2024-09 久々のフィンランド出張
コロナが明けて何度か、フィンランドへの出張を計画しましたが、なかなか一歩を踏みだせませんでした。もう丸4年フィンランドを訪れていません。最初のヨーロッパの地、フィンランドから53年がたち、1年以上フィンランドへ行かないのは初めての経験です。このままでは、昔を懐かしむ浦島太郎になってしまいそうで、思いを新たに、9月26日ヘルシンキ行きの切符を取りました。13時間半の飛行は、私にとってさほど、苦にはなりません。フィンランド航空が日本へ就航した時は、同じくシベリア上空を飛んでいませんでしたから、北極圏経由でヘルシンキに到着していました。DC-10ERという特別仕様の飛行機で13時間半をノンストップで飛んでいました。当時は、今のような高性能の機材がなかったので途中経由での長距離便でした。ですからフィンエアーは実に画期的だったのです。
現在のタイムテーブルは、夜日本発、早朝ヘルシンキ到着ですから、仕事をするには、有効に1日を使える感じですが、今回は、ヘルシンキから飛行機を使わず、あえて朝、ヘルシンキ中央駅から北のロバニエミまで列車に乗ることにしました。約8時間半、日中の景色を車窓から眺めてみようと思いました。予約したのは、2階席ですので、より景色は良いと思います。途中駅は18駅ほどですので、ところどころ町の写真を撮れれば、いつもの車での移動と異なった風景が、味わえるかとも思っています。
しばらく休んでいました、コラムもたくさん続きを書けると思います。とりあえず、26日から1週間旅を終えてからのコラム再開にご期待ください。
2024-03 ニセコ リゾート
ヨーロッパだけではなく、日本でも暖冬の雪不足でスキー場が早じまい、倒産と明るい話題が少ない中、ニセコは、コロナも開けて外人客が戻って来て、活気を呈しているみたいです。暖気が時々ありましたが、雪はそそそこ降っていますし、2月も寒気が入り、多分まだ良い雪質です。以前は3月いっぱいでスキー場を終えゴールデンウイークに春スキーをふたたび楽しめましたが、今年はどうなるのでしょうか。毎週末、ニセコへ来ているのですが、スキー場の様子は全くわかりません。現在、もうスキーを楽しまないのと、異次元の世界へ足を向けないせいもあります。私のコテージは、JRニセコ駅から車で5分ですが、農家に囲まれていますので、30年間ほとんど変化がありません。大きな道路から枝分かれした町道ですので、交通量もほとんどありません。犬の散歩には、最適です。以前は大きな通りも楽しく散歩できたのですが、近年、犬を連れているのに、スピードも落とさず走り抜ける車が増えてきて、時代が変わったというよりマナーの悪さと、車の数の多さに平衡しています。
昔のスキーブームの時は、異常でした。スキー場のリフトも、レストランも人で溢れ、待ち時間が大変で、コテージに戻って昼食をとってまたスキー場へ、戻っていました。それでも今から思うと、のどかな時代でした。客層が二分化していませんでした。
現在、歩道が整備された道道沿いは、隙間なく建物が立ち並び、ホテル群が雨後の筍のように、景色との調和など考えたこともないように競い合って存在感を誇示しています。以前、リゾートの仕事をしていましたので、ヨーロッパの各地のスキー場もいくつか訪れています。中でも印象的だったのは、スイスからフランスのCourchevelへ向かった時です。ここは世界的なスキーリゾート地の一つです。アルベールビル冬季オリンピックのジャンプ会場になったところです。3つの谷にスキーコースが果てしなく広がっています。海抜が上がるほどホテルが高級化していきます。私は、Courcheve l850地区のホテルに泊まったのですが、ホテルの外壁が木材を使用している事等、細かな規則がたくさんあってのせいか、実に地区全体が、景色に溶け込んでいるのです。客室のベランダから、スキーを履いて近くのリフトに乗れるのには、少々驚きました。
