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2013年8月5日 月曜日 ファッツェルFAZER
フィンランドの人々は、お酒もよく飲みますが、甘党の人がとても多いです。そのせいかどうか、チョコレート、ケーキがとてもおいしいのです。乳製品の豊富な、この国のアイスクリームも例外ではありません。 私の知り合いが、米国の留学を終えて、帰路ヨーロッパ経由で日本へ帰るとき、フィンランドへ立ち寄った時、ケーキのおいしさに感激していました。アメリカで、こんなおいしいケーキを食べたことがない。大きさだけの甘いケーキとは、比べ物にならないと。 チョコレートの中で最も有名なものは、何といってもFAZERの青いラベルのミルクチョコレートshininen maitosuklaataシニネンマイトスクラータ です。市中では、一枚200gで売っていますが、飛行場の免税店等では、250gの大きなサイズを買うことが出来ます。私の家族、友人は、皆このチョコレートが大好きで、出張の帰りは、お土産としてスーツケースにいっぱい詰めて帰ります。4枚で1kgですので、重くてたいへんです。仕事の資料の何倍もの比重を占めます。 このFAZER、フィンランドを知らない方は、多分ファッツェルとは、読めないと思います。創業1891年の歴史のある会社です。青いラベルの板チョコは、1922年からの製造ですから、90年以上のロングセラーです。ピンクのラベルのゲイシャチョコは、1962年から、最近はベリーのヌガーが入った箱型パッケージのチョコ、高級感があってお奨めです。ブルーベリー、ラズベリー、リンゴンベリーの3種類あります。 市の中心部には、昔から直営店カフェ、レストランがあります。ヘルシンキ大学本館の通りの1本西側のKluuvikatuクルーヴィカトゥ 3にあります。遠い昔、学生のころ、普段は、学食で食事の後コーヒーも安いので同じく済ませるのですが、受講1ヶ月記念、何記念と名付けては、学校帰りに友達と立ち寄りました。 今年の春も、ヘルシンキの古い友人と会ったときは、ここでコーヒーを飲みました。相変わらずいつも人でいっぱいでした。ヘルシンキの人々も、新しショッピングモールは、次々出来ているのですが、ここが好きみたいです。車が制限されていますので、窓越しに人の流れを見ているだけでも、時が過ぎていきます。夏場は、外にもテーブルが並びますのでより快適です。 古い店が変わらずあるということは、ヘルシンキ中心部がどんどん新しくなっても、昔の記憶と溶け込める、安らぎを覚えます。
2013年7月5日 金曜日 国会議事堂
ヘルシンキ中央駅近く、市内を貫くマンネルヘイ厶通りに面して、フィンランドの典型的な赤御影石を使って国会議事堂は建っています。 1931年完成のS.Jシレン設計になる、14本の列柱が正面を飾る、いわゆる北欧古典主義の建物です。国会議事堂の建設は1917年の独立の前から計画されていて、当初は、別の敷地で中央駅、国立博物館の設計者サーリネンが、コンペで当選していたそうです。独立後、1924年再び設計コンペでシレン等3人が当選しました。その後1927年から31年の完成に至までシレン1人が本設計に関わりました。私が、大学生活をしていた時期1974年から76年には、すでに増築工事が始まって1978年に完成しています。 列柱の外部は階段になっていて、いかつい警備がされているわけではありませんが、大聖堂と雰囲気は似ていますが、高さもあまりなく、観光客でにぎわうこともありません。数年前、この階段が 花で埋め尽くされたことがあります。ノルウェー国王がヘルシンキを訪れた時の、歓迎の一環だったそうです。その後、市民が多数訪れ、花々を手に帰りました。さすがにこのときは、観光客ならぬ、ヘルシンキ市民で、にぎわっていました。フィンランド政府の後片づけを兼ねた、粋な計らいだったようです。 国会議事堂の内部は、もちろん申し込めば見学が可能です。