2016-01 久々のフィンランドで感じたこと

プダスヤルビ町中

左 給食棟 右 校舎

校舎内ホール
怪我の後、約2年近いブランクのフィンランド出張でした。ヘルシンキ空港から乗り継ぎで、北のオウル市へ飛んで、翌日レンタカーで北東へまず、80Kmの移動です。仕事の忙しかった以前は、月の半分は、毎日運転したなれた道ですが、久々のドライブは、雪の遅かった北海道はまだ冬道になっていなかったので、いきなりの冬道の運転と少し緊張しました。シャーベット状の雪は滑るのですが、フィンランドのレンタカーは、スパイクタイヤなので、少し楽に走れます。
人口8千人ほどの町の郊外に取引先の工場はあります。町の中心部を一回りして、オフィスへ向かいました。近年、ログハウスの仕事は多くないので、社長とは7年ぶりくらいの再会です。合理化の進んだ工場を隅々まで案内してもらってから、工場の食堂で昼食、続いて現在進行中の大きな現場を見せてもらいました。フィンランドで最大というログハウスの建物は、学校で9800m2もあります。
フィンランドも他国と変わりなく、大都市一極集中が進んでいます。特に首都ヘルシンキ及び近郊に顕著です。ですから、田舎の町は、取り残され、人口がどんどん減っていきます。見学させてもらった学校は、 プダスヤルビPudasjärviという町で、現在全フィンランドから注目されています。注目を集めている理由は、点在する小中学校を、国道沿いの町の中心部に集め新校舎をログハウスで建設しています。三翼に分れた校舎で、それに給食センターが併設されています。児童は、バス、自家用車等で通学します。この給食センターは児童への給食はもとより、地域の老人住居、施設への配膳もこなします。
町長が、ユニークな方で老人へのコンクリート施設は、精神衛生上も良くないと、今、町の中心部にこれまたログハウスのテラスハウス(長屋)を新たに何棟も建設しています。
今日本では、過疎化が進み、地方都市では、財政難でコンパクトシティーの取り組みをさかんに言われています。土地にゆとりがある田舎でこそ、
プダスヤルビ町で始まろうとしている計画が、新たな町の行き方として参考になるのではないでしょうか。
2015年4月3日 金曜日 古くて趣のある建築散歩7
昨年は、暖冬で、ヘルシンキ市内は、雪の無い1月でしたが、私にしては、珍しく怪我もありまして、今年は、未だフィンランドを訪れていません。今年もヘルシンキは、暖冬で春を迎えそうです。4月に入りますと、フィンランドの人々はこぞって、外へ出かける季節です。 朝市の開かれる南港へ向かう公園、エスプラナーディーの右手、つまり南側に、7階建ての四角い窓の規則正しく並ぶ2棟のビルに挿まれるように、重厚なグレーの石造りの建物が目に入ってきます。手前の建物は、1階にアールとの家具、artekが入るビル。奥の四角いビルは、最上階にこれ又、アールトの家具、照明が素敵なレストランsavoyがあるビルです。 このグレーの正面中央に、列柱がデザインされた1907-1908年建築のこの建物は、抵当銀行協会で、ヘルシンキ市内に数多く点在するラルス、ソンクの設計です。建設当時左右の建物は、2階建てのオーソドックスなものでしたから、ひときわ存在感を示していたと思います。クラシカルなエレメントを多用したソンクの、当時ヘルシンキを圧巻していたロマン主義がよく表れている全盛期の建物といえます。奥に縦長広がる設計で、2つの中庭片方は、三角の屋根付き地上4階の建物です。現在は、増築年は私は把握していませんが、銅葺きの外観の2階が増築され、両隣の建物とほぼ同じ高さになっています。重々しい木製の玄関扉は、当時を彷彿させ、1900年初頭に時代をさかのぼる感覚です。 ヘルシンキ市内は、再開発が進み現代的なビルが、どんどん建てられています。でも、私が最初に訪れた44年前のヘルシンキ、中央駅を降りて目にする光景は、当時の建物が消えたわけではありません。記憶だけに存在するのではなく、調和をもって古い建物が生き続けています。ですから違和感を持たないで、又、ヘルシンキの町並みに接することが出来ます。 これからの季節、どんどん日照時間が増えていきます。新旧の建物を見ながら、ヘルシンキ市内を散策されることをお奨めします。
