、雪はそそそこ降っていますし、2月も寒気が入り、多分まだ良い雪質です。以前は3月いっぱいでスキー場を終えゴールデンウイークに春スキーをふたたび楽しめましたが、今年はどうなるのでしょうか。毎週末、ニセコへ来ているのですが、スキー場の様子は全くわかりません。現在、もうスキーを楽しまないのと、異次元の世界へ足を向けないせいもあります。私のコテージは、JRニセコ駅から車で5分ですが、農家に囲まれていますので、30年間ほとんど変化がありません。大きな道路から枝分かれした町道ですので、交通量もほとんどありません。犬の散歩には、最適です。以前は大きな通りも楽しく散歩できたのですが、近年、犬を連れているのに、スピードも落とさず走り抜ける車が増えてきて、時代が変わったというよりマナーの悪さと、車の数の多さに平衡しています。
昔のスキーブームの時は、異常でした。スキー場のリフトも、レストランも人で溢れ、待ち時間が大変で、コテージに戻って昼食をとってまたスキー場へ、戻っていました。それでも今から思うと、のどかな時代でした。客層が二分化していませんでした。
現在、歩道が整備された道道沿いは、隙間なく建物が立ち並び、ホテル群が雨後の筍のように、景色との調和など考えたこともないように競い合って存在感を誇示しています。以前、リゾートの仕事をしていましたので、ヨーロッパの各地のスキー場もいくつか訪れています。中でも印象的だったのは、スイスからフランスのCourchevelへ向かった時です。ここは世界的なスキーリゾート地の一つです。アルベールビル冬季オリンピックのジャンプ会場になったところです。3つの谷にスキーコースが果てしなく広がっています。海抜が上がるほどホテルが高級化していきます。私は、Courcheve l850地区のホテルに泊まったのですが、ホテルの外壁が木材を使用している事等、細かな規則がたくさんあってのせいか、実に地区全体が、景色に溶け込んでいるのです。客室のベランダから、スキーを履いて近くのリフトに乗れるのには、少々驚きました。
規模は全然違いますが、フィンランドでも、ロバニエミから北東へ100k mのところにLuostoというノルディックスキーコースのすごく良いところがあります。日本人には、強化選手の練習などで、Vuokattiが有名ですが、私はルオスト(Luosto)が、お勧めです。全部ではないですが、シルバーパインコテージが連なる独特の景色です。私の友人もここにシルバーパインのコテージを持っていて、サウナ室の横のドアからスキーを履いて出て、100mくらいで、ノルディックコースへ入れます。もちろん夜間照明も付いていて夜遅くまで滑れます。5km、10km、15k mと体調に合わせて好きなコースを走れます。夜はやっていませんが、日中ですと飲み物を提供してくれる売店もあります。一滑りの後は、帰ってサウナです。こんな生活ができるフィンランドもまた、すばらしいところだと思いました。
私は30年以上前、バブルの最盛期に、リゾートとして残るのは、北海道では、ニセコだと思い、ここにコテージを立てる決心をしたのですが、思いとは裏腹に、ニセコ地域は発展?しました。最初オーストラリア人が、入ってきてラフティング等、ニセコで遊ぶ楽しさを教えてくれた時は、ニセコに期待しました。ところが、住んでいる人が楽しむ町ではなく、お金を持っている人だけを相手にする、田舎の良さも何も無くなってしまったまちづくり、都市計画でもなんでもない、私はそう思います。やはり日本人は、長いスパンのビジョンが持てない、下手くそな人種なのかな。そんな気がします。