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2009年3月4日 水曜日 ヘルシンキ市立劇場
ヘルシンキ中心部の湖のような湾、中央駅から北に延びる沿線を挟んで、西側は、トゥーロ湾(トゥーロンラハティ)、アールトの白い大理石のフィンランディアタロが面しています。東側のエラインタルハ湾(エラインタルハンラハティ)には、ティモ・ペンティラ(1931年タンペレ生まれ) 設計による市立劇場が建っています。こちらは、白いタイルが外壁に貼られています。建築に詳しくない方なら、こちらもアールトの建物と勘違いするかもしれません。市立劇場は、1960年の設計コンペによって、ティモが一等を獲て1967年に完成しています。フィンランディアタロの完成が1971年ですから4年前にすでに入り江に建っていました。傾斜地を利用して、大ホール、小ホール、展示ギャラリーから成っています。現在、大ホールは、947席、小ホールは座席がアーチ型に配置されていて、最大9列、437席の配置が可能です。音楽から演劇まで幅広くヘルシンキ市民に活用されています。 築42年を経ていますが、外壁の取替えという大改修を余儀なくされた、フィンディアタロと違って、こちらはしっかりと当時の姿を保っています。 ヘルシンキ中央駅から地下鉄で2つ目の駅Hakaniemiハカニエミで降りるか、地上を走るトラム3B,6番で同じくハカニエミで降車するのも可能ですが、天気が良ければ散歩がてら、歩く事をお勧めします。水辺を伝わるさわやかな風を感じて、グリーンの奥に控えめに見えてくる市立劇場の建物を、美しく感じることができると思います。 この時代、何とたくさんのすばらしい建築家を、この国は生んだ事でしょう。そして、使われ続けている事が、建築家にも、建物にも誇りを持ち続けさせているような気がします。
2009年2月4日 水曜日 お勧めレストラン パレスホテル
前に紹介したガラスパレス(コラムNo41)の設計者、ヴィリヨ・レヴェル(1910-1964)をもう一度取り上げます。ヘルシンキ南港、赤レンガ縞模様の古めかしい市場そばに立つ淡いクリーム色の建物です。1952年完成ですから60年近い、古い建物です。当初は、1,2階産業センター、3−8階ホテル、10階がレストランとなっていました。現在は、1,2階は、いろんな事務所が入っているみたいです。 この建物は、ヘルシンキ中央駅正面に建っている、コンクリート打ちっ放しのビル同様、当時ヘルシンキでは、珍しいコルビジェの影響をいかにも受けているという感じです。駅前のビルは、昨年末訪れたとき、大改修工事中でしたので、昔の面影が残るのかどうかわかりませんが、パレスホテルは、健在です。鉄筋コンクリート造で、1,2階のピロティーの柱、外壁のカーテンウォールは、今の若い建築家は、知らないかもしれませんが、近くで見てみますと、テラゾー(人造石)である事がわかります。港に日が沈みかける頃、夕日に当たるこの建物の表面は美しく輝きます。冬場のわずかな光でもけっこう見栄えがします。 対岸のアールトのエンソのシンプルな白大理石のビルも奇麗なのですが、前にも書きましたが、大理石は、地中海のまばゆい太陽と、紺碧の空がなければ、素地の美しさは、表現出来ないと私は思っています。 この建物2階の手摺り、柱で途切れる事無く使用価値はないのですが、連続しています。設計者のこだわりを感じます。1階のエントランスから中央奥のエレベーターに乗って、最上階へ行きますと、そこはレストランです。港が一望出来ます。冬の凍った白い海もよいですが、夕方、ストックホルムへ向かう大型フェリーの船尾、消えゆく航跡を眺めながらワイングラスを傾けるのも、楽しい一時だと思います。多少、お財布にゆとりがある時、私が、ヘルシンキでお勧めのレストランは、このパレスホテルのレストランともう一つは、レストラン・サボイです。
