HOME > コラム
2004年9月4日 土曜日 タイバルラハティ(テンペリアウキオ)教会
ヘルシンキの観光コースに必ず入る、通称岩の教会。1969年に建てられて、いまだ観光シーズンには、バスが入口付近に連なって止まっている。元老院広場の大聖堂に次ぐ観光スポットである。1960-70年代フィンランドは数多くの有名建築家を排出した。訪れた外国の建築関連以外の人々にもっとも観られた建物は、決して建築的には有名ではない、ティモ、トゥオモ・スオマライネンの設計になる、このテンペリアウキオではないだろうか。 有名建築といわれるものは、絵画のように、本当に一般の人々に感銘を与えているのだろうか。設計コンペによる教会へあたえられた条件は、小高い丘の低層アパートに囲まれた地区ゆえに、環境に溶け込むことであった。必然的に大地を掘り込むことになる。フィンランドは、氷河に削られた20億年前の岩盤。いわゆる赤御影石、掘り出された岩を再度壁として積み上げられ、コンクリートの補強は最小限に抑えられた。雨水等の侵入に対しては、内部に側溝を設けて処理をしている。自然に優しい建築の先駆けといってもいいかもしれない。ここでは、コンサート等も行われる。随分前に、一度ギターのコンサートを聴いたことがあるが、音響もさることながら、雰囲気がいい。結婚式が行なわれている時は、中に入れないが、2階席から見学することは出来る。最近では、ここで結婚式を挙げる日本人も増えてきている。フィンランドのルーテルも随分変わってきた。 世界的に有名な建築家アールトが、この世を去ったのが1976年、ピエティラ、シレン、次々と一世を風靡した建築家が消えていった。昨年、この教会設計者、スオマライネンも輝かしい時代を過去のものとして、この世から去っていってしまった。
2004年8月4日 水曜日 サルパ(防衛陣地)
8月が訪れると、日本では、毎年必ず新聞、テレビで終戦報道が組まれますが、フィンランドも同じ敗戦国です。1932年に突如ソ連の進行で始まった冬戦争、1941年さらにドイツを交えた継承戦争、終結は、ソ連との停戦協定が結ばれた1944年9月です。戦後、ばく大な理不尽な賠償が課せられました。さらにカレリア地方と、最北部を割譲され、水路等の使用権に制限がつけられました。 この季節、フィンランドを訪れたとき、ロシア(旧ソ連)との国境近くの町、国道沿いの戦場跡を知人の案内で立ち寄りました。当時、ソ連の侵攻を防ごうと延々と作られた、いわゆるマンネルヘイム防衛線です。一面の針葉樹林の中に、川の流れのような対戦車壕の跡、岩盤にコケが張り付いているように観え、近くへ行ってみると頑強なコンクリートのトーチカ、不自然な岩の並びは、戦車用障害岩、皆、年数を経て自然に溶け込もうとしているみたいです。 この国には、負けこそしたけれど、強国と互角に戦ったという自負があります。1917年のロシア帝国からの独立、第二次大戦のソビエト連邦からの侵攻に対する戦いは、フィンランド魂(SISUしす)を見せつけました。ソ連邦が崩壊した現在でも、個人を除く建築物に対しての防空ごうの設置義務の条項は削除されていません。EUに加盟し、ユーロ圏にもいち早く参加して、さらには、NATOの一員に加わろうとしていますが、自国の防衛は自国で行なうという基本路線になんの変更もありません。 今回のイラク戦争では、いち早く、大統領が不参戦を表明、しかし、国連軍には長い参加の歴史が有ります。誰から、誰を、何から、何を守るのかという姿勢は、この国は一貫しているのだと思います。高福祉国家の論理は、二者択一を迫るよう狭義な国ではないような気がします。
2004年7月4日 日曜日 ナーンタリ キュルプラ(スパ)
