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2003年11月4日 火曜日 ユバスキュラ
ヘルシンキから国道4号線を北へ、270km車を走らせるとユバスキュラ市がある。アールトはこの町で1923年に設計事務所を開設、彼にとってゆかりの地である。今回はアールトから少し離れた現在のこの町を紹介しましょう。中部フィンランドの中心都市として、農業、工業、商業各分野の核をなしていますが、とりわけ森林関連産業が中心でした。けれども、IT産業の台頭で、この町も大きく変わろうとしています。市の中心部は再開発が活発に行なわれています。 昨年12月にオープンした、日本的に言うと旅客ターミナルビルもその一つです。このビルは鉄道駅とパスターミナルが合体しています。そもそも計画は1980年代にすでにでになされ、設計コンペは、1990年半ばに行われ、ハッリス&クイスィク+ペトリ ロウヒアイネンの設計事務所が1等入選しました。それで、完成を見たのが2002年12月2日です。日本人から考えると遅いようですが、1970年代に設計コンペが行われた、ヘルシンキの新オペラ劇場が、完成したのはつい数年前ですから、決して驚く事ではありません。 フィンランドは、どちらかというと車社会ですから、道路網はとても整備されています。多くの国道は、郊外へ行くと制限速度が100Kmですので高速道路なみですが、高速道路網も整備が進んでいます。飛行機はヘルシンキが、起点ですが主だった都市へ飛んでいます。鉄道網はどちらかというと、遅れているほうですが、電化も速度は遅いですが地方路線へと伸びています。そしてこのようなターミナルから、さらに路線バス、近郊バスが発着していきます。一見当たり前のようですが、人口わずか500万人の交通網としては、素晴らしい整備だと思います。弱者への配慮、子供、高齢者の自らの移動を保証しているかのようです。それがお仕着せではなく、実にセンスがいい。今、ハイテク、教育等、各分野でフィンランドが注目を集めています。これは、突如としてなしえた技ではなく、長いスタンスで国を、特に国民のことを考えた結果ではないのかと思えるのです。
2003年10月4日 土曜日 アールバ アールト 3
私が学生時代専攻していたのが都市計画、ヨーロッパ、アフリカ、アジアの都市を極力、徒歩という方法で随分と見て回ったのですが、一番気に入ったのがフィンランド、それで日本の大学を卒業してすぐ、フィンランド留学を決めました。アールトはフィンランドの町で、都市計画を数多く試みています。ロヴァニエミもその一つですが、この都市は第二次世界大戦でドイツ軍が撤退するときに、全体が焦土と化しています。 今は、サンタクロースの町として有名ですが、町並みは戦後の新しいものです。アールトはこの町に1961年から87年まで関わっています。65年から68年に建てられたロヴァニエミ図書館、これは、なかなかの傑作です。漏水など指摘されましたが、そんなものを帳消しにしてくれる素晴らしさがあります。フィンランド国民は、読書好きが多い事もあってか、どこの都市でも図書館のセンスがよいと思います。 今、世界にフィンランドの教育制度が注目されていますが、こんなことも基盤にあるのかもしれません。2年後に着工されて、すぐ隣に建っているロバニエミ劇場、日本風に言うと文化会館でしょうか。屋根のラインが、ラップランドの山並みをデザインしたと言われていますが、この曲線はアールトらしくなくて不似合いです。 この都市においても結局、彼の都市計画の思想は完成を見ることがありませんでした。これほど国民に愛された建築家なのに、フィンランド人の頑固さには勝てなかったのでしょう。
2003年9月4日 木曜日 アールバ アールト 2