2009年1月4日 日曜日 ヘルシンキ 古くて趣のある建築散歩 4
ヘルシンキで最も有名な朝市は、大聖堂そばのストックホルム行きの大きなカーフェりーが氷海に浮かぶ南港周辺です。次いで、ハカニエミの朝市、地下鉄で中央駅から2駅目。映画「かもめ食堂」のロケにも使われていました。 この広場から空を仰ぐと北向きに、石造りの塔が見えます。それに向かって坂道を上っていくとカッリオという地区の小高い丘の頂に一段と高く建っている石造りの教会であることがわかります。カッリオ教会です。1906年の設計コンペによってLaes.Sonckラルス・ソンクが指名され、1912年に完成しています。前に紹介した電話会社の建物もそうですが、彼は、すでに学生時代にタンペレ大聖堂の設計で一躍有名になっています。当時は、ヘルシンキ市内で一番高かったと思います。何処からでも見えたはずです。今でも、ホテルの窓から市内を眺めると、冬の遅い日の出、冷気で空気が光って見える彼方に一段高い位置に存在感を示しています。 この教会、通称キヴィキルッコ(石の教会)というのですが、国会議事堂近くの観光客が必ず訪れる岩の教会(テンペリアウキオ)も、高くはないですが丘の上に建てられています。しかし、この時の設計条件は、この地区の雰囲気を変えない事、つまり上ではなく下、地下へ向かうしかなかったのです。時代はもちろん違うのですが、岩と石で随分異なる教会が建ったものだと、少しおもしろく感じています。 同じくヘルシンキのランドマークといえば, 1930年代に建てられた陸上競技場のタワー、リンドグレン、ヤンティーによって設計されたアールト時代の流行の白い建物です。大改修がされて1952年ヘルシンキオリンピックのメインスタジアムとして使われました。 ソンクは長生きで、1956年まで生きましたから、どちらを、ヘルシンキのランドマークと思っていたでしょう。現在、市電9番のルートが新設され、カッリオ停留所で下車すると、すぐそばです。
2008年12月4日 木曜日 サンタクロースエクスプレス
今日はクリスマスイブ。北の町ロバニエミのサンタクロース村は、この不況の中でも、この日に限ってはにぎわっている事と思う。 ヘルシンキから、ロバニエミ市へ行くのは飛行機が一般的。1時間10分で北極圏の空港に到着する。サンタクロース村はすぐそばだ。 列車の旅で行こうとするなら、サンタクロースエクスプレスがいい。ヘルシンキ駅を、19時30分、ロバニエミ駅到着は、翌朝の7時53分、延べ12時間23分の長旅だけれど、個室寝台、二段式寝台、カフェコーナー等設備が整っている。二階建ての白と赤の最新式の車両の個室寝台は、シャワートイレ付になっている。最後尾には、カートゥレインも連結されているので、マイカー持参で旅を楽しむ事も出来る。ただし、出発の2時間前から1時間前までに車を車両に載せておく事が必要だ。 残念ながら、イブの夜は、サンタクロースエクスプレスは、ヘルシンキ駅から出発しない。イブの夜は、国鉄さえ早じまいなのだ。昔、イブの夕方、日本からヘルシンキ空港について、東部の友人宅へ行こうと、ヘルシンキ駅から列車に乗って程なく、車掌さんにこの列車は、ここで今日は終わりですと降ろされた記憶がある。日本では考えられない事なので、ここで路頭に迷うのかと思ったけれど、そこは、親切なフィンランド人。友人宅の住所を伝えると電話で連絡をとってくれて、我が家のクリスマスも楽しんでいきなさいと、自宅に招待してくれて、友人も2時間の冬道を、迎えの車を飛ばして来てくれた。 フィンランドのクリスマスには、思いでがいっぱいだ。そんなことを考えながら一度サンタクロースエクスプレスに乗って、ロバニエミを訪れてみたいと思っている。ちなみに今年の、列車の料金は、一般シートで約1万円、二段ベットで、1万5千円、個室で2万3千円という所です。この国は、広広軌といって日本の新幹線よりも広い線路幅なので、乗り心地はいたって快適。車窓からの冬景色を楽しみながらといっても、ずーっと暗い白い大地を、延々見るだけの冬の旅になってしまう。