規模は全然違いますが、フィンランドでも、ロバニエミから北東へ100k mのところにLuostoというノルディックスキーコースのすごく良いところがあります。日本人には、強化選手の練習などで、Vuokattiが有名ですが、私はルオスト(Luosto)が、お勧めです。全部ではないですが、シルバーパインコテージが連なる独特の景色です。私の友人もここにシルバーパインのコテージを持っていて、サウナ室の横のドアからスキーを履いて出て、100mくらいで、ノルディックコースへ入れます。もちろん夜間照明も付いていて夜遅くまで滑れます。5km、10km、15k mと体調に合わせて好きなコースを走れます。夜はやっていませんが、日中ですと飲み物を提供してくれる売店もあります。一滑りの後は、帰ってサウナです。こんな生活ができるフィンランドもまた、すばらしいところだと思いました。
私は30年以上前、バブルの最盛期に、リゾートとして残るのは、北海道では、ニセコだと思い、ここにコテージを立てる決心をしたのですが、思いとは裏腹に、ニセコ地域は発展?しました。最初オーストラリア人が、入ってきてラフティング等、ニセコで遊ぶ楽しさを教えてくれた時は、ニセコに期待しました。ところが、住んでいる人が楽しむ町ではなく、お金を持っている人だけを相手にする、田舎の良さも何も無くなってしまったまちづくり、都市計画でもなんでもない、私はそう思います。やはり日本人は、長いスパンのビジョンが持てない、下手くそな人種なのかな。そんな気がします。
2024-02 ニセココテージ屋根雪下ろし
ニセコのシルバーパインのコテージhoasは、今年築33年目に入りました。新築年を除いて毎年、1月末から2月にかけて、年に一度屋根の雪下ろしをしています。ですから、今年は32回目になります。屋根面積だけで、200平方メートルを越します。何層にも積もった雪は、1.5メートルを越します。構造的には、雪下ろしをしなくても耐えことができると思います。屋根断熱等、付加断熱を何度か行っていますので、新築当時のような氷柱等巨大化することはありませんが、室内ドアの何箇所が閉まりにくくなります。もちろんログ自体は、シルバーパインですので伸縮の心配はさほどありませんが、積雪荷重が大きいので、降ろすことにしています。メンテナンスの一部かもしれません。
毎回1泊2日でメンバーを10人ほど厳選、集合してもらいます。遠くは道外、道内各地からこの日のために集まってくれます。初めて参加した人は、屋根に上がったとたん、雪の多さに絶望を感じ、1日では終わらないと感じたみたいです。長年やっていますので、多くはベテラン揃いです。ここにも、高齢化の波は、確実に押し寄せていますが、1日でしっかりと屋根の雪は、地上へ降ります。一人が、大型の除雪機で、落とされた雪をテキパキと周りに飛ばします。トラックに除雪機を乗せ、当別町から駆けつけてくれるのですから、良き友人たちです。街中と違い、幸い充分飛ばせる敷地はありますので、膨大な雪の搬出にさらに時間を取られる心配はいりません。昔は、雪おろしの後、ナイタースキーへも出かけたり、ホテルで夕食会を催したりしたのですが、さすがに年齢を重ねると、その元気はなく、出かけることは無くなりました。
皆様が楽しみにしてくれている、外のサウナ小屋の薪ストーブに火を入れ、50年に渡って私が、フィンランドと関わっている中で、多くの友人宅を訪れた経験と、あらゆる種類のサウナの知識を学んで、最もフィンランド的な自慢のサウナに交代で入ります。今、日本ではサウナブームですが、そのこととは全く関係なく33年サウナを使い続けています。疲れた体をサウナは、存分に癒してくれます。サウナ室を出て外で涼んで飲むこだわりの小瓶のビールは、最高の味わいです。冬は、庭の木々の葉が落ちているので、正面に羊蹄山を望むことができます。ここを訪れるフィンランド人は、フィンランドよりフィンランド的だと言ってくれます。
