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2005年12月4日 日曜日 サンタ村より最新情報
サンタ村のある北極圏入り口ではクリスマスのツーリストで大賑わいの季節を迎えています。<br>イギリス、フランス、イタリア、スペインなどからの直行便が続々と到着し空港、市内ホテルは一杯の状態です。家族連れのこうしたヨーロッパからのチャーター便はクリスマスシーズンの今年は200便前後が予定されておりその半数は既に到着しています。今週から来週にかけてがそのピークとなり、トナカイそり、ハスキーそり、スノーモービルのツアーも24時間体制の状況のようです。<br><br>さて、サンタ村ではやはり人気の的はサンタさん。サンタと一緒に写真を撮ったり、お話したり、1時間以上の待ち時間もみなさんじっとがまんしてサンタに会えるその瞬間をとても楽しまれているようです。<br>特筆すべきは、大人のサンタさんに対する反応です。日本人の方々は本当にサンタさんに会うのを子供さん以上に楽しみにされているようです。割としらっとしているヨーロッパの大人の人達より本当にその場のその瞬間を大切にかつ楽しまれているという印象があります。これはすばらしいことでは無いでしょうか。 今現在、サンタ村の中庭では日本のデパートのアレンジによる子供たちから送られたオーナメント2000枚が5mサイズの2本のツリーに飾り付けされています。日本の子供たちの夢や希望がたくさん書かれたオーナメント、本当に平和なクリスマスであってほしいと願わずにいられません。<br>このところ晴れている夜はほぼオーロラも見えています。ただお天気次第というのがつらいところですね。<br>今日の気温はマイナス15度。本格的な冬になりました。が、1週間後の冬至を過ぎるとまたぐんぐんと日が長くなりあっという間にまぶしい春の日差しになります。それまでのしばらくは薄紫色に染まる街に美しく飾り付けされたツリーやデコレーションを楽しみながらクリスマスシーズンを心穏やかに過ごしたいものです。 寄稿 kyoko.saito-simola@pp.inet.fi<br>日本人観光客のためのヘルプデスク
2005年11月4日 金曜日 ヘルシンキ現代美術館KIASMA
ヘルシンキ中央駅よりほんの2,3分、中央郵便局の隣に建設された現代美術館。マンネルヘイム通りの対面には国会議事堂。美術館入口近くには、フィンランド独立の父 マンネルヘイム将軍の像が建っている。ここは、彼、専用の敷地なのかと思っていたので、ここに建てた発想が何となくおもしろい。美術館の外部は、亜鉛鋼板、銅版、ガラスから構成されている。背面は屋根とも壁ともつかない亜鉛板で覆われている。隣には総ガラス貼りのヘルシンギンサノマット(新聞社)の本社ビルが対照的に建っている。 この美術館ももちろん1993年の国際コンペで設計がなされ、最終5案には、オーストリア2組、米国、日本、ポルトガルが残り、米国のSteven Hollが勝ち取った。彼のこのときのエントリーの名前がChiasmaこの名がそのまま使われている。1996年から建築工事が始まり、98年の6月にオープンしている。実にスムーズなスケジュールで事が進んでいる。日本では普通かもしれないが、私が学生生活を過ごしていた時代の流れとは明らかに異なり、この国も忙しくなってしまっている。延べ床面積12,000M2展示スペース9,200M2なるこの美術館、私はまだ一度も入ったことがない。地方での仕事が多いせいもあり、ヘルシンキでは、いつも時間の余裕がなく、この横を通り過ぎるばかりなのだが、歩きながら思うのは、この奇妙な建物、周りの古い建築物とガラス張りの新しいビルの緩衝帯となって、違和感を吸収しているだけでなく、何とも言えない存在感さえ示している。次回はぜひ中に入って見ようと思う。
2005年10月4日 火曜日 ヘルシンキ国立博物館