2015年3月2日 月曜日 フィンランドから学ぶもの 自然
自然と親しむことに、フィンランド人は実に長けています。多くのフィンランドの人々は、サマーコテージ等を所有しているか、共有していて、週末には、そこで過ごすことが習慣となって、生活のリズムに溶け込んでいます。太陽が輝く季節には、通勤ラッシュならぬ、金曜日の夕方の郊外へ出掛ける車が続き、日曜日の夕方は、都会へ戻る車のラッシュが見られるほどです。 どんなに忙しいフィンランド人でも、夏休みは、しっかり何週間も、取りますから、コテージで自然の中にどっぷりと漬かることが出来ます。親子で過ごす自然との関わり、森を散策したり、ベリーの採取、狩、湖で泳いだり、魚を釣ったり、まき割り、薪の熾し方、親から子供への自然との接し方が、確実に伝授されるのです。 こんな素敵な生き方、フィンランド留学時代から、家族付き合いさせていただいた人々から学びました。会社勤めをやめて、独立してからフィンランドと関わる仕事を始めてからは、一層、仕事の人間関係においても、業務を終えた時間を、自然と親しみながら、狩に出掛けたり、湖で釣を楽しんだり、スノーモービルで何時間も山を駆け巡ったり、フィンランド人の生き方を学ばせてもらった感じです。 日本において、もし、こういう生活を始めたいと思ったら、東京のような大都会では、よほどのお金持ちでない限り不可能ですし、移動する時間がかかりすぎて、せっかくの休みも少なくなってしまいます。その点、北海道でしたら、フィンランド人のような生き方が可能な地域です。自然は、フィンランドと似ていますし、都市部を離れれば、道路も整備されていて土地も安く、広大です。食べ物は、フィンランドよりずっと恵まれています。この絶好の条件を、無駄にすることはありません。私は、随分とこの生き方を北海道の方々に、週末の過ごし方を説明してきました。バブルがはじける前は、ログハウスも北海道で、あちこち建てる方が増えました。しかし、バブルがはじけた途端、景気の悪化と共に自然との関わりも意気消沈でした。 今さらながら、私は思います。フィンランド人は、身の丈に合った生活を自然と共にしています。見えを張って生きていません。それが、自然と暮らすことではないのでしょうか。北海道も東京志向をそろそろやめて、この素晴らしい自然を誇りに生き始めるべきです。 何の成果も上がらない、道政を恥ずかしくもなく又、続けようという指導者は、そろそろ交代してもらって、若者が自信を持って生きていける北海道をつくりだしませんか。
2015年2月3日 火曜日 フィンランドから学ぶもの
私が、フィンランドと関わって今年で44年になります。大学留学でヘルシンキに住み始めてからも、40年以上の歳月が流れました。2年半の大学生活を切り上げて、日本へ帰り、人並に就職してからも、フィンランドとの関わりは続けていて、年末には、飛行機に飛び乗っていました。当時の建築業界は、冬場は決して忙しくなかったので、私の我がままをとおさせてもらえました。そんな私をフィンランドの友人は、いつも暖かく迎えてくれました。自分の設計する家は、北欧のレベルに達していなければ我慢がならず、ついに自分で会社を興すことにしました。何のあてもないけれど、北海道をフィンランドのように生活する環境を作りたかったのです。 最初に動きだしたのは、フィンランドはサウナで有名ということで、家庭にもサウナのある生活を奨めました。そうこうしているうちに、住宅の設計の仕事が、入ってくるようになりましたので、待望の木製サッシ、ドアの輸入を始めました。もちろん販売ではなく、自分が設計した住宅に、木製サッシ取り付けるためです。何せ、外国との商談ですから、当時電話代はものすごく高かったですし、ファックスもレベルが低かった時代です。打ち合わせのための安い飛行機を探して、年1回の出張です。フィンランドの会社の人たちは、こんな小さな会社の小さな商談に、来年又仕事になるかどうかも解らないのに、本当に親切に付き合ってくれるのです。ヘルシンキから離れた会社を訪れたときは、社長宅に泊めてくださったりもしました。大学留学時代より、はるかに広い世界の方々と、つきあわせていただくことが出来ました。 