増築、本館改修工事を終えた内部を、私は一度だけ入ったことがあります。当時、フィンランド外務委員会の国会議員団が、日本を訪れ北海道へもいらしたのですが、その返礼で、名誉領事のお供で、外務委員会主催の昼食会へ招待されました。その後、幾度か外務大臣、農林大臣に、お会いしましたが、威張った国会議員には、会ったことがありません。 フィンランドの国会は一院制でが、首相、大統領がいます。大統領は、国民投票で、任期6年です。国会議員は総数200名(比例代表制)任期4年です。政党が単独過半数を得ることはなく、いつも連立内閣です。 皆さん御存知のように、フィンランドは、教育レベルが世界でもトップクラスです。ですが、国会議員の選挙は、名前を書くのではなく数字です。字を書けない人への配慮では当然ありません。政策も、展望も述べることなく、自分の名前を連呼する、うるさいだけの選挙と比べてみてください。数字を連呼する政治家がいたら、漫才ですよね。名前は、しがらみから逃れられないかもしれません。世界1、2の汚職のない国会議員、これも皆さん魅力ですよね。
2013年6月7日 金曜日 ヘルシンキ駅周辺再開発
ヨーロッパは、景気の低迷で建築需要も落ち込んでいます。フィンランドは、ヘルシンキに限って言えば、盛んに都市の再開発が行われています。当時ドイツが統一された、復興のベルリンまでの活気はありませんが、現在のヨーロッパでは、一番の大きなプロジェクトだそうです。 コラム30で紹介のkampi(カンピ)地区に続き、駅裏の操車場のあった地域の再開発が盛んに行われています。 ここの中心地再開発計画は、そもそも1958年4月にヘルシンキ市都市計画局から、発表され1959年から64年にかけて基本プランがねられました。TÖÖLÖLAHTIトーロ湖(湾)を囲んでアールトは、文化センター、音楽堂、議事堂を配置する案をまとめています。当時としては斬新な人口地盤、幹線道路の立体交差が見られます。当時の経緯を私は、詳しくは、知りません。只、このプランのコンサートホール(フィンランディアタロ)だけが、計画時と変わらぬ姿で存在しています。少し離れてオペラハウスも設計者は違いますが、時を経て建設されました。この都市中心部再開発計画時に、KAMPIの再開発も含まれていましたから、やはり偉大な都市計画の第一人者だったのかもしれません。 この地区、今年の春訪れたときにすでに、音楽堂は完成間近ですし鉄道の幹線沿いに、続々と公共施設、事務所ビルが完成に向けて工事が進んでいます。一年で、こんなに建物が目に見えて増えるものかと感じます。 古くからヘルシンキに住む人々は、この変化を必ずしも快く思っていないようです。どんどんヘルシンキらしさが消えていくと。確かにそうなのかもしれません。外壁が、石、レンガに変わってガラスとメタルの建物が増え続けているのですから。でも、古い建物が多く消えていっている訳ではありません。私は、ポイントの押さえ方がじつにうまいと思っています。仮に30年ぶりに旅行者がヘルシンキを訪れたとしても、充分に昔を懐かしむことが出来るし、昔を思い出して町を散策しても記憶がよみがえると思います。いわゆる、ヘルシンキらしい中心部の建物は、ほとんど残っています。 ロの字型の建物の 中庭の空間に、ガラスの天井がついて、ビルとビルが回廊でつながったり、既存の建物も、新たに生まれ変わろうとしているみたいです。壊すことより、生かすことに知恵を発揮しているようです。 残念ながら、日本と同じで首都集中が、顕著なフィンランドですから、このような積極的な再開発が行われているのは、ヘルシンキだけというのは、否めないことです。アールトが、地方都市の再開発にも力を注げた時代とは異なることを感じます。
2013年5月1日 水曜日 STOCKMANN書店