サウナの後は、食事、恒例の飲み会が始まります。暖炉を囲みながら、夜遅くまで疲れを忘れて話はつきません。これから、体力的に後何年続けることができるかは、わかりません。ただ、屋根の雪下ろしという行事に?、みんなが集まってくれる場がある事、時間を持てることに幸せを感じずにはいられません。
2023-12 ヘルシンキ中央駅
テレビ欄を見るとBS1で、かもめ食堂の再放送をしていました。先月観に行ったアールト同様、小さな映画館で随分前に見たのですが、その時も、そんなにこの映画が流行るとは思わず、すぐ上映が終わるかもしれないと、初日に見に行ったものです。その次のテレビ欄が目に止まりました。ヨーロッパ発駅ロマン、ヘルシンキ駅と書かれていました。早速録画して夜遅くに見ました。駅の花屋さんがメインでしたが、徴兵の見送りのカップル、徴兵時期を振り返り思い出すカップル、駅の別れ等が映し出されていました。ヘルシンキ駅は典型的な終着駅ですから、旅情をくすぐります。線路は、ロシアを除くと直接ヨーロッパとは繋がっていません。私は、残念ながら、この駅で人を見送ったり、出迎えた記憶はありません。ただ、シベリア鉄道を経由して、初めてのヨーロッパ到着が、ヘルシンキ駅でしたから、もちろん人一倍感慨はこの駅には、あります。当時は、大屋根もなく、吹きさらしのホームでしたが、新たな世界が広がる緊張と、希望に満ちた一歩でした。
広大な貨物ヤードがなくなり、新しい建物が立ち並び、駅の周りもどんどん変わっていきますが、この駅舎と、正面玄関から出た時の空間と、目の前に映る建物の変わらぬ存在感には、ホッとさせられます。大学時代、学生寮と大学の通学にはよく、この駅を利用しました。たった一駅の利用でしたが、車窓の風景は、今でも鮮明に記憶に残っています。通学定期は、とても便利で市電、市バス、鉄道も利用可能でした。その日の気分でいろいろの交通機関を利用していました。
現在は、ヘルシンキ空港とも直結され、ループではありませんが、右回り、左回りのルートで空港へ向かえます。ホームと並行に連なっていた鉄道会社の建物は、現在改装されホテルになっています。ホテルの部屋の窓からホームが見渡せるなんて、鉄道ファンにはたまりませんね。この建物も駅舎同様、私の大好きなエリエル・サーリネンの設計ですから、なおさら、次回訪れるときはぜひこの、HOTEL GRAND CENTRALに宿を取りたいと思います。
ヘルシンキ駅で、クリスマスの思い出は、日本へ帰って会社勤めをしていた時のことです。フィンランドのクリスマスを楽しもうと急きょ、旅立ちました。当時ですから、もちろん直行便はなく、モスクワ経由ヘルシンキ着です。空港から、ヘルシンキ駅へ向かい、最終列車に飛び乗りました。目的地は、友人家族の住むIMATRAでしたが、クリスマスイブは、長距離列車は、早じまい。国鉄が、休むなんて、そんなこと知りませんでした。200km走ったKOUVOLA駅で、「この列車はここで終着です」と降ろされました。どうしようかと、駅で途方に暮れていると、親切な方が、とりあえず我が家へどうぞ、ちょうどサンタクロースが来る時間だからと、招待してくださいました。フィンランドは、子どもへのプレゼントをサンタさんが自宅へ持って来てくれます。
電話帳を調べて、友人宅へ電話をしてくれたのです。友人は、120kmの厳冬の道を、迎えに来て来てくれました。また、120kmの道程を、ご夫婦で歌いながら、運転してようやくイマトラ市へたどり着きました。みんなが親切な、古き良き時代でした。
2023-11 AALTO-アールト