今、フィンランドでも、子供に人気のムーミン。ムーミンがトーベヤンソンによって描かれ、日本でアニメによって紹介され、人気物になって、その動画が、再びフィンランドへ渡って、子供たちに好まれている。昔、学生時代ムーミンオペラをヘルシンキで観た記憶はあるが、当時はムーミングッツなんてほとんどなかった。わずかに、タンペレの町にムーミン谷が存在したくらいだったのに、今では、ムーミンマー(国)まで、誕生し、内外の観光客でにぎわうナーンタリ市。 ヘルシンキから西に180Km、車で2時間半、海岸線に島々が点在するとても景色の良いところ。ここに滞在型の大きなスパがある。もちろんフィンランドには、火山がないので温泉は存在しない。しかし温水プール、エステ等を備えた施設は、他のヨーロッパの国々同様に、フィンランドでもいくつも建設されている。ここの宿泊施設は少々変わっている。本館から離れた海岸沿いに船の形をした別棟のホテルなのだ。 ヘルシンキ、ストックホルムを結ぶ航路には、毎日5万8千トンクラスの豪華フェリーが行き来している国だから、特別めずらしい光景でもないのかも知れないが、客室のベランダは船のデッキそのもの、船に乗っているような気分になる。もちろん自力航行は出来ず、固定されていて諸設備は、外部から引き込まれているのだが、オーナーの発想が面白い。大きなイベント等があるときは、宿泊施設の不足している処へ、どこへでも引っ張って行くとのこと。なんともスケールの大きな話だと思う。
2004年6月4日 金曜日 ガッレン カッレラ ムセオ(博物館)
フィンランドの国民的画家、ガッレンカッレラ(1865-1931)のヘルシンキ郊外のアトリエを尋ねるには絶好の季節の訪れ。市内からトラム4番に乗り、静かな住宅地ムンキニエミの終点で下車。海岸沿い(湖にしか見えない入り江)を西に向かいます。1.5Kmと少々遠いかもしれませんが、この季節、まわりの景色が足の疲労を和らげてくれます。歩道が土手沿いに狭まって来るとエスポー市との市堺、右手には古都トゥルクへ向かう高速道路、少々景色にふさわしくない騒音、目を移すと小高い丘へ向かう木橋がかかっています。水辺から伝わるさわやかな風を感じながら橋を渡り、赤色の細かな砂利の傾斜路を進むと、中央に中世の小さなお城のような塔、それに連なって大きな三角屋根の変わった建物が現れます。ここが、今はミュージアムとなっているガッレン・カッレラのアトリエなのです。 昔の芸術家は実におおらかです。豊かな自然の中に、お気に入りの建築家にアトリエ、住まいを依頼して、新たなる活動を始めるのです。時がじつにゆっくりと流れていたのかもしれません。現代は、時間を有効に使うため、さまざまな機器が発明され、世界に広がっています。携帯電話のノキアもそうですが、新たな製品が、世に出るたびに時が、失われていくような気がします。 そんな感慨を抱きながら帰路を歩き始めると、高く昇った太陽、日没はまだまだ先、今夏至祭の季節です。時は、やはり自然の中では静かに流れています。
2004年4月4日 日曜日 アールト フィンランディアタロ –1
私が初めて訪れた1971年のヘルシンキは、アールトのフィンランディアタロ(コンサートホール)が、完成して間もないときでした。トゥーロ湖沿いにたたずむ白い大理石の鋭角のコーナーが印象的でした。学生時代を過ごした1974年からは、ヘルシンキフィル、ユーレスラジオフィルの演奏会を良く聴きに行きました。貧乏学生だったので、切符はいつも安い学生券でいろいろの席で楽しみました。この建物はよく物議を醸す建物で、音響の評判は特に芳しくなかったのです。第一ヴァイオリンの音が聞こえない席があったりします。左右非対称のオーデトリウムは、問題ありかもしれません。 でも、私はこの建物を結構気に入っています。入り口から続く大理石の緩やかな階段が、ホワイエと続き、それから向きを180度変えてコンサートホールへ入るアプローチのうまさ、ここの空間が、冬の暗いヘルシンキで、ドレスアップした人々の上品な社交場となっているのです。 このホワイエには、想いでがあるのです。在フィンランド日本大使館主催の天皇誕生日のパーティーに、生け花の大きなオブジェを作るということになって、華道の友人に頼まれて製作に関わりました。大きな曲がりくねった松の枝を天井からつり下げたりしたのですが、吊り下がっている照明灯がしっくり来ないので梯で取り外したり大変でした。無事盛大なパーティー終了後、施設担当者に呼ばれまして、えらく叱られました。アールトの作品を許可なく移動したことが原因でした。怒られながら、本来の使用目的以外に使おうとすると照明の一つまでもが自己主張する、アールトの繊細なデザインに感心していた自分を思い出します。
