HOME > コラム
2005年7月4日 月曜日 ヘルシンキ世界陸上
8月6日から、ヘルシンキで世界陸上が開催される。メイン会場はもちろんヘルシンキオリンピックスタジアム。リンドグレンとヤンティ設計で、1934年から建設が始まる。当時12回夏のオリンピックのために作られたが、世界大戦のため、幻の東京オリンピック同様の運命をたどった。戦後1952年、15回夏のオリンピックがヘルシンキにおいて開催された。日本と同じように敗戦国となり、膨大な戦後賠償を課せられていた、小国フィンランドが、再び世界の脚光を浴びた。同様に第2次大戦後、日本が世界に復帰した最初のオリンピックである。ラジオの第一声、「白夜のヘルシンキより放送いたします」という、日本人にとっても思いでの地である。 フィンランドには過去にパーボ、ヌルミという世界的な長距離ランナーがいた。この大会では、チェコのザトペック、人間機関車で知られるこの人が、長距離の英雄になったが、フィンランド人の自己鍛練をかかさない国民性、夏の長距離、冬のノルディックと強さを誇っていた。私が学生生活を送っていた1976年もラッセ、ビレンが、前回のミュンヘンに続いてモントリオール大会でも5千、1万メートルで金メダルを獲得した。途中転倒というおまけ付きで。私の住んでいた学生寮の、すぐ隣の部屋のまじめな、すごくおとなしい学生が、勝った、勝ったと狂ったように廊下を走り回っていたのを思い出す。 このスタジアムは、52年のオリンピックのために正面板張りの大改装がなされ、オリンピック博物館、ユースホステルを併設している。1974年日本の大学を卒業し、ヘルシンキ大学へ来たとき、学生寮の空き待ちで、三週間近くここのユースホステルから学校へ通ったのも今は、懐かしい思い出となっている。今回の世界陸上、マラソンコースが、スタートしてから港沿いを走って西港から市内の周回コースに入り三周してゴールのスタジアムになる。ヘルシンキを訪れたことがある方なら、選手の応援と市内観光を楽しんで頂けることと思う。
2005年6月4日 土曜日 夏至
6月、今年の夏至は21日、フィンランドでは24日から夏至の休みが始まる。私が訪れた中旬、サンタクロースで有名な北の町ロバニエミは既に、久しく日が沈んでいないそうだ。この状態が7月まで続くのだから慣れていない旅行者は、体調がおかしくなってしまう。ホテルなどは、窓に厚手のカーテンが付いていてかろうじて夜を保ってくれる。でもベランダにでてみると、夜なのに日差しが強く、通りのレストランのバルコニーに、さらには歩道まで広がっているパラソルに人々が昼食時間か、仕事の一休みのように座っている。夜の10時を廻っているのに。 次の日、ロバニエミ市内から15Km程離れた知人の湖沿いに建っている住宅にお邪魔して外の薪焚きのサウナに入れてもらう。沈まない太陽が、静かな水辺にまぶしさを映し出している。この太陽は夜中になっても沈まず、再び湖面から距離を増して上昇していく。厳冬期80cmあったという氷が湖から消えたのは、今年は遅く1ヶ月前くらいだったそうだ。さすがに水が冷たい。泳ぐというよりつかるのが、精いっぱいの行動だ。すぐにサウナ小屋へ走り込む。 ヘルシンキに戻っても、今年のフィンランドは暑い。昨年は、夏が無かったと、嘆いていたフィンランド人の表情は明るい。日差しの強さに今更驚く。オゾン層の問題で、日光浴が危険とされているが、長年太陽に憧れてきた、国民性は急には変わらない。公園では以前のように短い夏を楽しむ人々の姿が観られる。今週末には、ヘルシンキからフィンランド人が消える。夏至の時期の休みは、日本のお盆のようなもので、みんな田舎に帰る。よってヘルシンキ市内は、観光客、とみに近年数を増してきている、中国の団体客であふれているのかもしれない。つい数年前までは、日本人観光客のバスであふれていたことにすら、違和感をおぼえていたのに、時代の流れを感ぜずにはいられない。
2005年5月4日 水曜日 サウナ