北欧で最大級の書店、アカデミック書店(akateeminen kirjakauppa)が、今年開業120年を迎えました。日本では、数多くの書店が有りますが、フィンランドでは、書店といえばここです。私も、学生時代から、参考書、辞書等、書籍を買おうと思うとここへ、迷わず向かいました。19世紀の開業当初は、もちろん独立前の時代です。1910年から1929年までは、商業地区のメインストリート、アレキサンテリン通り7番地、現在ヘルシンキ大学の通り(Fabianin katu)と交差する所に有りました。1930年からは、ストックマンデパートの1階に店舗を移します。 1968年、アルバーアールトの設計による、鉄筋コンクリート、外装メタルカーテンウォール6階建ての書店専用のビルがストックマンデパートと通りを対峙した(Keskusukatu)場所に完成、現在に至っています。 隣のビルは、私の好きな、中央駅、国立博物館等の設計者エリエルサーリネン1921年竣工の当時銀行のビル、さらにその隣は、同じくアールトの設計による、ストックマン書店と同じ外装の1954年に鉄鋼連のビルが同じ高さで連なっています。鉄鋼連盟のビル(RAUTATALO)は、当時とても奇抜なデザインで、エントランスホールは、アールトが好んだ白大理石で天井照明が柔らかくそそぐ、3層の吹き抜けになっています。これは、ヴィプリの図書館で使用した方法ですが、さらに発展させて、ストックマン書店では、白大理石の3階までの吹き抜け、さらに天井から自然採光を取り入れています。書店は、決して大きなスペースではないのですが、1階は一般書籍、エスカレーターを昇っていくと2階吹き抜けの回廊は専門書、語学書と分かれています。3階はギャラリーも併設されています。 2階のカフェ、アールトは、椅子、照明はもちろんアールトのデザインです。吹き抜けから、コーヒーを飲みながら見る書店もいいものです。映画、「カモメ食堂」でガッチャマンの歌詞を主人公が教えたところもこのカフェです。地階は、文房具売り場となっています。 地図、書籍等、日本の視点とは異なったものも有りますので、違いを楽しみながら、旅の途中に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
2013年4月3日 水曜日 KAMPPI礼拝堂
コラム30で以前紹介した、KAPPI(カンッピ)地区に昨年6月礼拝堂が、竣工しました。そういえば、フィンランドを訪れた前回大きな仮囲いを思い出しました。完成した礼拝堂を見て、仮囲いの板張りの意味を理解しました。フィンランドは、実に木の使い方が上手だと思います。同じ木の文化を持つ日本ですが、フィンランド人の木に、対するセンスにはいつも感嘆です。 板張りの、高さ11.5M、オーバルの独特の外観は、どう見てもKAMPPIの広場に置かれたアート、モニュメントとしか思われません。外部の細い板張りは、フィンランドの森に多く成育するKUUSI(樅に近い樹種)の合板です。広場のビル群へ向かう連絡通路のようなエントランスを入ると、いかついガードマンが立っていて、思わず中を見れますかと尋ねると、明るく、もちろんとやさしい返答がありました。内部の礼拝堂は、内壁、椅子、ドア等すべて集成材が使われています。特にドアに関しては、これでもかという厚さです。オーバルの壁と天井の隙間の空間からは、自然光が、柔かく内部空間を照らしています。椅子は50席程で、本当に小さな空間です。エントランス等を入れて延べ床面積は352㎡しかありません。 でも、設計者 K2S-Kimmo,Niko,Mikkoの3人のフィンランド人の設計意図が充分に伝わってきます。 規模、材質は岩の教会の名で親しまれているテンペリアウキオ(コラム19)と、全く異なりますが、ヘルシンキ市内の新たな教会として注目をあびそうです。
2013年3月19日 火曜日 フィンランド鉄道150年