私の、今のフィンランドに関わる知識は、フィンランド人の生き方そのものを、直接生活の中で接することによって教わったものです。 時が流れて、日本がバブル景気という異常な景気に沸き立っていました。例外なく、私の会社もずいぶんと大きな仕事をさせていただきました。でも私は、フィンランド人の生き方を学んでいたつもりです。株価、土地に躍らされて、金もうけを考えるのではなく、フィンランドから学んだ集大成をフィンランドと関わった20年を、フィンランドの文化として形に残したかったのです。 フィンランド人が、週末家族で過ごすコテージ、自然がとても似ている環境の北海道に作ろう。ログハウスで、それも、フィンランド人の憧れのシルバーパインで、フィンランドの文化を伝えよう。 日本中が、リゾートブームでした。私は、北海道中を調べて、最終的に生き残るであろう、リゾート、ニセコに決めました。ブームで終わることのない本当のフィンランド人の週末の過ごし方を北海道の人に知ってもらいたかったのです。
2015年1月8日 木曜日 フィンランドとの関わり 回想5
古都トゥルークの古城を訪れ、町並みを散策した後、まずどこへ向かおうかと思い、第二の都市タンペレを目指すことにしました。日本では、ヒッチハイクなどしたこともなかったのですが、当時ヨーロッパは、若者の旅には寛大というガイドブックを頼りに手を上げてみました。何せ初めての挑戦なので、恥ずかしいような、複雑な心境でした。まさか、一台目の車から止まってくれるとは思いませんでした。7月に入ったばかりで、日は高く順調に移動を続けられました。タンペレでは、タンペレタワー、ピエティラの教会に感動を受け、何も考えずにさらに北へ、北へと向かいました。オウル、ロバニエミへは、ヒッチハイクで順調にたどり着きました。ロバニエミから北は、本当に田舎です。通る車も極端に少なくなります。せっかく乗せてもらっても、次の町までとそれ以上、北へは向かいません。若く元気でしたので、北への道を進んでいると、タクシーが止まりました。私はヒッチハイカーで手を上げただけと、必死で説明しました。笑顔で、帰り道だから乗って行けとのことです。サイレンのなっていない救急車も同様に帰り道に乗せてもらえました。 ヘルシンキから北へ1300Kmもあるウツヨキ迄、ヒッチハイクでたどり着きました。わずか3日の旅です。今度は、南下ですが、ロバニエミからは、当時のソ連との国境東側からヘルシンキを目指しました。カヤーニ、クオピオこの町の図書館のレベルには感心しました。サボンリンナの古城を見学して、フィンランドで一番大きな湖サイマーを見るため、徒歩で旧道を進みました。この湖の一番の景観地プンカハルユの景色にみとれながら写真を取り、歩きました。赤いルノーの親子連れの車が止まりました。「後部座席、小さな子供二人だから良かったら乗りませんか。」声をかけてもらいました。いろいろ話をして、建築を学んでいるなら、私たちの町イマトラをぜひ見たほうが良いと、3泊もさせていただきました。御主人は、全く英語を話せませんでしたが、相手の気持ちを考えてくださる良い方でした。アールトのVuoksenniska 教会をイマトラで知りました。 この後、ヘルシンキ迄、再びヒッチハイクで行き、ヘルシンキからは船でストックホルムに戻ります。 この8日間の旅が、長いこれからのヨーロッパ、北アフリカ、インド、アジアの旅を終えて、日本に帰り後半の大学生活を終えても、フィンランドの大学へ留学しようとの決意を新たにしたと思います。 ヘルシンキ大学へ留学して、最初のクリスマスに、イマトラを訪れ、下手なフィンランド語で御主人(マルクス)と会話が出来たことが、私のフィンランドとの関わりをより一層深めたと思います。
2014年12月3日 水曜日 フィンランドとの関わり 回想4
