HOME > コラム
2005年1月4日 火曜日 元老院広場、ヘルシンキ大聖堂(トゥオミオキルッコ)
ヘルシンキ一番の観光スポット、元老院広場の石畳、数十段の階段の上に建つギリシャ十字の聖堂。国民の9割近い人々が信仰するルーテルのヘッドの教会でもある。新年国民に向けて大統領の演説が、ここでなされる。当時ロシアの統治下にあったが、ヘルシンキを首都としての計画から、ドイツ人の設計家エンゲルによってこの地区の建物が計画された。大聖堂は、1830年から40年にかけての建設。元老院広場周辺は1816年から現在の外務省、ヘルシンキ大学、大学図書館等が40年にかけて建てられている。この地区で一番古いと言われている青色の外観の2階建ての建物は1757年に完成している。St.ペテルスブルグを模したと言われるようにこの地区は帝政ロシアの雰囲気を持っている。 ロシア革命期を描いた映画レッズは、ソ連邦時代撮影が許可されなかったため、ヘルシンキのこの地区で撮影が行なわれた。ヘルシンキ大学の横をデモ行進する様子は、私の日本での学生時代とラップして少々複雑な心境になったのを、覚えている。最近では、2年前のユーミンのCDwings ofWinterのジャケットはここを背景にしている。 この広場を100メートルほど行くと、南港、ヘルシンキからストックホルムへのフェリーが毎夕2隻出港している。エストニア、タリンへの定期船も出ている。夏は高速船が1時間で結ぶが、冬季はフェリーで3時間半程の船旅。ここは、世界遺産になっているスオメンリンナ(城塞島)へのフェリーの乗り場もあり、叉朝市でにぎわうところでもある。朝市の前は市議会場、大統領官邸と並んでいる。いわゆるこの地区は官庁街のようなものだけれども、霞が関の様なうさんくささはない。決して歴史のある国ではない。独立を勝ち取ったという意識の違いだろうか。しかし、私は、国民と国の信頼関係が全てを物語るのではないかと思っている。
2004年12月4日 土曜日 サンタ村からの便り
11月下旬、ロバ二エミの気温は零下21度です。朝は零下24度でした。さすがに寒くなってきましたがいよいよクリスマスシーズン本番。雪の量も、寒さも充分といったとろでしょうか。11月の週末27日にはクリスマスシーズン幕開けのオープニングセレモニーが行われます。サンタを先頭にお手伝いの妖精トントゥ達や子供達のグループが市庁舎から市中心まで大行進します。市の中心(写真3)にステージが設けられ、サンタクロースのスピーチ、ダンス、歌と盛大なイベントです。そして15分おきにサンタホテルの前からシャトルバスサービスがサンタ村まで人々を運び、サンタ村の中庭でまたまた花火を上げたり、歌や踊りでオープニングイベントを盛り上げます。サンタ村の中庭のクリスマスツリー(写真1)も少しずつ飾り付けの準備が進んでいます。同村内のインフォセンターも大忙しになります(写真2)。12月のクリスマスシーズンにはイギリスや中央ヨーロッパの各国から200便以上の直行チャーター便がロバ二エミを初めとするラップランドへ飛んできます。子供達はサンタとお話したり、トナカイやハスキーのそりに乗ったり、雪遊びをしたり、1~3日の休暇を存分に楽しんで帰国します。現地の受け入れ態勢も万全のようです。日本からもオーロラツアーの観光客の方々が、10月から既に到着し始めました。オーロラは既に8月の終わりからロバ二エミで観測されています。今から4月初めまで、晴れた夜には壮大なオーロラの舞がここロバ二エミでも鑑賞頂けます。 極北の寒さと、人々の暖かさと、圧倒される自然の姿とオーロラと、それらを全部ひっくるめてしばしのリフレッシュにここロバ二エミにいらっしゃいませんか?日本から同日夕方到着の近さです。運が良ければ日本を出発した夕方にオーロラとの遭遇が可能かもしれません!! 寄稿 kyoko.saito-simola@pp.inet.fi 日本人観光客のためのヘルプデスク
2004年11月4日 木曜日 フィンランドの国道