1年ぶりのコラムです。先週、フィンランド出張より戻りました。2年ぶりの列車による移動です。今年、フィンランド鉄道は、150周年だそうです。独立が1917年ですから、さらに50年以上前から鉄路はあったということですね。 2年前より運賃がずいぶん上がっているのと、飛行機の航空券のように買う時期によって価格が変動するのには驚きでした。フィンランド人は、車で移動する人が多いはずなのに、新しい列車が、どんどん投入されているのも不思議な感じです。昔は、共産圏を思い浮かべるほどの、重厚な列車と赤さび色のような暗いカラーリングでしたが、流線型の車両や、鮮やかな色彩が目を引きます。広広軌鉄道のうえ、ロングレールで敷かれていますので、乗り心地は素晴らしく、今回も快適な旅でした。 寒波というほどの寒さではなかったのですが、乗換駅での接続列車の10分遅れは、少々、吹きさらしのプラットホームで待つには、辛いものが有りました。待ち時間を利用してホームを散策してみると町中の線路を通り抜ける地下道と兼用になっていて、歩道、自転車道、ホームからのエレベーターと、人には優しい配慮がなされていました。ただ、目的地からの帰りの駅は、小さな古い駅で、駅舎は有るのですが、合理化で駅としての機能はなく無人で、発券機は、外のホーム脇に有りました。老夫婦が、難しそうに機械とにらめっこをしていました。どこの国でも、年寄りは暮らしにくくなっているのでしょうか。
2012年5月11日 金曜日 ヘルシンキの市場
ヘルシンキ南港近くのこの地区は、KAARTIN KAUPUNKIとよばれていた、18世紀中ごろから19世紀終わりにかけての建物が多く残る所です。 多くの観光客が訪れる、エスペラナーディー公園から朝市、オープンマーケット(toriトリ)が開かれる港沿いに、ひときわ変わった異彩を放つ建物が有ります。まるでイスラム建築の様な配色のレンガ造りの建物は、Theodor Höijerによって設計され、1904-1906年に建てられた市場です。今の季節ですと、迷わず朝市の方へ出かけると思いますが、冬から春先は、外気温も低く、外を散策するのがつらい時です。一歩市場へ足を踏み入れると、そこは暖かく、楽しい空間です。肉、魚、野菜はもちろん酒類、お菓子、日用品等がそろっています。今は、お寿司をカウンターで食べることも出来ます。買い物をしなくとも充分楽しめますので、ぜひ足を伸ばしてみてください。 ヘルシンキには、いくつかの市場があります。映画「かもめ食堂」に出てきた、市場はハカニエミhakanieniです。赤レンガ造りの2階建ての建物で、1912-1914に建てられました。SegerstadとFlanckenbergによる共同設計です。外の広場ハカニエメントリでは、もちろん朝市が開かれます。ここを訪れるには、ヘルシンキ中央駅から地下鉄でも、市電も複数が乗り入れています。この広場は、地下鉄、市電、市バスのサブターミナルにもなっています。 ヘルシンキ中心部の西側にも市場が有ります。ここは、ヒエタラハティHietakahtiと呼ばれオープンマーケット(toriトリ)と市場が有ります。赤レンガ造りですが、窓廻りが漆喰のツートンカラーの建物です。南港の市場と同時期で、1903-1904年に、A.Lindqvistの設計によって建てられました。ここへは、市電の6番で行けます。終点です。6番の反対側の終点は、皆様ごぞんじの陶器のアラビアの工場です。 同じ時代の日本と比較しますと、木造の文化との違いは有るとしても、(フィンランドはかなり日本に近い木造文化圏です。)西洋文化を取り入れた建築物は、官公庁、財閥の建物で、庶民の為の公共建築の発想は、無かったのではないでしょうか。明治時代は、富国強兵で国は、まだ貧乏でそこまで、考えれなかったのでしょうか。フィンランドのロシアからの独立は、1917年ですから、独立さえしていなかった時代の建物です。
2012年3月19日 月曜日 オーロラの町