5月、今年の北海道は、大雪のせいか未だ春らしい空気を感じない。白樺の木々に若葉の緑の輝きが訪れない。この季節、フィンランドは北海道と同じように本格的な春をむかえる。白樺の緑の風が全土を駆け巡る。ロバニエミは、朝夕マイナスの気温を示しているようだが、日没は午後11時過ぎと友人からメールが入った。確実に白夜に向かっている。 白樺の枝の若葉が落ち着き持った頃、小枝を十数本束ねてビヒタを作る。薪焚きのサウナには必需品だ。ビヒタで体をたたいて、皮膚を刺激し血液の循環を良くして、毛穴から老廃物を取り出すといわれている。理屈よりも、気持ちが良く、白樺の香りがサウナ室に立ちこめるのがいい。加えて、薪の柔らかい熱気が体に伝わる。電気のぴりぴりとした熱さとは比べ物にならない。日本では、よく100度くらいでサウナに入ることがよいと思っている人がいる。乾いた皮膚を高温にさらして、おまけに水風呂に入って心臓に負担をかけて体に良い訳がない。サウナ通といわれる人に多い。サウナとは体調にあった温度(60〜80度)に暖まった室内で、サウナストーブ(電気でも薪でも同じ)にスクープで2、3杯水をかけて加湿して、その暖まった熱気で入るのが正しい入りかたなのだ。私は、しばしばサウナも文化であると言っている。その国の習慣を正しく理解することは、文化を理解することであり、国民を理解することである。 フィンランドの教育制度が世界でトップだというと、もろもろのことを知ろうという努力を惜しんで視察という過去の役人的行動を繰り返す。自分の任期に、結果を出そうなんてあまりにも性急すぎる。これからの若者は、こんな愚行を繰り返してほしくないものだ。 話を元に戻そう。このビヒタ、北海道の白樺で作ると枝が固く叩くと刺激が強すぎる。フィンランドの白樺は、枝がしなやかなのだ。かといってこんなに、北海道に白樺が一杯あるのに使わない手はない。若葉の軟らかい小枝だけを集めて今年は挑戦してみるつもりだ。ともかくサウナは薪が一番、ぜひサウナの好きな方、敷地に余裕があったらサウナ小屋を建て、フィンランドのサウナを理解していただきたい。
2005年4月4日 月曜日 アールト アトリエ
3月初旬、アールトのアトリエがリニューアルを終えたという記事が新聞に載っていると、ログメーカーの輸出部長に言われ、一緒に見に行くことにした。タクシーを呼んで運転手さんに住所を告げると、彼は住所が違うという。ムンキニエミの地名はあっているが通りが違うという。プロがそういうならまあいいかと思い従う。仕事の話をすると、建築家なら、ぜひ、私のアパートを見に来いという。早速彼は、家に電話をして家内は外出中だか、娘がいるので構わないという。もちろんアールト設計のアパートに住んでいるのである。アールトは数多くの一般的なアパート、個人住宅も設計している。呼び鈴を鳴らすと、娘さんが愛そうよく出迎えてくれた。彼は隅々まで部屋を見せてくれた。ベランダの配置等説明してくれる。きっと自慢なのだ。 日本の建築家で、ここまで一般の人まで知れ渡っている建築家はいるだろうか。先日亡くなられた丹下健三氏、私は東京オリンピック前に代々木の施設がテレビで紹介されたとき、中学三年生。建築の道に進もうと決心した。旧ユーゴスラビア、スコピエの町を訪れたとき子供たちに、タンゲを知っているかときかれた。この町で彼は、子供たちの英雄だった。地震から復興した町、田舎の高層建築はきっとかっこいいんだ。でも代々木の感動は無かった。時が経つにつれ私は、フィンランドの建築に傾倒していく。 アパート見学の後、タクシーを降りると訪問先の玄関はクローズのまま。オープン14時とある。新聞は12時30分と書いてあった。昼食を終えて再度訪問。親切なガイド付きで、アールト自邸兼初期事務所を楽しく見学させてもらった。私の知っている事務所とは違うと思いながら。運転手さんの知っているアールトへの思い込みに、間違ったことへの非難より何だか感心させられてしまった。修復なったアトリエは次回、昔の学生時代を思い出して、訪れることにしよう。
2005年3月4日 金曜日 3月のラップランド地方
3月に訪れたロバニエミの空港は、スキー、大きなリュックを受け取る客が目立っていた。北部の地方もスキー休暇に入るためらしい。フィンランドは、2月から3月にかけて南、中部、北フィンランドとスキー休暇が1週間ぐらいずつ続く。もちろん学校の休みなのだけれど、大人もこれに合わせて家族でスキー等にでかける。どこの国も同じで、高校生くらいになると親は煙たがれ、友達同士で出かけることが多いという。日本人は、この季節オーロラを見ることが目的で、ラップランドへ来る人が大半だが、ヨーロッパの人々は、スノーモービルにより雪原のサファリツアーを好むようだ。 スノーモービルといえば、日本では、ヤマハの独壇場だが、ロバニエミにはスノーモービルの製作工場があって、この地より海外へも輸出されている。LYNX親会社は、カナダのボンバルディア社だ。旅客機、鉄道車両で有名な会社である。日本の空も飛んでいる。このスノーモービルサファリは、凍った川をさかのぼって走るので、スピードを楽しめて、初心者にも難しくなく人気のようだ。