フィンランドも南北に長い国、北緯60度から70度まで約1,100Km。鉄道網は主要都市間は結んでいるけれども、交通の主流は車。国道、州道、市道、実にきめ細やかに整備されている。高速道路は、少々遅れていてヘルシンキ市から放射状に地方へは伸びているが、地方都市間を結ぶにはいたっていない。ただし、市街地をでると80km制限になり、やがて100kmと制限速度は変わるので、日本の高速道路なみ。ちなみに高速道路は速度制限が120km、信号と、交差点の有無の違い位のものである。実に快適なドライブをフィンランドでは享受出来る。 昔程ではないが、ドライバーが優しい。トラックは、ほとんどが2台連なっている大型トレーラー、追い越すには、かなりの距離を必要とするが、だいたいウインカーでタイミングを知らせてくれる。お国柄というか、森林王国のこの国では高速道路にも、大断面の集成材の橋が架かっている。一般道でも随所に見ることが出来る。ユニークなのは、高速道路の上にかかるドライブイン、近づく迄は異様な橋と思ってしまうが、ついつい一休みしようかと気分になる。 一般道では、市街地には必ず自転車道、歩道が整備されていて、車優先社会であるがゆえに、人への配慮がなされている。名ばかりの歩行者優先で、強者の論理が押し付けられる国とは、ここでも大違いである。
2004年10月4日 月曜日 アールト フィンランディアタロ –2
ヘルシンキ市中央、トゥーロ湖沿いにたたずむ白い大理石のフィンランディアホール。アールトが夢見たヘルシンキ中央駅から湖沿いの都市再開発プラン。実現したのはこのホールと増築された会議場だけ。偉大な建築家故に、エンジニアの助言に耳を傾けなかったつけが、訪れる。彼の愛したイタリア産白い大理石は、北欧の寒さに耐えきれなかった。魚のうろこのように一枚一枚がそりかえり観るも無残な姿になってしまった。 会議場完成まもない1975年夏には、OSCE 欧州安全保障協力会議が開催されたり、いつもひのき舞台をになってきたこの建物。まして設計者は紙幣にまでなったことのある人物。改修には紆余曲折があったと思う。一昨年改修は無事終了した。大理石をはがし、構造体の断熱補強をして再度白い大理石がはられた。内側への漏水を防ぐためにグレーのコーキングが充填された。やもうえない処置なのかもしれないが、私の感想は醜いとしか言いようがない。完成時の美しさが完全に消えている。偉大な建築家は大変だ、消え去ることさえ許されないのだから。音響の不備、欠点は多々ある。 でも私は、緩やかなホワイエの大理石の階段、オーディトリウムへの180度のターン、この建物が気に入っている。
2004年9月4日 土曜日 タイバルラハティ(テンペリアウキオ)教会
ヘルシンキの観光コースに必ず入る、通称岩の教会。1969年に建てられて、いまだ観光シーズンには、バスが入口付近に連なって止まっている。元老院広場の大聖堂に次ぐ観光スポットである。1960-70年代フィンランドは数多くの有名建築家を排出した。訪れた外国の建築関連以外の人々にもっとも観られた建物は、決して建築的には有名ではない、ティモ、トゥオモ・スオマライネンの設計になる、このテンペリアウキオではないだろうか。 有名建築といわれるものは、絵画のように、本当に一般の人々に感銘を与えているのだろうか。設計コンペによる教会へあたえられた条件は、小高い丘の低層アパートに囲まれた地区ゆえに、環境に溶け込むことであった。必然的に大地を掘り込むことになる。フィンランドは、氷河に削られた20億年前の岩盤。いわゆる赤御影石、掘り出された岩を再度壁として積み上げられ、コンクリートの補強は最小限に抑えられた。雨水等の侵入に対しては、内部に側溝を設けて処理をしている。自然に優しい建築の先駆けといってもいいかもしれない。ここでは、コンサート等も行われる。随分前に、一度ギターのコンサートを聴いたことがあるが、音響もさることながら、雰囲気がいい。結婚式が行なわれている時は、中に入れないが、2階席から見学することは出来る。最近では、ここで結婚式を挙げる日本人も増えてきている。フィンランドのルーテルも随分変わってきた。 世界的に有名な建築家アールトが、この世を去ったのが1976年、ピエティラ、シレン、次々と一世を風靡した建築家が消えていった。昨年、この教会設計者、スオマライネンも輝かしい時代を過去のものとして、この世から去っていってしまった。