遅くなってしまいましたが、1月にフィンランドへ行っていました。友人のオーロラを見たいという切なる願いをかなえるべく、ヘルシンキより北へ1125Kmのイバロ空港へ降り立ちました。極寒の地のイメージですが、寒波も来ていませんでしたので、身構えるほどの寒さではありません。空港連絡バスに乗り23Km南へ移動、宿泊地サーリセルカへ。 昔は、夏に訪れる人はいても、冬は閑散としていました。ホテルも数軒他は、個人、会社の保養施設が点在している程度でした。私も20年近く前に夏に家族で、知人の別荘を4、5日借りて、ここを基盤として、ラップランドをまわり、国境沿いにノルウェーヘ足を伸ばしたりした旅をしたことがあります。 今回は、4日を費やし、オーロラを何とか友人に見てもらおうとスケジュールを組んだのですが、残念ながらオーロラはあらわれてくれませんでした。宿白したホテルは、スパ付きのリゾートタイプホテルです。夏の白夜の季節とは、正反対の夜ばかりの季節ですから、何もない地で、退屈しないように考えたのですが、大型ホテルが、数件立っていて、ショッピングセンターもあって、そこそこの町になっていました。お土産店のオーナーと話していて、日本人が年間2万人を超えているという話には、驚かされました。そのせいなのでしょうか。地方都市並に、サーリセルカにも5階建ての住宅が、建設中でした。 1月も中旬でしたので、少しづつ日もさし始め、雪明かりのせいもあってカーモス(極夜)の真っ暗なイメージではありません。日中時間を持て余しぎみですので、皆さんにノルディックスキーを楽しんでいただきました。安いレンタルスキーを借りて、近くの丘の頂上まで、ほんの2—3Kmの予定が、標識通りに動いたのに結果、往復10Kmもコースを滑ることになってしまいました。コースは、よく整備されていて、もちろんアップダウンがあって、自然の中で景色を満喫できる作りになっています。トナカイにも遭遇しました。 サーリセルカも良いコースですが、フィランドには、ルオスト、ブオカッティと、ノルディックスキーの素晴らしいコースを持ったリゾート地が有ります。ナイター照明も完備していて、自分の好きな時間に滑ることが可能です。日本では、歩くスキーというと、何か公園ををぐるぐる一周するイメージと、必死になって競争する大会のイメージが強いですが、家族で自然と親しむ北国ならではの冬のスポーツです。 ルオスト、ブオカッティのような素晴らしい施設が、日本の北国にも生まれることを切に望みます。
2011年12月6日 火曜日 白樺
フィンランドの森林のお話を、先月しましたが、白樺につてもう少し続けてみたいと思います。私の好きな映画、パステルナークのノーベル文学賞受賞作「ドクトル・ジバゴ」が、1966年日本で映画が公開されました。私が最初に見たのは、高校生の時です。幕が開くとテーマ曲が流れ、スクリーン全面に、秋の白樺林が延々と写しだされていました。私はこの白樺林が強く脳裏に残っていました。 時を経て、大学留学時代にヘルシンキで再び、この映画を見ました。当時ヘルシンキでは、映画館は、平日は、夜1回のみの上映です。大学の授業を終えて軽い食事をとってからでも間に合います。太陽がわずかしか昇らない12月ですから、夕方にはもう暗くなっています。映画が終わる時間には、もう真夜中のようです。冬のヘルシンキでも充分寒いのですが、スクリーンの残像として、寒々としたロシアのイメージが、増したのを覚えています。けれど高校生の時に感じた、白樺の印象は、住んでいたフィンランドの景色が加わって一層印象深いものとなりました。 もちろん5月の白樺の若葉の輝きも素晴らしいと思います。まして、厳しい冬を終えて太陽がさんさんと輝き始める、夏に向けての北欧の景色はため息の連続です。北海道も同じような、かなり北欧に近い風景と言えるのですが、太陽の角度なのでしょうか。空気が異なるせいなのでしょうか。光に違いを感じます。 秋のつるべ落としより早く沈む北欧の太陽、黄色くなった白樺の葉に、暖かさとは無縁の光を投げ掛け、寂しげに照らしています。風に舞う白樺の葉は、日に日に枝から数を減らしていきます。北欧の最も物悲しい季節かもしれません。 