ヘルシンキ市内中心部のマンネルヘイム通りに建つ国立博物館、国会のすぐ近く、アールトのコンサトホール、フィンランディアタロと、通りを隔てている。アールトの建物は、ドアの独特な曲線の把手で彼の設計とすぐ解る。気をつけてみると市内あちこちに点在している。時代はずっとさかのぼるけれど、国立博物館の設計者も同様に市内に随分と建物が存在している。ゲセリウス、リンドグレン、サーリネンの三人である。博物館自体の構想は、1880年に始まり、設計コンペが1902年から04年に行われ、審査員はスェーデン、デンマークの建築家だった。 当時フィンランドはまだ独立国家ではなく、帝政ロシアの支配下ではあったけれど自治権を持っていた。着工は、1905年、建物自体の完成は、1910年、たまたま書店で、当時の写真を見つけたので興味深く見てみると、工事中の岩盤の掘削、塔にかかる足場等かなり大掛かりな現場であったと思われるが、どこかのどかでもあった。建物の完成後、内部の展示を完了しての博物館としてのオープンは、1916年、独立の1年前というのは、大変興味深い。フィンランド国民の強い独立心を博物館の存在も寄与したとしたら、設計者には、この上ない名誉なことであると思わずにはいられない。 ネオクラシックの外観、教会を思わせる高い尖塔、石段を上がると木製の扉、小さなエントランス、初めての人はきっと国立博物館とは思わないだろう。天井のフレスコ画は、アクセル、ガッレン、カッレラによるカレヴァラ(フィンランドの叙事詩)から題材をとったものが描かれている。ヨーロッパの確固たる博物館を見て来られた方には、少々面白みに欠けるかもしれないが、フィンランド北部、ラップランド地方に住むサーメの人々を初めとする、北方少数民族のコーナーに、足を止めていただくか、博物館が、国威の誇示であるような時代に、独立もしていないのに博物館を造ったという国民性を改めて感じていただきたい。
2005年9月4日 日曜日 ヘルシンキセンター再開発
ヘルシンキ駅より徒歩で5分ほどの中心部、近郊、長距離バスターミナル一帯の再開発が進んでいる。北欧では最大級の再開発だそうだ。携帯電話で世界のトップシェアーを続けるこの国は、ヘルシンキいたる所で新しいビルが建っている。特に中心部のKAMPPIの再開発は目をみはる。一帯を占有していたバスが全て姿を消して、地下2階、3階に移った。地下一階は、ショッピングモール、しゃれたレストラン、店舗がガラスの壁で仕切られている。つい数年前迄は、FORMが若者の新しいショッピングビルだったのに、これが今、何やらやぼったくみえてくるから時の流れは恐ろしいものだ。さらにバス乗り場の下、モスクワほどではないが、急勾配のエスカレーターで降りてゆくと地下鉄の駅へと続く。夏でもひんやりと感じる岩盤の中、下り切ったエスカレーターの両サイドには分厚い扉が収納されている。もちろん非常事態のシェルターである。 前にも書いたが、公共施設、一定数以上を雇用する会社にもシェルターもしくは、避難施設が今でも義務づけられている。非常事態の対処とは、机上の空論ではなく、日々の可能な準備の積み重ねではないだろうか。再び地上へでると、まさに建築ラッシュ、ホテル、マンション、事務所ビルと、一定の素材を基調にして、整然と並んでいる。廻りの建物と際立っていないところが、ほっとする。再開発なら一掃されるであろう旧バスターミナルが、化粧直しされて残っているのがおもしろい。さらに手前の、マンネルヘイム通りの1935年レヴェル等の設計によるガラスパレス(ヘルシンキに最初に建てられた機能主義建築といわれている)が、何事も無かったかのように一等地を確保している。どんな論議がなされたのか、私は知らない。何でも残すのが、文化とは思わない。しかし、何十年ぶりかで再びヘルシンキを訪れた人々を、この町は失望させない頑固さも持っていると、感心させられる。
2005年8月4日 木曜日 ヘルシンキ西港