久々に映画館に、足を運びました。2020年フィンランド制作アアルトのドキュメンタリー映画が、11月末に札幌でも上映されたからです。北海道の建築家は、アールトファンが多いので、知っている方がいるのかなと思いましたが、年配の人は、わずかで、若いカップルが多数を占めていました。コラムで、何度も書いていますので、今更書くことはないのですが、思ったよりずっと良い作品でした。アールトを、特別賛美することなく過去の人ととらえ、反対者の意見も、インタビューでそのまま表現しています。建築家の目で捉えていないところも、必要以上に建築物にこだわってない所が新鮮でした。字幕と並行して、耳に入ってくるフィンランド語が、心地よく時代を遡らせてくれました。パートナーのElissaが、アールトが病院に入った時、看護師からEläkeläinen(年金生活者)かと問われて激怒したという話、すごく面白かったです。良きパートナーだったことが、想像できますし、仕事に対するパートナーのプライドなのでしょうね。ただ、私の多くの友人は、大きな会社を経営していても、あっさりと仕事を譲り、年金生活で、実に楽しそうに、釣り三昧、狩三昧をしています。これもまた羨ましい国です。
私個人は、フィンランド国内の多くの彼の、建築をみていますが、アールト氏とは、自邸のあるMunkiniemiで散歩途中の彼に挨拶をしただけの面識しかありません。
1976年、私が、両親のヨーロッパ旅行に付き合うため、ヘルシンキから船でストックホルムへ向かう時、友人が見送りに来てくれて、大きな声で船に向かってアールトが亡くなったと、知らせてくれました。一つの古き良き時代が、終わったと思ったことを覚えています。
私の友人が、ヘルシンキ市役所に勤めていました。フィンランドの、最新の建築事情を、彼女からいつも、いろいろ教えてもらいました。デンマーク出張中に突然倒れて亡くなったのですが、彼女は、アールトのエッセイとスケッチ集の復刻版を訳した本を2009年に出しています。吉崎恵子さんが、この映画を見てどんな感想を持ったか、聞いてみたい気がします。
2023-04 シベリア鉄道
4月は昔、旅立ちの季節でした。五木寛之の小説、『さらばモスクワ愚連隊』を読んでシベリア鉄道へ向かった人々。大瀧詠一の『さらばシベリア鉄道』ではないですが、1960年後半、先輩たちが、横浜港を出港して、シベリア鉄道の旅を続けて、ソビエト連邦との国境フィンランドのVAINIKKALA駅で信じられない厳しい検問を受けたのち、フィンランドの機関車に牽引されて、自由のヨーロッパの玄関口ヘルシンキ中央駅へ辿り着きました。
先日フィンランドの友人と電話で話をしたのですが、先駆者と言って良い人々の一人、以前VARKAUS市で指揮者をされていた方が亡くなったそうです。また一人、フィンランドと深く関わった先輩が旅立ちました。私も、70年代初めにシベリア鉄道に乗ってヘルシンキを訪れた人間ですから、過去形にさしかかっているのかもしれません。
長く続いた冷戦の時代にも、西側との架け橋として続いていたシベリア鉄道、ハンガリー動乱、プラハの春、力で東欧諸国を縛りつけた悪き時代、鉄のカーテンと言われた遮断された東西の時代もモスクワーヘルシンキは列車が走っていました。ウクライナ侵攻が始まったつい最近まで走り続けていました。
シベリア鉄道を、繋いで若者は、ヨーロッパへと旅立ち、東西ベルリンの壁を目の当たりに見て、ベトナム戦争しか知らない、マスコミ、アメリカの情報の世界観だけしか持っていなかったことに、初めて気づき、世界で起こっていることを、肌で感じて、自分で考えることの大切さを知りました。