社員食堂でのアルバイトも1ヶ月が過ぎ、休日は、ストックホルム市内の散策です。当時、私が唯一知っていた、スウェーデンの建築家ラグナーヨストベリが20世紀始めに建てたストックホルム市庁舎を訪れるのが好きでした。今では、ノーベル賞受賞の晩餐会すっかり有名になっていますね。あと、国会の地下一階が、図書館になっていて、誰でも自由に入れました。音楽コーナーで、ヘッドホンでドボルザークの新世界を毎週末聴いていました。社員食堂のチーフから、夜も仕事してみないかと紹介されて、ストックホルム中心部の大通りに面するレストランの、皿洗いの仕事も引き受けました。これも同じく食器を業務用食洗機にひたすら入れる仕事です。夜間勤務は、給料が割り増しになります。土日出勤すると、ほぼ倍額で、しかも食費がまるまる浮きます。今後の長旅を考えると、ここでしっかり稼いでおかなければと思い、かなり無理して働きましたが、毎週では、さすがに疲れるので、時々郊外も見て歩きました。郊外の地下鉄の各駅は整備され、ビル、住宅郡がおしゃれに配置され、幹線道路とは隔たりを持たせ、遊歩道等もあって、都市計画が人間的で、自然との強調は、さすがと思いました。 2ヶ月が過ぎ、貯金も出来て、借りている学生寮もまだ期日には時間があったので、簡単に通り過ぎてしまったフィンランドへ、これから始まる本格的なヨーロッパへの旅立ちの前に、もう一度行ってみようと思いました。 ストックホルムから、フェリーでフィンランドの西、古都トゥルークへ渡りました。今思い返すと、あの時、フィンランドをもう一度訪れようと思わなければ、40年以上続くフィンランドとの関わりが生まれなかったのです。
2014年11月1日 土曜日 フィンランドとの関わり 回想3
ヨーロッパ2番目の国、スエーデンの首都ストックホルム到着です。連絡バスで地下鉄の駅へ、さらにストックホルム中央駅へ向かいました。長期滞在の予定ですので、部屋を借りる算段です。中央駅から地下鉄でわずか3駅Medborgaplatsenのアパートの1室を週単位で、借りることが出来ました。数日観光したら、早速アルバイト探しです。当時は、アルバイトといっても語学も片言の英語しか話せませんから、皿洗いと決まっていました。何社か面接で、スーパーマーケットチェーンの社員食堂への配属が決まりました。当時ですから、週5日、週末は休みです。昼食が近づくと準備です。社員の食べ終わった食器をトレイごと別室へ運びます。皿洗いといっても業務用食洗機へ並べてスイッチを入れるだけです。運ぶ回数は多いのですが、チーフがいい人で、日本人と聞くと親切に仕事の段取りを教えてくれました。 6月に入ると、ストックホルム大学の学生寮が夏期休みで、貸し出されるという情報を知らせてもらい、早速引っ越しです。ヘルシンキからフェリーで到着した港の近くの地下鉄駅Gärdetの近くの9階建ての学生寮です。学生用ですから部屋は狭いのですが、地下に、サウナ、洗濯室が完備していて、快適でした。ここから毎日地下鉄で仕事へ通ったのですが、で感じたことは、1971年すでに各駅は、エレベーターが完備、すでに老人、ハンディキャップの人々にも優しい町づくりだったのです。地下鉄、入り口のステンレスのガラス扉を、必ずといっていいくらい、次の人が見えると押さえて待ってくれているのです。岩盤の国ですから、地下鉄の路線のトンネルは岩肌がむき出しです。駅のホームは岩に吹きつけのアートです。終電になると、洗剤でホームは、きれいに清掃されていました。なんと素晴らしい清潔な国なんだろうと思いました。 ストックホルム中央駅から町の中心部の広場に向かうと、右手には、ガラス張りの近代的な国会が位置して、左手に規則正しく並ぶ5つの近代的なスマートな高層ビル、当時東京でもはまだ高層ビル郡はありませんでした。その奥はノーベル賞のコンサートホールと続いていて、そこでは朝市が開かれていました。食べ歩きという習慣が、あまりなかった日本人には、とても新鮮に見えて、早速まねしたものです。朝市が終わるとブラシ付きの清掃車が走り回りきれいに片づけてくれます。歩道も広くゴミも落ちていないすてきな町並みです。 近年、ストックホルムを訪れた方は、私の表現に違和感を覚えることと思います。地下鉄の落書き、町中あちこちに散乱するゴミ、一言で片づけてはいけないのでしょうが、若者が憧れた、アメリカ、悪い意味でのアメリカナイズが、スエーデンの若者の心にもしみ込んでいきました。歴史を感じることと、新しいものに憧れることは、若者の心には共存出来ないのでしょうか。
2014年10月6日 月曜日 フィンランドとの関わり 回想2