ニセコのコテージには、フィンランドから来た白樺が2本植えてあります。北海道の白樺が、全て葉を落としてもフィンランドの白樺は、まだ余裕を持って葉を残しています。まるで、「このくらいの寒さはまだまだ、冬に近づいていないよ。」とでも言っているようです。でも12月はいると、さすがのフィンランドの白樺も、北海道産と同じ姿になります。冬を迎え フィンランドでもより気候の厳しい北極圏では、白樺もしばしば上に伸びきれず、風などの影響でこぶが出来ます。この白樺のこぶから、サーメの人々はカップを作ります。文様がとてもきれいです。空港などでお土産用に売っているものは、白樺のものではありません。取っ手のところをトナカイの角で彫刻を施した高級なものも有ります。自然との関わりを大切にしていた彼らの生活がよくわかります。そろそろ、トナカイをひくサンタの季節です。
2011年11月1日 火曜日 フィンランドの森林
森と湖の国といわれるフィンランドは、33万平方キロメートルの国土の約7割を森林が占めます。湖は、淡水湖だけでも国土の1割に近い湖が点在しています。人口わずか530万のこの国ですが、都市に人口が集中する都市化が急激に進んで、多々の問題を生じています。でも、北欧の国々はまだ充分な、自然を享受できる面積の環境が残っています。 今回は、森林を少しく取り上げてみたいと思います。大きくわけて森林の樹種は、3種類です。パインで総称される欧州赤松が圧倒的に多いと思います。次に白樺、トウヒ(唐檜)です。もちろん落葉松、広葉樹もありますが、森林全体から見るとわずかです。 欧州赤松といわれますが、一般的にドイツの黒い森で生い茂る赤松とは自然環境が、かなり異なりますので、我々は、北欧パインと呼びます。さらに北極圏で成長するものは、ポーラパインと分けて呼んでいます。極寒の地で育つ松は、年間生長率1、2ミリと製材、もしくは、ログハウスの材料として使えるのに、100年以上かかります。植林した木々を自分の代で使うことは出来ません。ですから、徹底した植林、計画伐採が全土で行われています。寒い地で育つパインは、樹脂分が強いのですが、常温でヤニは出ません。密度も高く、見た目より固いのですが、加工しやすく、節でも刃を痛めずらく、木肌に艶があり、世界一級のパイン材です。 北欧の白木の家具は、白樺から作られます。白樺というと、北海道の白樺を皆さんは、思い浮かべると思います。割りばし位にしか使えない柔らかい木と。フィンランド語でKOIVU(コイブ)といいます。高級材ですが、フローリングにも使うとても堅い木です。日本の白樺ではなく樺に近い性質です サウナに入って体をたたく枝は(ヴィヒタ)、もちろん白樺の若枝です。日本の白樺の枝と異なって弾力があります。香りも数段強いと思います。 トウヒ(唐檜)と、訳されている、フィンランド語ではKUUSI(クーシ)は、建築材に多く使われます。屋根などに使う、トラス等構造材は、クーシです。肌の白い木です。パインと比べると樹脂分が少なく、ぱさぱさした感じです。見た目は、北海道のエゾ松に似ています。私はより樅に近いと思っています。クリスマスが近づいて、家庭に飾られる木は、このクーシです。都会では、12月に入ると朝市などで、クーシの小木が売られています。屋根にクーシを乗せた車を見かける季節です。 現在、作られていませんが、イイッタラにクーシというシリーズがありました。グラスは12角形で、角から面にかけて6本のクーシの木が描かれています。すっきりしたデザインなのですが、角からひびが入りやすく、わが家のグラスも残り少なくなりました。キャンドルスタンドは、ガラスが厚くて大丈夫です。キャンドルに火を灯すとまさにクリスマスツリーです。 他には、フィンランドの人が好むKATAJAカタヤは、小木ですが、香りがよく、バターナイフなどに加工されて使われます。香りが檜によく似ています。日本語では、多分ビャクシンです。何か、フィンランド人も木の文化の人々と思うとより、近親感が湧いてきます。