小国のフィンランドに対して、一部の不勉強な政治家に、フィンランド化というソ連邦の属国のような揶揄する発言がなされたこともありますが、冬戦争において、現在のウクライナのように一方的な侵略を受けながらも持ち堪えたフィンランド魂SISUは、健在でした。今回のNATO加盟は、戦後理不尽な賠償を強いられ、それでも、1952年、賠償を終えヘルシンキオリンピックを開催し、あえて中立を保って来たフィンランドの生き方を、無視した狂気の沙汰のプーチンに、全ての責任があります。知ったかぶりのロシア擁護派は、論理的表現さえ欠けている人間です。戦後の日本が受け入れたのは敗戦ではなく、終戦という表現で、責任の所在をうやむやにして全ては、軍部の責任にしたように、全ては、プーチンの責任で済ませるのではなく、ロシア国民自身が責任を負わなければいけないという自覚がない限り、ロシアの歴史はまた繰り返すだけでしょう。
現在、シベリア鉄道ではなく、シベリア上空を飛べない状況、ヨーロッパの旅は長い時間を必要とします。今更、鉄路を使うことはないと思いますが、ロシアがウクライナ全土から一刻も早く完全撤退し、膨大な戦後賠償を自ら受け入れ、シベリア上空を今まで通りに自由に飛べる日が来ることを、シベリア鉄道を二度も経験した人間として、今度は空からまた、シベリアを眺望できる旅の再開を切に望みます。
2023-03 2月のニセコ大雪
2月に入ってからのニセコは、後半大雪、すでに終えた屋根の雪下ろしが、無かったかのようにこんもりと積もっています。1月末の雪下ろしで、異常な胸の痛みに不安を感じ、精密検査をしてもらったところ、労作性狭心症と診断されました。静かに生活するなら、生きていけるかもしれないと医師に言われました。私には、到底享受できる生き方ではないので、好まない入院ではありましたが、カテーテルによる手術を3泊4日で受けました。リハビリの自転車漕ぎも、息切れ、胸の痛みもなく、ことのほか順調でしが、これで、フィンランド行きは、またまた延期です。
ついでですから、食事の時、食道への違和感もあったので、胃カメラ等徹底的に検査してもらったのですが、心臓以外は全て問題なしで、少し安心しました。昔、インドへの旅で40日間滞在して、お腹一つ壊さなかった私ですから、やはり、胃腸はすこぶる丈夫でした。
冬場は、除雪のため、ほぼ毎週行っていたコテージへも、3週間ぶりの再開となりました。おまけに、ニセコ、想像を遥かに超える異常な積雪でした。門からのアプローチも、約1メートル積もっていました。術後、静かに生活していたので、当然体力は落ちています。幸い、長男が連休で札幌へ帰って来ていたので、力のいる排雪は彼に任せました。2泊しても、半分くらいしか除雪できませんでしたので、少し、弱気になって、コテージの維持管理に不安を感じました。体力が回復しても、今までのように動かないようにと、家族には、キツく言われています。建てて、32年を経過していますが、職業柄、メンテナンスを怠ったことはありません。フィンランドでも、数少ない特殊なログハウスなので、フィンランド人には、これは、フィンランドの文化だ、残さなくてはいけないと、人ごとなので気楽に言われています。私はフィンランドと関わって、52年になります。その証のような建物の維持は、続けなければなりません。多分、これが、私なりのフィンランドを表現する思い、フィンランドへの愛着だと感じます。いま少し、気落ちしていますが、雪解けとともに、活気を取り戻し、新しい試みを続けようと思っています。
2023-02 HAUTA巡り 旅の計画
3月末、夏季スケジュールからフィンランド航空、大阪便が週3便で復活するそうです。羽田、成田便を合わせて週14便でヘルシンキへ行くことができます。名古屋、福岡、札幌は再開の目処が立っていないみたいです。シベリア上空を依然飛べませんから、ヨーロッパ最短路線の強みは無くなってしまいましたが、私のように目的地がフィンランドの人には、ただ、時間が昔の13時間に戻っただけのことです。特に驚きはしません。