私が一番最初にアールトの建物を目にしたのは、1971年。シベリア鉄道に乗ってヘルシンキの駅にたどり着き、フィンランド国内を旅行したときです。東部の湖水地方、サイマーというフィンランドで一番大きな湖沿いの景観地で、ヒッチハイクで乗せていただいたグローン一家の誘いに甘えて、イマトラ市という人口3万人位の彼らの家へ3泊もしたのです。市内観光の折り、建築を勉強しているのなら、ぜひ見るべきだと連れていってもらったのが、Vuokusenniska ヴオクセンニスカの教会です。1956−58年に建てられたものですが、デザイン、曲線の美しさには、驚かされました。 1974年に私は再度、フィンランドに留学して、他の建築家に傾倒していくのですが、あの時の感動は、今でもはっきりと覚えています。一昨年の9月、久しぶりにイマトラのグローン一家へお邪魔したとき、もちろん私はレンタカーで動いているのですが、ご主人の車で教会へ連れていってもらいました。友人と何度か訪れているのですが、いつ来てもこの教会は心が落ち着きます。アールトの建物は、メンテナンスのうえでいつもトラブルを起こすのですが、長年管理をしている方に、訪ねてみましたら、にこにこしながら、ここは大きな問題はないよと言っていました。彼は、アールトの教会を維持管理しているということに誇りを持っているみたいでした。 イマトラの市民も、ヴオクセンニスカにアールトの教会が有ることが自慢です。いろいろ評価は分かれますが、自国民に愛されるというのは、やはり幸せな建築家だと思います。
2003年8月4日 月曜日 アールバ アールト 1
フィンランドはもとより世界的に有名な建築家、気候風土に共通性を持つせいか、北海道の建築関係者には特に人気が高い。アールトが亡くなってもう、27年の時が流れている。私がフィンランドでの大学生活に区切りをつけて中部ヨーロッパを経て日本に帰るため、ヘルシンキ港からフェリーに乗船して出港を待っていたとき、アールトの訃報が入った。見送りに駆けつけてくれた友人からの知らせだった。港がどんどん遠ざかっていくのに汽笛の音がいつまでも耳に残っていた。 2年前、ヘルシンキから西へ120km、フィンランドの古都トゥルクからわずか20kmのパイミオという人口数千人の小さな町へ久しぶりに立ち寄ってみた。もちろんアールトのサナトリウムを見るためである。アールトの機能主義的な設計が国際的に評価を得た出世作でもある。1928年のコンペで選ばれ、29年から33年にかけて建設されたものであるから、70年近くたっている。当時は結核患者用のサナトリウム施設がメインだったので、パイミオのサナトリウムと建築界では呼ばれているが、現在は地区総合病院として、使われつづけている。近郊バスも正面玄関に乗り入れ、地域住民の健康維持に役立っている。 デザインの斬新さと、メンテナンスも行き届いているせいか、とても戦前の建物とは思えない。また、ここの素晴らしさは、フィンランドでは普通なのかもしれないが、森に囲まれていること、病院の建物を核として、医者、従業員の住居地区、保育施設、教会まで一体となって一つのコミューンを形成していることである。建築家の野心が有ったであろう建物が、時を経ることによって地域に溶け込み、人々に愛される存在になっていく、建築に携わるものとして、こんな建物を残していきたいものである。
2003年7月4日 金曜日 ヘルシンキ市電
ヘルシンキには市電が、中心街を実にきめ細やかに走っている。路線は8系統、2系統は環状線なので実質10系統。特に観光客には、市内をほぼ一巡できる3B(外回り)3T(内回り)がお勧め。一回券(約現在のレートで180円)で市の中心部を車窓より眺めることが出来るので、市内観光の下見ができる。その他、回数券、1日券、2日券、3日券など割安な切符がいろいろとそろっている。ただ路線が複雑で観光客には少々難しい。思わぬところで曲がってしまい。目的地からどんどん遠ざかりあわてて降車のボタンを押さなければいけないこともしばしば。切符を買うためには、一回券なら前方の運転席の入り口から乗りお金を支払う。運転席以外のドアなら乗り降り自由。ただし、時折抜き打ち検査が有るので、有効な切符を持っていなければ高額の罰金を徴収される羽目になる。 市内を走っている電車は、2両連結車が大部分を占めるが、数年前から新型車両が導入され始めている。短い5両連結、低床型のLRTだ。デザインといい、スピードといい、実に近代的な感覚の市電だ。今、ヨーロッパでは車社会に対する数々の反省から、市電が見直されているが、ヘルシンキにおいては、中心街の市民の足として昔から確固たる市民権を得ている。