私は、このサファリには参加したことは無いけれど、友人のモービルでラップランドの雪原を何度と走っているので、壮快さと、寒さを知っている。日本のように国立公園を走り回るマナーの悪さ、環境破壊の後ろめたさは感じないで楽しめるのではないだろうか。 YAHOO の世界の天気でフィンランドを調べるとサンタクロース村のあるロバニエミが出てくるのは尤ものような気がするが、キッティラ、サーリセルカ、ルオストとスキーリゾートが出てくるのには、驚いてしまう。私の学生時代には、地元の人以外知っていただろうかという地名である。みんな世界の一般的なところは、既に訪れて、非日常的な所を追い求めているのだろうか。この地を訪れ、自然と親しむことを理解し、冬という季節と向き合うことを感じてくれるのならあり難いことなのだが。
2005年1月4日 火曜日 元老院広場、ヘルシンキ大聖堂(トゥオミオキルッコ)
ヘルシンキ一番の観光スポット、元老院広場の石畳、数十段の階段の上に建つギリシャ十字の聖堂。国民の9割近い人々が信仰するルーテルのヘッドの教会でもある。新年国民に向けて大統領の演説が、ここでなされる。当時ロシアの統治下にあったが、ヘルシンキを首都としての計画から、ドイツ人の設計家エンゲルによってこの地区の建物が計画された。大聖堂は、1830年から40年にかけての建設。元老院広場周辺は1816年から現在の外務省、ヘルシンキ大学、大学図書館等が40年にかけて建てられている。この地区で一番古いと言われている青色の外観の2階建ての建物は1757年に完成している。St.ペテルスブルグを模したと言われるようにこの地区は帝政ロシアの雰囲気を持っている。 ロシア革命期を描いた映画レッズは、ソ連邦時代撮影が許可されなかったため、ヘルシンキのこの地区で撮影が行なわれた。ヘルシンキ大学の横をデモ行進する様子は、私の日本での学生時代とラップして少々複雑な心境になったのを、覚えている。最近では、2年前のユーミンのCDwings ofWinterのジャケットはここを背景にしている。 この広場を100メートルほど行くと、南港、ヘルシンキからストックホルムへのフェリーが毎夕2隻出港している。エストニア、タリンへの定期船も出ている。夏は高速船が1時間で結ぶが、冬季はフェリーで3時間半程の船旅。ここは、世界遺産になっているスオメンリンナ(城塞島)へのフェリーの乗り場もあり、叉朝市でにぎわうところでもある。朝市の前は市議会場、大統領官邸と並んでいる。いわゆるこの地区は官庁街のようなものだけれども、霞が関の様なうさんくささはない。決して歴史のある国ではない。独立を勝ち取ったという意識の違いだろうか。しかし、私は、国民と国の信頼関係が全てを物語るのではないかと思っている。
2004年12月4日 土曜日 サンタ村からの便り
11月下旬、ロバ二エミの気温は零下21度です。朝は零下24度でした。さすがに寒くなってきましたがいよいよクリスマスシーズン本番。雪の量も、寒さも充分といったとろでしょうか。11月の週末27日にはクリスマスシーズン幕開けのオープニングセレモニーが行われます。サンタを先頭にお手伝いの妖精トントゥ達や子供達のグループが市庁舎から市中心まで大行進します。市の中心(写真3)にステージが設けられ、サンタクロースのスピーチ、ダンス、歌と盛大なイベントです。そして15分おきにサンタホテルの前からシャトルバスサービスがサンタ村まで人々を運び、サンタ村の中庭でまたまた花火を上げたり、歌や踊りでオープニングイベントを盛り上げます。サンタ村の中庭のクリスマスツリー(写真1)も少しずつ飾り付けの準備が進んでいます。同村内のインフォセンターも大忙しになります(写真2)。12月のクリスマスシーズンにはイギリスや中央ヨーロッパの各国から200便以上の直行チャーター便がロバ二エミを初めとするラップランドへ飛んできます。子供達はサンタとお話したり、トナカイやハスキーのそりに乗ったり、雪遊びをしたり、1~3日の休暇を存分に楽しんで帰国します。現地の受け入れ態勢も万全のようです。日本からもオーロラツアーの観光客の方々が、10月から既に到着し始めました。オーロラは既に8月の終わりからロバ二エミで観測されています。今から4月初めまで、晴れた夜には壮大なオーロラの舞がここロバ二エミでも鑑賞頂けます。 極北の寒さと、人々の暖かさと、圧倒される自然の姿とオーロラと、それらを全部ひっくるめてしばしのリフレッシュにここロバ二エミにいらっしゃいませんか?日本から同日夕方到着の近さです。運が良ければ日本を出発した夕方にオーロラとの遭遇が可能かもしれません!! 寄稿 kyoko.saito-simola@pp.inet.fi 日本人観光客のためのヘルプデスク