2008年8月4日 月曜日 トゥルク ユロスノウセムス(復活)礼拝堂
ヘルシンキから西へ190Km、フィンランドの古都トゥルク。人口17万5千人のこの町は、13世紀から建設が始まり1812年にヘルシンキに移されるまでこの国の首都であった。この町の南西に位置するトゥルク市営墓地に建っている礼拝堂を今回は紹介したい。建築に興味を持っている方なら誰でも知っている世界的な建築家アルバー・アールト。 同時期の建築家で、彼との共同作業もあるエリック・ブリッグマン、生まれは、アールトより7年早く、1955年に64歳で、アールトより20年も前に他界している。トゥルク大学の教授でもあって、市内にはいくつもの大学、アパート等の設計をしているが、日本人には、あまり知られていない。フィンランドでは、教会は、kirkko(キルッコ)礼拝堂は、kappeli(カッペリ)と言う。ユロスノウセウスカッペリは、親族が、埋葬される前に最後のお祈りを捧げる所なので、墓地の中にひっそりと建っている。外観も質素で決して自己主張はしていない。1939年の設計で、完成は1941年。中に入って、空間の使い方の、みごとさにおどろかされる。 私が最初にここを訪れた時、中世のヨーロッパのロマネスクに、光が加わったという印象を感じた。モダンな近代建築ではなく、主要構造が鉄筋コンクリートなのに、石造りの教会が光をまして、中世からタイムスリップして来たような強い衝撃を覚えたのを、今でも昨日の事のように思い出すのです。時を変えて訪れると、祭壇に注ぐ光の角度が、季節を感じさせてくれて、空間の表情を幾重にも増すのです。いくら言葉を連ねようと、この空間の素晴らしさは、礼拝堂の中に建って自分で感じてもらうしかありません。機会があったら、ぜひ足を伸ばして観ていただきたい。
2008年7月4日 金曜日 ヘルシンキ 古くて趣のある建築散歩 3
6月21日の夏至を過ぎて、日没は理論的には早くなっているはずだけれど、白夜は未だ真っ盛りの感。石畳に蓄積された暑さを肌に感じる。エスプラナーディ公園通りの右側(車は一方通行港方向)を港に向けて歩き、二番目の通りを右へ曲がると、緩やかな上り坂のkasarmiikatuカサルミカトゥに通じる。150M程歩くと右手にグレーの石造りの建物と緑色のホテルの文字と入口のテント布が見えてくる。ホテル リヴォリ。 左手は、広場になっていて、平屋のスーパーマーケットが見える。この建物Karl hard によって1899年に設計され、完成は1901年。そもそもは、国の教育機関、日本でいうと文部科学省の建物。当時流行の建物の角を出窓のように飛び出させた、ベイウィンドゥのような、尖塔のようなアクセント、ヘルシンキ市内を気にして歩いてみると随分と見受けられる。決まってこの時代1895年から1915年の建物に多い。いつの時代からホテルになったかは、わからないが客室55室のホテルとしては、小さなクラシカルな、高級ホテルだ。ラウンジ、レストランともとてもクラシカルだ。少し話は、この建物とそれるが、ホテルの正面に位置するマーケット広場の平屋の建物(実際は、広場坂になっているので地下になる一部2階建)、1970年代は、フィンランドデザインセンターとして多くの観光客でにぎわっていた場所である。 フィンランドとの直行便も無い時代、アンカレジー経由あるいは、南回りでコペンハーゲンで乗り継ぎ、さらにヘルシンキへと足を伸ばした日本人の建築、芸術に携わる団体の人々は、決まって観光バスの見学ルートに入っていたここにバスを連ねた。北欧デザインの色彩、シンプルな造形に感激した時代の、最先端の品々を展示していたのが、現在のこのスーパーマーケットなのだ。そんな当時の情景を思い浮かべて、このホテルに部屋を取り、窓越しにこの広場を眺めたら、北欧に憧れた、明るい未来を予感した時代がよみがえってくるような気がする。