地下鉄も1路線有るが、これは中心街と郊外を結ぶ性格が強い。石畳の上を、重厚な石作りの建物を背景にさっそうと走る姿はヘルシンキの町並みに溶け込んでいる。 一時、オレンジとクリームのツートンカラーに車体の色を変えた時期が有ったが、評判が悪かったのかいつの間にか姿を消して、元の緑をベースにした色合いの市電に戻っていった。ヘルシンキ市民は、意外と頑固である。そのせいか、新しい近代的な建物はどんどん建っているが、ヘルシンキらしさは昔と変わらない。官庁街の重厚な建物と肩を並べて立っているヘルシンキ大学の建物も、訪れてみると30年前の大学生活がつい昨日のような錯覚をおぼえるくらい変わっていない。
2003年6月4日 水曜日 白夜のユハンヌス
6月の第三土曜日は、ユハンヌスパイヴァといってフィンランドでは祝日です。夏を迎える祭り、夏至際です。都会の人々は一斉に田舎へ向かい、国道は帰省の車のラッシュで長蛇の列。普段は、何処までも尽きることのない森の景色を見ながらの快適なドライブを楽しめる国とは、とても思えない様変わり。反対に都会はもぬけの殻。駐車場探しに時間を労することもなく、思いの場所へ車を止めても切符を切られる不安もこのときばかりは大丈夫。 でも、この季節とクリスマスは都会なんかに居るもんじゃない。観光客ばかりのつまらない町。白夜の季節、それぞれの故郷では、白地に青の十字の国旗が澄んだ空気にたなびき、湖面を行き交うボートの舳先には、白樺の枝が飾られています。家々からは、ほのかに煙が出ています。薪のサウナの準備です。ユハンヌスにはサウナに入るのです。電気のサウナストーブとは違い、体に優しい熱気が伝わってきます。今では、田舎に行かないと味わえなくなってしまいました。 町に人が集まり出してきました。夏至祭のクライマックスは、ユハンヌスコッコ(篝火)です。地域によって異なりますが、広場の中央、あるいは湖岸で、薪を幾重にも積み上げたものに点火するのです。新婚のカップルがボートに乗ってきて中洲で点火というドラマチックな演出というところもあります。昔は、使い古しの小舟を立て掛けたのが始まりという話を聞きました。広場では、民族衣装に着飾った人たちの、ダンスの輪が二重三重と出来てきます。それぞれの想いで見つめるかがり火の揺らめき。長い厳しい冬を乗り切り、むかえた夏への喜び、あるいは、遠い過去の想いでへの重ね合わせ。白夜のかがり火は、ようやく日没をむかえた空に、彩度を増していきます。叉、今日から確実に日が短くなるという、少し切ないような寂しさを、弱まる炎が物語っているようです。
2003年5月4日 日曜日 白樺の若葉の輝き
北欧の人々は春を待ち焦がれる。暗く寒く長い冬。寒さに関しては寒波が来ると少々辛いものはあるが、住宅においてはてティーシャツ1枚で過ごすことが、普通なくらい断熱、暖房設備が整っている。問題は、わずかの時間空にどんよりと光る冬の太陽、暖かささえ感じない。夕方には日が沈み、日の出も遅い。果てしなく続くのではないかと思われる暗い冬。3月、4月と日照時間も長くなり、日増しに人々の気持ちも明るくなる。北欧でこの暗い冬を過ごしたものでなければ理解できない春への感慨。 5月、木々も待ちわびたように枝に膨らみを持たせ始める。北海道では、梅と桜が同時期に咲くように、フィンランドでは枝の葉が一斉に緑をまし始める。まるで花びらが開くかのように緑の帯が景色を塗り替えていく。特に白樺の若葉に輝く光のまぶしさ、緑の美しさを見ていると、生きていることへの喜びさえ感じる。河辺の白樺は水面の光と融合してさらに輝きを増す。まさに春の到来である。 この白樺、北海道では、割りばしくらいにしか使われない材料だが、フィンランドの白樺は、最近ではすっかり有名になったキシリトールの原料であるとともに、北欧白木家具の材料でもある。北海道の白樺よりずっと堅い木なので高級な床材としても使われる。フィンランドでもっとも有名なサウナ、雑誌などで見かけるサウナ室で人々が持っている小枝、もちろんこれは白樺である。ほてった体を叩いて、刺激を与え新陳代謝をよくする効果がると同時に、白樺の香りがサウナ室を満たしてくれる。サウナ室を出ると湖から、さわやかな風が白樺の若葉を揺らしているにちがいない。
2003年4月4日 金曜日 ヘルシンキ中央駅