北欧で、私が訪れた時代のフィンランドは、本当に田舎でした。空の玄関口は、コペンハーゲンが、ダントツに大きく、ストックホルムも及びませんでした。北欧の翼は、デンマーク、スエーデン、ノルウェーのSASスカンジナビア航空でした。フィンランド航空は、DC-8のニューヨーク路線を唯一持つくらいの小さな航空会社でした。それが、DC-10で、北極点経由の東京直航便を開設して、ヘルシンキ空港をローカル空港から脱皮させました。規模をどんどん拡張して、北欧デザインの美しい空港に生まれ変わっています。便の乗り継ぎは、相変わらず短時間で済みますので、ロンドン経由の不便さを考えたら、依然、ヘルシンキ経由はお薦めです。
いっ時の、航空運賃よりは、下がり始めましたので、そろそろ乗り時かと考えています。でも、やはり3年というブランクは長すぎて、どうしても躊躇します。フィンランドへ行かなくとも、メール等で仕事は成り立っています。以前なら、工場のラインのチェックは欠かさなかったのですが、親友の社長が亡くなって、一緒に世間話をしながら工場を巡る時間も、あえて必要と思わなくなって来ています。届いたコンテナの中身を確認して問題がなければいいか、などと思っています。
フィンランドへ、出かける時、仕事抜きのスケジュールを組んだことはありません。今、思ったんです。仕事抜きで、フィンランドへ行ってみようと。
会社、工場へは、連絡を入れず、早朝ヘルシンキ空港に到着したら、乗り継ぎで、ロバニエミへ向かい2、3泊。古くからの友人と時間を気にしない会話を楽しもう。相手は、迷惑かもしれませんが。
ヘルシンキへ戻って、レンタカーを借りて、LOIMAA市の親友の墓地へ、ウィスキーの小瓶を持って3年の不義理を詫びようかな。次にLAHTI市へ向かって、老人介護施設へお邪魔して、クリスマスカードで亡くなったことを知らせてくれたお礼と、墓地の所在を、教えていただこう。ヘルシンキへ戻って、1974年からの知人で、ヘルシンキ市役所の都市計画を担当していて、最新のフィンランド建築事情を随分と教えてもらったり、私が、ヘルシンキ中央駅の設計者サーリネンが好きで、Nゲージの駅の模型を作りたいというと駅舎の図面を取り寄せてくれた、彼女の墓地も又、訪れなければいけない。
まるで、四国の88箇所巡りのような旅ですが、こんな旅も旅慣れた私には苦になりませんので、楽しく過ごせるかもしれません。
先日、ヘルシンキ大学の新しい図書館の記事を見ました。私の通っていた時代は大聖堂の横の坂道にドームような屋根がとび出たいかつい建物でした。古めかしくて、私は、結構好きでした。この新たな建物も是非みにいこうと思っています。古い学生証は、使用可能でしょうか?。いずれにしましても、少し楽しくなって来ました。旅の報告、乞うご期待です。
2023-01フィンランドでの新年
50年以上フィンランドと付き合っている私は、1月にヘルシンキを訪れたことは、10回をこしています。社員を連れての何度かの会社のフィンランド旅行は、仕事柄忙しくない冬を選びますので、必然的に1月になってしまいました。 元旦早々の出発は、いくらなんでも厳しすぎますので、大体2日、3日が定例でした。当時成田発のフィンランド航空は、札幌からの当日接続が無理でしたので、成田前泊が必要でした。時々成田山で初詣をしてからフィンランドへ向かうこともありました。
考えてみますと、私がフィンランドで新年を迎えたのは、学生時代を含めて3度程度だと思います。今も同じだとは思いますが、大聖堂の前でのカウントダウン、大統領演説、港からは、汽笛が鳴り響き空には花火が上がります。日本の信念とは、当然異なりますが、新しい年を迎える感慨は変わらないと思います。家庭では、馬蹄の形をした錫をスクープに乗せ溶かして、水の入ったバケツに注いで、その形から新年の運を占います。全てが真似事で、どれが正しいのかわかりませんが、見よう見真似で、フィンランド人のように新年を迎えた事を思い出します。
楽しかったフィンランドでの新年の記憶、一人孤独を感じて迎えた外国での新しい年を、どう生きようかと悩んだ時もありました。全ての関わりを、友人達に支えられ、50年の月日をフィンランドと関わって生きてこられたことは、今にして、幸せだったとつくづく思います。