2004年8月4日 水曜日 サルパ(防衛陣地)
8月が訪れると、日本では、毎年必ず新聞、テレビで終戦報道が組まれますが、フィンランドも同じ敗戦国です。1932年に突如ソ連の進行で始まった冬戦争、1941年さらにドイツを交えた継承戦争、終結は、ソ連との停戦協定が結ばれた1944年9月です。戦後、ばく大な理不尽な賠償が課せられました。さらにカレリア地方と、最北部を割譲され、水路等の使用権に制限がつけられました。 この季節、フィンランドを訪れたとき、ロシア(旧ソ連)との国境近くの町、国道沿いの戦場跡を知人の案内で立ち寄りました。当時、ソ連の侵攻を防ごうと延々と作られた、いわゆるマンネルヘイム防衛線です。一面の針葉樹林の中に、川の流れのような対戦車壕の跡、岩盤にコケが張り付いているように観え、近くへ行ってみると頑強なコンクリートのトーチカ、不自然な岩の並びは、戦車用障害岩、皆、年数を経て自然に溶け込もうとしているみたいです。 この国には、負けこそしたけれど、強国と互角に戦ったという自負があります。1917年のロシア帝国からの独立、第二次大戦のソビエト連邦からの侵攻に対する戦いは、フィンランド魂(SISUしす)を見せつけました。ソ連邦が崩壊した現在でも、個人を除く建築物に対しての防空ごうの設置義務の条項は削除されていません。EUに加盟し、ユーロ圏にもいち早く参加して、さらには、NATOの一員に加わろうとしていますが、自国の防衛は自国で行なうという基本路線になんの変更もありません。 今回のイラク戦争では、いち早く、大統領が不参戦を表明、しかし、国連軍には長い参加の歴史が有ります。誰から、誰を、何から、何を守るのかという姿勢は、この国は一貫しているのだと思います。高福祉国家の論理は、二者択一を迫るよう狭義な国ではないような気がします。
2004年7月4日 日曜日 ナーンタリ キュルプラ(スパ)
今、フィンランドでも、子供に人気のムーミン。ムーミンがトーベヤンソンによって描かれ、日本でアニメによって紹介され、人気物になって、その動画が、再びフィンランドへ渡って、子供たちに好まれている。昔、学生時代ムーミンオペラをヘルシンキで観た記憶はあるが、当時はムーミングッツなんてほとんどなかった。わずかに、タンペレの町にムーミン谷が存在したくらいだったのに、今では、ムーミンマー(国)まで、誕生し、内外の観光客でにぎわうナーンタリ市。 ヘルシンキから西に180Km、車で2時間半、海岸線に島々が点在するとても景色の良いところ。ここに滞在型の大きなスパがある。もちろんフィンランドには、火山がないので温泉は存在しない。しかし温水プール、エステ等を備えた施設は、他のヨーロッパの国々同様に、フィンランドでもいくつも建設されている。ここの宿泊施設は少々変わっている。本館から離れた海岸沿いに船の形をした別棟のホテルなのだ。 ヘルシンキ、ストックホルムを結ぶ航路には、毎日5万8千トンクラスの豪華フェリーが行き来している国だから、特別めずらしい光景でもないのかも知れないが、客室のベランダは船のデッキそのもの、船に乗っているような気分になる。もちろん自力航行は出来ず、固定されていて諸設備は、外部から引き込まれているのだが、オーナーの発想が面白い。大きなイベント等があるときは、宿泊施設の不足している処へ、どこへでも引っ張って行くとのこと。なんともスケールの大きな話だと思う。
2004年6月4日 金曜日 ガッレン カッレラ ムセオ(博物館)
フィンランドの国民的画家、ガッレンカッレラ(1865-1931)のヘルシンキ郊外のアトリエを尋ねるには絶好の季節の訪れ。市内からトラム4番に乗り、静かな住宅地ムンキニエミの終点で下車。海岸沿い(湖にしか見えない入り江)を西に向かいます。1.5Kmと少々遠いかもしれませんが、この季節、まわりの景色が足の疲労を和らげてくれます。歩道が土手沿いに狭まって来るとエスポー市との市堺、右手には古都トゥルクへ向かう高速道路、少々景色にふさわしくない騒音、目を移すと小高い丘へ向かう木橋がかかっています。水辺から伝わるさわやかな風を感じながら橋を渡り、赤色の細かな砂利の傾斜路を進むと、中央に中世の小さなお城のような塔、それに連なって大きな三角屋根の変わった建物が現れます。