2008年6月4日 水曜日 ヘルシンキ 古くて趣のある建築散歩 2
ストックマンデパートから東へ、港に向かう通り、電車も走っているAleksannterinkatuアレキサンテリンカトゥ、ここは、クリスマスシーズン、無数のイルミネーションに飾られる。100M程歩くとMikonkatuとの交差する右角にグレーの石造りの重厚な建物が見える。一階は、コーナーに薬局や他の店のショウウインドゥが並んでいる。 対照的に中央のアーチの奥まった所に扉がある。ここが、ポホヨラ保険会社の正面玄関。このビル全体の入口は、ミコン通り側から、中庭を入った所になる。この建物は、1899年から工事が始まり1901年に完成。設計は、ヘルシンキ中央駅、国立博物館と同じサーリネン、リンドグレン、ゲセリウスのグループ。このとき、サーリネンは、若干26歳、すでにこなし切れないほどの仕事を抱えていた。若者たちの情熱は、建物全体に民族意識があふれている。フィンランドの叙事詩カレバラを題材に装飾がなされている。玄関を入ると上層階へのらせん階段、手摺りの彫刻上に取り付けられたランタン、各部屋への入口のドア、カレバラの世界へ引き込まれそうな雰囲気を感じさせる。 ヘルシンキ大学の学生時代、サーリネンが好きな私は、入口が開いていたので、玄関ホールに入ってみて、らせん階段の美しさに見せられて、鞄からカメラをとり出し夢中で4階まで写真を撮りまくっていたら、守衛さんにものすごい剣幕で怒られた。私が、日本では建築学科を卒業して、この地でさらに学びたく、とりわけサーリネンが好きで、つい勝手に写真を撮ってしまっていたことを詫びると、部屋の中に入った訳ではないので以外とあっさり許してもらえた。この怒られてまでとった貴重なポジフィルムは、たまたまフィンランドへ遊びにきていた友人に託して日本へ持って帰ってもらったのだが、ことあろうに紛失されてしまった。以来、未だに内部の写真は手元にはない。次回は、許可を得て、叉ゆっくり内部を見たいと思っている。
2008年5月4日 日曜日 ヘルシンキ 古くて趣のある建築散歩 1
世界的な建築家アールバーアールトの生まれた頃のヘルシンキ、1895年から1915年にかけての建築の黄金期の、石積み、レンガ積みの建物を中心に、私が、学生生活を過ごした30年前の記憶をたどりながら、今叉、散歩を始めてみようと思う。今回、5月の心地よい風と、まぶしいくらいの太陽の光を浴びながら。ヘルシンキ市内を南北に走る一番大きな通り、マンネルヘイム通りを南、つまり港方向へ歩くと、ストックマンデパートを過ぎた辺りの左手に、エスプラナディ公園通りが見えてくる。 この公園通りの右側(車は一方通行港方向)を港に向けて歩き始めた最初の交差点を右へ曲がると、緩やかな上り坂のKorkeavuorenkatuコルケアブオレンカトゥに通じる。ヨーロッパの都市は、何処でもわかりやすい。必ずビルの壁に通りの名前が書かれている。さらに左右で偶数、奇数に別れている。今歩いていた道が、幅の広い道だったので、空からの光が建物で遮られ、日陰の気温の変化に驚かされる。坂道の石畳がさらに体感温度を下げているようだ。 200M程歩くと左手にグレーの石造りの建物が見えてくる。緑の帽子の突き出たベイウィンドゥ、三角形にアーチで抜かれた玄関、青い鳥のチルチルミチルのお菓子の家を思い浮かべてしまいそうです。