コロナによって、ポッカリと空いてしまった時間を、どのように修復できるのか、未だ定かではありませんが、少しずつ、今更前に向かっていこうと思います。フィンランドにとっても、私にとってもロシアの問題を避けては通れませんが、非は、全てロシアにあります。マルクス、ガブリエルではありませんが、論理的説明を、できないものは、屁理屈以外の何者でもありません。
核の脅威に対処するという言葉を、散々使ってきておきながら、いとも簡単に主張が崩れ去り、前世紀の遺物のような社会に戻ることさえも阻止できない、現在の先進国と称する国々は、大戦を経て、何を学んできたのでしょうか。
理想国家など、あり得ませんが、フィンランドと長く付き合ってきて、根本的な政治への関わりの違いを感じずにはいられません。どちらが正しいとかではなく、どこへ向かうのかを、自分の意見として、見極めなければいけない時期に、確実に入って来ていると思います。
2022-12 クリスマスシーズン
クリスマスカードを友人に送る準備をしなければいけない季節になりました。会社を経営していますので、年賀状は毎年200枚くらい書いていましたが、仕事の規模も減らし、営業も手抜きになっていますので、年賀状も数年前からやめにしました。ただ、クリマスカードだけは、フィンランドの友人、会社関係へ送り続けています。取引先の担当者が、変わったり定年でやめたり、変化はあるのですが、毎年25枚くらいは送っています。できるだけ日本を感じるもの、札幌のイメージ写真等です。
一人、取引先を辞めて久しい人ですが、カードは送り続けていました。数年前から、代筆になっていましたが、昨年老人介護施設からカードが届きました。当人は、亡くなられましたとの添書きがしてありました。コロナのせいで、また一人、挨拶もできないまま、顔を見ることなく去ってしまいました。同時に、施設の方の心遣いに心温まる思いでした。毎年代筆をしてくださった方かどうかはわかりませんが、わざわざ知らせていただいたことに、今更フィンランド人の優しさを感じました。
私も充分、高齢になってきていますから、元気なうちにフィンランドへ行かなくてはと思います。幸い仕事の打ち合わせがありますので、足を少し伸ばすだけなので、主体が墓参ツアーにはならないと思いますが、現在、三カ所を訪れるのは少々大変かもしれません。長年フィンランドと付き合っていると、もちろん友人も増えますが、別れも増えるということに少々寂しさも覚えます。
クリスマスといえば、もちろんサンタクロース、サンタクロース村のある北極圏のロバニエミ市は、今年も賑わっていることと思います。ここも随分通いました。我が家の子供が小さいときは、ここから、サンタさんの手紙を送ってもらえるように手続きもしました。当時は、手数料もかかりませんでした。
私が、初めてフィンランドでクリスマスを迎えたのは、1974年学生生活をしていたときです。驚いたのは、家庭に本物の?サンタクロースが入って来ることでした。サンタさんが持っている袋の中には、子供たちの分だけではなく、家族のプレゼントも次々、出てくることでした。私の分まで用意してくださった、イマトラ市の家族には、今でも感謝しています。クリスマスには、友人は必ずご先祖のお墓参りをしていました。毎回連れて行ってもらいましたが、墓地もローソクが、クリスマスのようにいっぱい輝いていました。
その後、何回もクリスマスシーズンにも、フィンランドを訪れていますが、ストックマンデパートの子供のためのショウウインドゥの飾り付けは、続いているのでしょうか。3年も訪れていないと自分の頭の中のフィンランドが、遠い世界の出来事のように思われてしまいます。
フィンランドの田舎のように、ニセコの外のサウナ小屋に、火を入れてローソクの灯りで、クリスマスのサウナを楽しみたいと思います。