1970年代始め、若者はこぞってあこがれのヨーロッパを目指した。格安の航空券もない時代、横浜港を出港、ナホトカからシベリア鉄道に乗りモスクワ経由でヨーロッパの各都市へ向かった。ソ連、フィンランドの国境駅バイニッカラで長い共産圏出国手続きを終えると、空までもが明るく感じられた。最初の自由主義国のヨーロッパ、フィンランド。ソ連製の緑色のいかつい客車が国境駅よりフィンランドの機関車に引かれて、広広軌という新幹線よりもさらに広い線路幅を持つ軌道をひた走り終着ヘルシンキ駅へたどり着いた。この鉄路が延々とシベリアからつながってきたのだと思うと感慨深いものがある。野ざらしのホームの4月の風はまだ肌を刺す。ホームを取り囲むように駅舎が立っている。フィンランドの著名な建築家エリエル、サーリネンの設計による1914年完成の重厚な赤御影石の建物。 フィンランドと係わって30年、今も年3,4回仕事で訪れているが、めったに鉄道には乗らない。でも空港からヘルシンキ市内行きの連絡バスはシティーターミナル行、ヘルシンキ中央駅のすぐそばである。私は時折、ホームへ足を伸ばす。ヘルシンキとフィンランドの古都トゥルクを時速210Kmで走る特急が登場したり、学生寮からヘルシンキ大学へ毎日通った近郊電車が新型車両になったり、ホームにもつい最近、鉄とガラスの屋根がついた。でも、全体の雰囲気は昔のままだ。大きな木製の扉も健在だ。ロシアからの列車も到着する。 ヘルシンキ中央駅は20世紀の始めから、ほとんど変わらない姿で、ヘルシンキを見続けている。何事もなかったかのように。そして、そこに立っている私の青春時代をも包み込むように。
2003年2月15日 土曜日 ヒーヒト・ロマ(スキー休暇)
フィンランドでは、2月下旬から3月にかけて全国を南から北へ三地域に分けて順次、スキー休暇に入ります。南のヘルシンキ地域から始まって、最後はロバニエミを中心とするラップランド地域は3月9日から14日まで。小学校から高校まで休みになるのですが、親達も年平均45日の有給休暇の一部をこのヒーヒト・ロマに合わせて家族で休暇を楽しみます。 大都市の集中しているヘルシンキを中心とする南部地域の休みの時期は、北のスキー場、ホテル、飛行機は全て予約で一杯となります。2月も下旬になりますとラップランドでも日照時間が少し長くなり、気温も厳しさが緩んで絶好のスキーシーズンとなります。 今年はフィンランドも暖冬でヘルシンキでスキーができたのは、ほんの数日程度でしたから、北に向けての家族単位の移動は多かったようです。スキー場といっても起伏の少ないフィンランドのことですから、コースは長くても1キロ弱、Tバーリフトが主流です。しかし、スキーセンターを中心にホテル、コテージが配置されて見事に景色に溶け込んでいます。コテージにはサウナと暖炉が必ずついていて、スキーで疲れた体を癒してくれます。そしてほのかな暖炉の炎は夜長の会話を一層暖かく包んでくれるのです。木の香りの中で過ごす一週間は家族にとって、心身ともにリフレッシュするよい時間なのです。
2002年9月15日 日曜日 オーロラの夜のサウナ
ヘルシンキから北へ1,200キロ、北極圏に位置するイナリというラップランドの小さな町。ここは、ラップランドの人々の中心地。フィンランド第二の湖イナリ湖から水上飛行機で進路をさらに北へ。ロシア、ノルウェー共に国境から10キロ地点の友人の地に無事着水。彼の愛犬が出迎えてくれました。今ではフィンランドでも珍しくなったスモークサウナにての歓迎。サウナ室内にあるストーブに薪を入れ、扉を少しだけ開けて静かに焚き続けるのですが、煙突がないので室内に煙が蔓延、温度が上がったところで扉を大きく開けて、煙を追い出してからサウナ室に入り、ストーブの上の石に水をかけ、湿度を上げて体感温度を上げます。体中すすだらけになるのですが、軟らかな温かさは他のサウナの比ではありません。火照った体を涼ませるために外へ出ると夜空には一面緑色のカーテン、一秒として同じ姿を見せないオーロラの営みには、時を忘れて見入ってしまいます。原生林の中のサウナそしてオーロラ、自然と共に生きる素晴らしさを知っているフィンランド人にとってサウナは、文化そのものなのです。