8月のヘルシンキ世界陸上のマラソンコース、スタート地点から海岸線を走り周回コースに入るあたりが、ここ、ヘルシンキ西港。フィンランド最大の造船所がある。ヘルシンキ、ストックホルムを結ぶ7万トンクラスのカーフェリーから、十数万トンの豪華客船が進水式を終えて世界の海へと旅立っている。 フィンランドは、砕氷船、大型フェリ、豪華客船で世界有数の造船国である。昔は、工場が建ち並ぶ決して明るい雰囲気の地域とは言えなかったが、地下鉄の終点RUOHOLAHTI(ルオホラハティ)駅が出来てから、再開発が進み景色が一変した。 3年前、ブリュッセルから列車でアムステルダムへ入ったとき、車窓から見る建物の斬新さに目を疑った事を思い出す。オランダのファサードは、こんなに素晴らしかったかなと。今、この西港地区はそれに似ている。かつてのくすんだ川は、運河となって住宅群を横切る。さらに、それをつなぐ軽快な橋のたもとには、カフェ、落ち着いたレストランまで建っている。世界最高級のヨットの生産国は、河辺、海辺を生活に取り込むことに戸惑いは無い。ヨットハーバー等お手の物だ。ログハウスのセカンドハウス、ヨットで海辺への散歩、自然と親しむ事が生活の一部となっている国民は、それぞれの所得に見合った生活を知っている。見えを張って必要以上の大きさは求めない。自分に似合った生きかたをする。 何年か前に、ここの入り江の一角に潜水艦が係留してあった。借り物なのかどうか、良く覚えていないが、冷戦時代のソ連の攻撃型通常潜水艦。説明書も見ないで中に入った私は、第2次世界大戦の時の潜水艦と思ってしまった。あまりにも非人間的空間なのだ。きっと原子力潜水艦も乗員の安全など置き去りにされていたに違いない。冷戦が終わって旧ソ連の展示が出来るのだから皮肉なものだが、さすがに、この地に似合わなかったのか、いつの間にか、厳つい黒い金属の塊は消えていた。
2005年7月4日 月曜日 ヘルシンキ世界陸上
8月6日から、ヘルシンキで世界陸上が開催される。メイン会場はもちろんヘルシンキオリンピックスタジアム。リンドグレンとヤンティ設計で、1934年から建設が始まる。当時12回夏のオリンピックのために作られたが、世界大戦のため、幻の東京オリンピック同様の運命をたどった。戦後1952年、15回夏のオリンピックがヘルシンキにおいて開催された。日本と同じように敗戦国となり、膨大な戦後賠償を課せられていた、小国フィンランドが、再び世界の脚光を浴びた。同様に第2次大戦後、日本が世界に復帰した最初のオリンピックである。ラジオの第一声、「白夜のヘルシンキより放送いたします」という、日本人にとっても思いでの地である。 フィンランドには過去にパーボ、ヌルミという世界的な長距離ランナーがいた。この大会では、チェコのザトペック、人間機関車で知られるこの人が、長距離の英雄になったが、フィンランド人の自己鍛練をかかさない国民性、夏の長距離、冬のノルディックと強さを誇っていた。私が学生生活を送っていた1976年もラッセ、ビレンが、前回のミュンヘンに続いてモントリオール大会でも5千、1万メートルで金メダルを獲得した。途中転倒というおまけ付きで。私の住んでいた学生寮の、すぐ隣の部屋のまじめな、すごくおとなしい学生が、勝った、勝ったと狂ったように廊下を走り回っていたのを思い出す。 このスタジアムは、52年のオリンピックのために正面板張りの大改装がなされ、オリンピック博物館、ユースホステルを併設している。1974年日本の大学を卒業し、ヘルシンキ大学へ来たとき、学生寮の空き待ちで、三週間近くここのユースホステルから学校へ通ったのも今は、懐かしい思い出となっている。今回の世界陸上、マラソンコースが、スタートしてから港沿いを走って西港から市内の周回コースに入り三周してゴールのスタジアムになる。ヘルシンキを訪れたことがある方なら、選手の応援と市内観光を楽しんで頂けることと思う。
2005年6月4日 土曜日 夏至