生まれて初めての海外、大学を休学して一年間の海外旅行の始まりです。最初は、ヘルシンキ駅のホテル案内で宿探しです。貧乏学生ですから、当然ユースホステルを希望します。当時は、インターネットもありませんし、高い電話代をかけて予約など考えもしません。満室との返送、いきなり、つまずきました。ヘルシンキのユースホステルは、国立競技場の中にあります。戦後日本が、初めて参加したオリンピックの開かれた所です。次に、駅の近くの一番安いホテルを、探してもらい、地図をもらって、駅を出ました。海外旅行ですから、旅の仕方もわからず、当時最も有名なサムソナイトの重いスーツケースを引いて、きょろきょろしていると、若いカップルが、親切にどこへ行くのかと聴いてくれて、ホテルまで連れていってくれました。スーツケース重いからと言っても大丈夫とホテルまで、持ち続けてくれました。なんと親切な人たちなのだろうと感激しました。 早速、市内観光です。ヘルシンキ市内地図片手に、朝市の開かれている港、元老院広場、大聖堂等、お決まりの観光コースですが、見るもの全てが、新鮮でした。初めて味わったソ連の堅苦しい市内観光とは大違いでした。自由に自分の足で、どこへでも行けるということの素晴らしさを感じました。 建築学科に在籍していましたから、当時有名だった、タピオラ田園都市なるものを、一目見ようとバスセンターの窓口で教えてもらい、早速バスに乗車です。ここは、ヘルシンキ市の西隣、エスポー市にある地区です。自然環境の中に、職住近接という理想都市を目指し、フィンランドの有名建築家が多く参画してのスケールの大きなプロジェクトでした。タピオラセンターの最上階からの展望は、素晴らしいものでした。 ヨーロッパ長旅の始まりですので、長いは出来ません。昼食をとるにも、食べ物が高いのに驚きました。当時の日本のように、安く食べる事が不可能に思われました。このままでは、所持金がすぐになくなる不安がよぎりました。ヨーロッパの最初の玄関口ヘルシンキを、早々に出発して、次の目的地ストックホルムへ向けて、カーフェリーに乗船です。いろいろな資料から、ストックホルムでは、英語の学生証を持っていれば、アルバイトが容易にできるということでしたので、次は、ストックホルムと予定を立てていました。ヘルシンキとストックホルムを結ぶカーフェリーは、青函連絡船とは、ケタ違いの大きさでした。節約のため当然デッキクラスでしたが、ストックホルムへ近づくと、大きな船が、島々を縫うように進むのに見とれていました。
2014年9月11日 木曜日 フィンランドとの関わり 回想1
不注意による怪我で、入院、闘病としばらくコラムを休んでいました。死んでいてもおかしくない、大けがでしたが、当人にその時の記憶がないので、術後の体の変化が、理解できず、ひたすら回復に執着していました。今更、変かも知れませんが、私と、フィンランドの関わりを振り返ってみます。 1971年、4月18日、当時は、航空運賃も、高額でヨーロッパへの便数も限られていて、若者の選択は、横浜港からシベリア鉄道経由でヨーロッパにたどり着くのが普通した。ソ連の船、バイカル号、青函連絡船より一回り小さな船です。乗船すると明らかに日本の匂いではない船内、出港してから一泊して、右手に北海道、左手に下北半島の津軽海峡を通過して、2泊3日でようやく、当時のソ連、ナホトカ港へ到着です。 シベリア鉄道へと続く寝台列車に乗って翌日、ハバロフスクの駅で下車、シベリア鉄道を全線使うと、かなりの長旅になってしまうのでハバロフスク、モスクワ間は、アエロフロートの国内線を利用するのが、これもヨーロッパを目指すお決まりのコースです。国内線といっても広いソ連邦です。7、8時間を要します。当時私は、関東の大学へ行っていましたので、札幌へ帰省の時は、スカイメートでよく飛行機を使っていましたが、海外旅行初めての若者は、もちろん飛行機も初めての人が多く、機内は、無愛想なアエロフロートの客室乗務員のせいもあって、かなり騒然としていました。 モスクワのドボジェドボ空港へ無事到着。当時は、JTBのモスクワ駐在員が空港まで迎えに来てくれていて、モスクワ市内のホテルまで案内してくれました。