これは、電話会社の建物、1905年に、Lars Sonckラルス ソンクの設計によるものです。先ほどの、エスプラナディ通りをこの道に入らず、もう少し歩くと右手に同じようなデザインのグレーの石造りの建物を観る事が出来ます。これも叉、1908年に彼の設計により完成したものです。この電話会社の建物、当時はまだ一般家庭に電話など普及していなかったですし、固定電話による通信が、長らく常識でした。ノキアが世界に君臨する携帯電話の世界を、この会社の建物は、おとぎ話の世界を見るようにたたずんでいるに違いありません。
2008年4月4日 金曜日 ヴィーッキ教会
ヘルシンキ中央駅東隣のバスターミナから68番のバスに乗り、中心部から北東へ30分程行った終点で降りると、広場に面したグレー色の Viikki教会が見えてきた。オウトツのある板張りなのかと近づいてみると、なんと厚い木瓦張りで覆われていた。北欧では、古い建物の屋根は、よく木瓦が使われている。大きな木格子の扉を開けると、エントランスホールには、乳幼児を連れたお母さん達が集まっていた。ホールの場所を訪ねて、同じく木格子で奇麗に作られた扉を開けて中へ入ると、四角い集成材を4本コアにした柱の、ここも木造教会だった。今回訪ねた教会の中では、ここが一番新しい所なのにホールは工事中。作業の人に聞いてみると、パイプオルガンの設置工事だそうだ。木材を主体に製作されている。今まで訪れた教会を思い浮かべてみると、全てにパイプオルガン備わっていたことに気付かされた。 この教会はラーヤサロ教会と同じく、2000年に設計コンペがなされ、1等入選のJKMM建築家集団(四人の頭文字をとったもの)によって設計されたもので、規模も同じく1600㎡で同じ、完成したのは2005年である。フィンランドに住んでいる人々の、80%以上の人がキリスト教のルーテル派に属している。フィンランド全土は、2007年時点で、517のセウラクンタ(教区)に別れていて、平均的なセウラクンタは、8千人から9千人の人々で構成されている。単純に、全フィンランドでは、517の教会が、存在している。 今回ヘルシンキ中心部から比較的近くの3ヶ所を廻る機会を得たが、私が最初にフィンランドを訪れた時、アールバーアールトのヴオクセンニスカ教会に感激したように(コラム8 アールト2に記載)、新たに、各地の教会建築を観る時間を取りたいと思った。
2008年3月4日 火曜日 ラーヤサロ教会
ヘルシンキ中央駅付近から地下に入り、地下鉄メトロに乗って東へ5駅、地下鉄といってもすぐ地上を走るのだが、ヘルットニエミHerttoniemi下車。地下鉄駅から89番のバスに乗り換えYliskylä(ユリスキュラ)で降りると、緑色の厳つい銅版の建物が目に入る。 入口は見当たらない。同質の鐘楼側へ廻り込むと玄関らしきものが見えてきた。道路面とはうって変わってオープンなデザインだ。ヘルシンキ中心部からは、東に位置する島、ラーヤサロ(Laajasalo)の教区に計画された教会で、2000年の設計コンペで、カリ・ヤルビネン、メルヤ・ニエミネンの設計が採用され、2003年完成の1600㎡の木造教会で、主要構造部は、集成材。エントランスホールからホールの連続する柱は、厚さわずか70mm。ホールの天井は、高さ10M、より細く見える。祭壇部の天井の吹き抜け採光部は15メートルの高さになる。 この教会では、訪れたとき、牧師さん自らに、いろいろと説明をいただいた。正面祭壇の岩のようにも見えるタペストリー?は、近づいてみると、これまた木の粗削りの彫刻、ここまで木を使っての表現には恐れ入る。この日も、幼児連れたお母さん達、ハンディキャップを持った人々が、併設されている施設の方へ、集まってきていた。ここでも、地域の核としての教会の存在を感じる一日であった