ここが、今はミュージアムとなっているガッレン・カッレラのアトリエなのです。 昔の芸術家は実におおらかです。豊かな自然の中に、お気に入りの建築家にアトリエ、住まいを依頼して、新たなる活動を始めるのです。時がじつにゆっくりと流れていたのかもしれません。現代は、時間を有効に使うため、さまざまな機器が発明され、世界に広がっています。携帯電話のノキアもそうですが、新たな製品が、世に出るたびに時が、失われていくような気がします。 そんな感慨を抱きながら帰路を歩き始めると、高く昇った太陽、日没はまだまだ先、今夏至祭の季節です。時は、やはり自然の中では静かに流れています。
2004年4月4日 日曜日 アールト フィンランディアタロ –1
私が初めて訪れた1971年のヘルシンキは、アールトのフィンランディアタロ(コンサートホール)が、完成して間もないときでした。トゥーロ湖沿いにたたずむ白い大理石の鋭角のコーナーが印象的でした。学生時代を過ごした1974年からは、ヘルシンキフィル、ユーレスラジオフィルの演奏会を良く聴きに行きました。貧乏学生だったので、切符はいつも安い学生券でいろいろの席で楽しみました。この建物はよく物議を醸す建物で、音響の評判は特に芳しくなかったのです。第一ヴァイオリンの音が聞こえない席があったりします。左右非対称のオーデトリウムは、問題ありかもしれません。 でも、私はこの建物を結構気に入っています。入り口から続く大理石の緩やかな階段が、ホワイエと続き、それから向きを180度変えてコンサートホールへ入るアプローチのうまさ、ここの空間が、冬の暗いヘルシンキで、ドレスアップした人々の上品な社交場となっているのです。 このホワイエには、想いでがあるのです。在フィンランド日本大使館主催の天皇誕生日のパーティーに、生け花の大きなオブジェを作るということになって、華道の友人に頼まれて製作に関わりました。大きな曲がりくねった松の枝を天井からつり下げたりしたのですが、吊り下がっている照明灯がしっくり来ないので梯で取り外したり大変でした。無事盛大なパーティー終了後、施設担当者に呼ばれまして、えらく叱られました。アールトの作品を許可なく移動したことが原因でした。怒られながら、本来の使用目的以外に使おうとすると照明の一つまでもが自己主張する、アールトの繊細なデザインに感心していた自分を思い出します。
2004年3月4日 木曜日 白く光り輝く3月のフィンランド
3月に入ると、北海道と同じように、フィンランドも寒さと春が同居し始める。たとえ厳しい朝の寒さでも太陽の輝きが違う。暗く厳しい夜の長かった季節が、遠い過去の様な、暖かさを感じ取れる太陽が今、空にまぶしいくらいに輝いている。北欧の冬の太陽は、日照時間が極端に短いばかりではなく、ぼんやりと照っているだけ、暖かさの全く感じられない丸く光っている、単なる物体としか思えない。ヘルシンキから北へ700Km程の処。車を走らせていても気持ちがいい。国道はもちろん除雪が行き届いていて、不安を感じさせる要素は何も存在しない。車は、昼夜共点灯が義務づけられているので、遠くでも対向車の確認が容易にできる。田舎へ行くと、郊外の道路の制限速度は、だいたい100Kmなので、追い越しの時、ライトの存在は確実に事故を防止してくれる。 昨夜からの湿った風が、果てしなく続く森の枝枝を、美しく白に化粧させている。そこから漏れる光が実にまぶしい。ログハウスのために生まれてきたような、まっすぐ一定の太さで育つポーラパイン。樹種は、欧州赤松に属するのだか、黒い森で有名なドイツの赤松とは異にする。自然環境が厳しい北欧で育ったパインは、年輪がつんでいて、樹脂分が多く、それでいて常温では、やにを発生しないので、第一級の木材と言われている。木の持つ柔らかさ、香りは、住宅にはうってつけのの材料である。もちろんフィンランドで伐採される森林の多くは、パルプ関連産業に多く消費されている。しかしこの国は、森林の過剰消費を行なわない。厳しい土地だからこそ、育つのに必要な年月を知っている。今、NOKIAという世界企業を生んでいるが、やはり賢い国なのかもしれない。