外貨を稼ぎたいソ連は、若者には分不相応な大きな、高級ホテルへ選択の余地のない宿泊です。2泊3日のモスクワ市内観光、自由行動など、共産圏ではあり得ませんでしたが、何せ初めての異国の地、見るもの全てが興味深かったです。モスクワのレニングラーツキー駅を寝台列車で夜発って、翌朝、ソ連、フィンランドの国境駅バイニッカラで、ソ連税関による実に不愉快な延々の出国検査、終了と同時に、天気のせいでしょうが、空までもが、明るく見えたものです。みんなでソ連に向けて、思いっきり雪玉を投げました。当時は、海外へ出かける時、厳しい外貨制限がありまして、持ち出しは、1000ドル迄、レートは当時、固定で、1ドル360円、その貴重な外貨をソ連で2割近く強制的に旅費で、使われるのです。その恨みも重なったのかも知れません。 フィンランドの機関車に変えて、バイニッカラ駅を出発して約4時間で、西欧の最初の地、終着駅ヘルシンキ中央駅へ到着です。4月末、駅のホームには、まだ屋根もなく冷たい風と小雪が舞っていました。いよいよ、自力でのヨーロッパ旅行の始まりです。
2014年2月4日 火曜日 旅の続き
社員、協力会社、友人を伴っての大人数の旅の続きです。取引先の工場ドムス社を訪れるのは、全員の11名。これは、選択肢として当然列車の旅でした。窓口で、人数をきかれると団体割引が適用されるとのこと。1階2階どちらが良いかときかれ、どちらでも良かったのですが、せっかくなので2階席を希望しました。フィンランド第二の都市タンペレ方向の長距離列車に乗って、途中トイヤラTOIJALAで乗り換え、フィンランドの古都、トゥルクTURKU方面の列車にて、目的地ロイマーLOIMAA へ行く予定でした。列車は、5分遅れで出発しました。全員2階席の快適なシートで旅を楽しんでいました。トイヤラが近づいて車内アナウンスで、乗り換え列車の出発時刻と2番ホームへとの案内です。列車が遅れぎみでしたので、わずか5分の、乗り換え時間です。反対側のホームへ急いで移り、ちょうど来た列車に、全員急いで乗車です。指定席へと向かうために車両移動です。2階席のない古い車両です。程なく、検札の女性の車掌さんが、切符の提示を求めてきました。切符を見ながら、けげんな顔。「この、列車は、タンペレ行きですよ」「この切符で問題無いから、タンペレで乗換えてください」と事務的に去っていきました。行き先を、確かめないで乗った私が悪いのでしょうが、反対側のホームになんで、同一方向の列車が入って来るんだ。 大変です。目的地で待ってくれている、ドムス社の社長に至急連絡です。「そうか。タンペレへ向かっているかと、大笑い。次の到着時刻を又知らせてくれ」との返答でした。タンペレ駅へ到着して、反対ホームに止まっていた列車の車掌さんに事情を説明して、次の列車の時刻を調べてもらっていると、遠くで乗ってきた列車の女性車掌さんが、怒鳴っていました。タンペレ発、ロイマー行きの列車をきちんと調べてくれていたのです。 2時間というフリーの時間が突如生まれましたので、到着時刻を再度連絡して、急遽全員でタンペレ、ミニ観光です。私もタンペレは久しぶりです。 タンペレ駅へ戻り、今度こそ、トゥルク行きの2階建ての列車に乗り込みました。早速検札の車掌さんが来ました。切符を見るなり、「ああ、君たちね」という顔をしました。素晴らしい連絡網です。フィンランド国鉄VRは、JR東海と提携を結んでいます。私は、ぜひ、気候風土の近いJR北海道と提携して、この、失った信頼と、なくしてしまった自信を、取り戻してほしいと切に望みます。 目的地、ロイマーでは、駅に車3台で、迎えに来てくれていました。当初の予定を2時間短縮して、昼食、工場見学、事務所での打ち合わせです。工場では、当社の1月コンテナに乗せる出荷パレットを、見せるために担当者が、待ってくれていました。説明を終えると、もう帰ってよいかと笑顔で訊いていました。多分、彼も2時間待ちだったのです。工場も、新年休暇の最中にも関わらず、工場を開けてくれたうえ、遅れたことに、いやな顔もせず、楽しく迎えてくれたこと、フィンランド人のやさしさに、改めて感謝の気持ちでいっぱいです。ハプニングも旅の醍醐味と、楽しんでくれた、旅の仲間にも。