2004年11月4日 木曜日 フィンランドの国道
フィンランドも南北に長い国、北緯60度から70度まで約1,100Km。鉄道網は主要都市間は結んでいるけれども、交通の主流は車。国道、州道、市道、実にきめ細やかに整備されている。高速道路は、少々遅れていてヘルシンキ市から放射状に地方へは伸びているが、地方都市間を結ぶにはいたっていない。ただし、市街地をでると80km制限になり、やがて100kmと制限速度は変わるので、日本の高速道路なみ。ちなみに高速道路は速度制限が120km、信号と、交差点の有無の違い位のものである。実に快適なドライブをフィンランドでは享受出来る。 昔程ではないが、ドライバーが優しい。トラックは、ほとんどが2台連なっている大型トレーラー、追い越すには、かなりの距離を必要とするが、だいたいウインカーでタイミングを知らせてくれる。お国柄というか、森林王国のこの国では高速道路にも、大断面の集成材の橋が架かっている。一般道でも随所に見ることが出来る。ユニークなのは、高速道路の上にかかるドライブイン、近づく迄は異様な橋と思ってしまうが、ついつい一休みしようかと気分になる。 一般道では、市街地には必ず自転車道、歩道が整備されていて、車優先社会であるがゆえに、人への配慮がなされている。名ばかりの歩行者優先で、強者の論理が押し付けられる国とは、ここでも大違いである。
2004年10月4日 月曜日 アールト フィンランディアタロ –2
ヘルシンキ市中央、トゥーロ湖沿いにたたずむ白い大理石のフィンランディアホール。アールトが夢見たヘルシンキ中央駅から湖沿いの都市再開発プラン。実現したのはこのホールと増築された会議場だけ。偉大な建築家故に、エンジニアの助言に耳を傾けなかったつけが、訪れる。彼の愛したイタリア産白い大理石は、北欧の寒さに耐えきれなかった。魚のうろこのように一枚一枚がそりかえり観るも無残な姿になってしまった。 会議場完成まもない1975年夏には、OSCE 欧州安全保障協力会議が開催されたり、いつもひのき舞台をになってきたこの建物。まして設計者は紙幣にまでなったことのある人物。改修には紆余曲折があったと思う。一昨年改修は無事終了した。大理石をはがし、構造体の断熱補強をして再度白い大理石がはられた。内側への漏水を防ぐためにグレーのコーキングが充填された。やもうえない処置なのかもしれないが、私の感想は醜いとしか言いようがない。完成時の美しさが完全に消えている。偉大な建築家は大変だ、消え去ることさえ許されないのだから。音響の不備、欠点は多々ある。 でも私は、緩やかなホワイエの大理石の階段、オーディトリウムへの180度のターン、この建物が気に入っている。
2004年9月4日 土曜日 タイバルラハティ(テンペリアウキオ)教会
ヘルシンキの観光コースに必ず入る、通称岩の教会。1969年に建てられて、いまだ観光シーズンには、バスが入口付近に連なって止まっている。元老院広場の大聖堂に次ぐ観光スポットである。1960-70年代フィンランドは数多くの有名建築家を排出した。訪れた外国の建築関連以外の人々にもっとも観られた建物は、決して建築的には有名ではない、ティモ、トゥオモ・スオマライネンの設計になる、このテンペリアウキオではないだろうか。 有名建築といわれるものは、絵画のように、本当に一般の人々に感銘を与えているのだろうか。設計コンペによる教会へあたえられた条件は、小高い丘の低層アパートに囲まれた地区ゆえに、環境に溶け込むことであった。必然的に大地を掘り込むことになる。フィンランドは、氷河に削られた20億年前の岩盤。いわゆる赤御影石、掘り出された岩を再度壁として積み上げられ、コンクリートの補強は最小限に抑えられた。雨水等の侵入に対しては、内部に側溝を設けて処理をしている。自然に優しい建築の先駆けといってもいいかもしれない。ここでは、コンサート等も行われる。随分前に、一度ギターのコンサートを聴いたことがあるが、音響もさることながら、雰囲気がいい。結婚式が行なわれている時は、中に入れないが、2階席から見学することは出来る。最近では、ここで結婚式を挙げる日本人も増えてきている。フィンランドのルーテルも随分変わってきた。 世界的に有名な建築家アールトが、この世を去ったのが1976年、ピエティラ、シレン、次々と一世を風靡した建築家が消えていった。昨年、この教会設計者、スオマライネンも輝かしい時代を過去のものとして、この世から去っていってしまった。