6月、今年の夏至は21日、フィンランドでは24日から夏至の休みが始まる。私が訪れた中旬、サンタクロースで有名な北の町ロバニエミは既に、久しく日が沈んでいないそうだ。この状態が7月まで続くのだから慣れていない旅行者は、体調がおかしくなってしまう。ホテルなどは、窓に厚手のカーテンが付いていてかろうじて夜を保ってくれる。でもベランダにでてみると、夜なのに日差しが強く、通りのレストランのバルコニーに、さらには歩道まで広がっているパラソルに人々が昼食時間か、仕事の一休みのように座っている。夜の10時を廻っているのに。 次の日、ロバニエミ市内から15Km程離れた知人の湖沿いに建っている住宅にお邪魔して外の薪焚きのサウナに入れてもらう。沈まない太陽が、静かな水辺にまぶしさを映し出している。この太陽は夜中になっても沈まず、再び湖面から距離を増して上昇していく。厳冬期80cmあったという氷が湖から消えたのは、今年は遅く1ヶ月前くらいだったそうだ。さすがに水が冷たい。泳ぐというよりつかるのが、精いっぱいの行動だ。すぐにサウナ小屋へ走り込む。 ヘルシンキに戻っても、今年のフィンランドは暑い。昨年は、夏が無かったと、嘆いていたフィンランド人の表情は明るい。日差しの強さに今更驚く。オゾン層の問題で、日光浴が危険とされているが、長年太陽に憧れてきた、国民性は急には変わらない。公園では以前のように短い夏を楽しむ人々の姿が観られる。今週末には、ヘルシンキからフィンランド人が消える。夏至の時期の休みは、日本のお盆のようなもので、みんな田舎に帰る。よってヘルシンキ市内は、観光客、とみに近年数を増してきている、中国の団体客であふれているのかもしれない。つい数年前までは、日本人観光客のバスであふれていたことにすら、違和感をおぼえていたのに、時代の流れを感ぜずにはいられない。
2005年5月4日 水曜日 サウナ
5月、今年の北海道は、大雪のせいか未だ春らしい空気を感じない。白樺の木々に若葉の緑の輝きが訪れない。この季節、フィンランドは北海道と同じように本格的な春をむかえる。白樺の緑の風が全土を駆け巡る。ロバニエミは、朝夕マイナスの気温を示しているようだが、日没は午後11時過ぎと友人からメールが入った。確実に白夜に向かっている。 白樺の枝の若葉が落ち着き持った頃、小枝を十数本束ねてビヒタを作る。薪焚きのサウナには必需品だ。ビヒタで体をたたいて、皮膚を刺激し血液の循環を良くして、毛穴から老廃物を取り出すといわれている。理屈よりも、気持ちが良く、白樺の香りがサウナ室に立ちこめるのがいい。加えて、薪の柔らかい熱気が体に伝わる。電気のぴりぴりとした熱さとは比べ物にならない。日本では、よく100度くらいでサウナに入ることがよいと思っている人がいる。乾いた皮膚を高温にさらして、おまけに水風呂に入って心臓に負担をかけて体に良い訳がない。サウナ通といわれる人に多い。サウナとは体調にあった温度(60〜80度)に暖まった室内で、サウナストーブ(電気でも薪でも同じ)にスクープで2、3杯水をかけて加湿して、その暖まった熱気で入るのが正しい入りかたなのだ。私は、しばしばサウナも文化であると言っている。その国の習慣を正しく理解することは、文化を理解することであり、国民を理解することである。 フィンランドの教育制度が世界でトップだというと、もろもろのことを知ろうという努力を惜しんで視察という過去の役人的行動を繰り返す。自分の任期に、結果を出そうなんてあまりにも性急すぎる。これからの若者は、こんな愚行を繰り返してほしくないものだ。 話を元に戻そう。このビヒタ、北海道の白樺で作ると枝が固く叩くと刺激が強すぎる。フィンランドの白樺は、枝がしなやかなのだ。かといってこんなに、北海道に白樺が一杯あるのに使わない手はない。若葉の軟らかい小枝だけを集めて今年は挑戦してみるつもりだ。ともかくサウナは薪が一番、ぜひサウナの好きな方、敷地に余裕があったらサウナ小屋を建て、フィンランドのサウナを理解していただきたい。
2005年4月4日 月曜日 アールト アトリエ
3月初旬、アールトのアトリエがリニューアルを終えたという記事が新聞に載っていると、ログメーカーの輸出部長に言われ、一緒に見に行くことにした。タクシーを呼んで運転手さんに住所を告げると、彼は住所が違うという。ムンキニエミの地名はあっているが通りが違うという。プロがそういうならまあいいかと思い従う。仕事の話をすると、建築家なら、ぜひ、私のアパートを見に来いという。早速彼は、家に電話をして家内は外出中だか、娘がいるので構わないという。もちろんアールト設計のアパートに住んでいるのである。アールトは数多くの一般的なアパート、個人住宅も設計している。呼び鈴を鳴らすと、娘さんが愛そうよく出迎えてくれた。彼は隅々まで部屋を見せてくれた。ベランダの配置等説明してくれる。きっと自慢なのだ。 日本の建築家で、ここまで一般の人まで知れ渡っている建築家はいるだろうか。先日亡くなられた丹下健三氏、私は東京オリンピック前に代々木の施設がテレビで紹介されたとき、中学三年生。建築の道に進もうと決心した。旧ユーゴスラビア、スコピエの町を訪れたとき子供たちに、タンゲを知っているかときかれた。この町で彼は、子供たちの英雄だった。地震から復興した町、田舎の高層建築はきっとかっこいいんだ。でも代々木の感動は無かった。時が経つにつれ私は、フィンランドの建築に傾倒していく。 アパート見学の後、タクシーを降りると訪問先の玄関はクローズのまま。オープン14時とある。新聞は12時30分と書いてあった。昼食を終えて再度訪問。親切なガイド付きで、アールト自邸兼初期事務所を楽しく見学させてもらった。私の知っている事務所とは違うと思いながら。運転手さんの知っているアールトへの思い込みに、間違ったことへの非難より何だか感心させられてしまった。修復なったアトリエは次回、昔の学生時代を思い出して、訪れることにしよう。
2005年3月4日 金曜日 3月のラップランド地方
3月に訪れたロバニエミの空港は、スキー、大きなリュックを受け取る客が目立っていた。北部の地方もスキー休暇に入るためらしい。フィンランドは、2月から3月にかけて南、中部、北フィンランドとスキー休暇が1週間ぐらいずつ続く。もちろん学校の休みなのだけれど、大人もこれに合わせて家族でスキー等にでかける。どこの国も同じで、高校生くらいになると親は煙たがれ、友達同士で出かけることが多いという。日本人は、この季節オーロラを見ることが目的で、ラップランドへ来る人が大半だが、ヨーロッパの人々は、スノーモービルにより雪原のサファリツアーを好むようだ。 スノーモービルといえば、日本では、ヤマハの独壇場だが、ロバニエミにはスノーモービルの製作工場があって、この地より海外へも輸出されている。LYNX親会社は、カナダのボンバルディア社だ。旅客機、鉄道車両で有名な会社である。日本の空も飛んでいる。このスノーモービルサファリは、凍った川をさかのぼって走るので、スピードを楽しめて、初心者にも難しくなく人気のようだ。私は、このサファリには参加したことは無いけれど、友人のモービルでラップランドの雪原を何度と走っているので、壮快さと、寒さを知っている。日本のように国立公園を走り回るマナーの悪さ、環境破壊の後ろめたさは感じないで楽しめるのではないだろうか。 YAHOO の世界の天気でフィンランドを調べるとサンタクロース村のあるロバニエミが出てくるのは尤ものような気がするが、キッティラ、サーリセルカ、ルオストとスキーリゾートが出てくるのには、驚いてしまう。私の学生時代には、地元の人以外知っていただろうかという地名である。みんな世界の一般的なところは、既に訪れて、非日常的な所を追い求めているのだろうか。この地を訪れ、自然と親しむことを理解し、冬という季節と向き合うことを感じてくれるのならあり難いことなのだが。