2004年3月4日 木曜日 白く光り輝く3月のフィンランド
3月に入ると、北海道と同じように、フィンランドも寒さと春が同居し始める。たとえ厳しい朝の寒さでも太陽の輝きが違う。暗く厳しい夜の長かった季節が、遠い過去の様な、暖かさを感じ取れる太陽が今、空にまぶしいくらいに輝いている。北欧の冬の太陽は、日照時間が極端に短いばかりではなく、ぼんやりと照っているだけ、暖かさの全く感じられない丸く光っている、単なる物体としか思えない。ヘルシンキから北へ700Km程の処。車を走らせていても気持ちがいい。国道はもちろん除雪が行き届いていて、不安を感じさせる要素は何も存在しない。車は、昼夜共点灯が義務づけられているので、遠くでも対向車の確認が容易にできる。田舎へ行くと、郊外の道路の制限速度は、だいたい100Kmなので、追い越しの時、ライトの存在は確実に事故を防止してくれる。 昨夜からの湿った風が、果てしなく続く森の枝枝を、美しく白に化粧させている。そこから漏れる光が実にまぶしい。ログハウスのために生まれてきたような、まっすぐ一定の太さで育つポーラパイン。樹種は、欧州赤松に属するのだか、黒い森で有名なドイツの赤松とは異にする。自然環境が厳しい北欧で育ったパインは、年輪がつんでいて、樹脂分が多く、それでいて常温では、やにを発生しないので、第一級の木材と言われている。木の持つ柔らかさ、香りは、住宅にはうってつけのの材料である。もちろんフィンランドで伐採される森林の多くは、パルプ関連産業に多く消費されている。しかしこの国は、森林の過剰消費を行なわない。厳しい土地だからこそ、育つのに必要な年月を知っている。今、NOKIAという世界企業を生んでいるが、やはり賢い国なのかもしれない。
2004年2月4日 水曜日 ポロンエラマー
フィンランドの2月は、南のヘルシンキ地方からスキー休暇に入ります。北のラップランドは、翌月に入るのですが、この時期ここに住むサーメの人々にとっては、とても重要な季節の訪れです。ポロ(トナカイ)の仕分けの時なのです。 ヘルシンキから北へ1100Km、フィンランド最北のイバロ空港で飛行機を降り、車でさらに、イバロの町を抜け、フィンランドで2番目に大きなイナリ湖を右手に見ながら北上を続け、30Km程走ってサーメの人々の町イナリに到着。防寒具に身を包み、近道をするためにスノーモービルに乗り換え、雪原を走ること30分、白い世界に茶色の移動する塊、おびただしい数のトナカイ、囲い込みが始まっています。自然放牧をしていたトナカイをスノーモービルで追い込み、幕を巡らせグループごとに一ヶ所に集め、それぞれの所有者を確認します。マイナス20数度の寒さの中、トナカイのはく息で空気が白く濁ります。新しく生まれ、群れに加わったトナカイには、見事な縄さばきで、押さえ込み、素早く耳に所有者の印をつけます。今日捕獲する頭数を確認して、トナカイに近づいたと思ったらナイフで一瞬で処分します。 昔は、何日もかけてトナカイを追い込み、コタというテントに泊まり移動をしたそうです。それが、スノーモービルのおかげで、今では一般のサラリーマンのように毎日自宅から通う生活です。ただ、スノーモービルを買うために処分するトナカイの数を増やさなければならないという、少々皮肉な結果もふくんでいるのです。次々と、トラックに処分されたトナカイの肉、皮と仕分けられて積み込まれていきます。なんとも残酷に見えるのですが、これが彼らの生活の糧なのです。トナカイは鳴きませんし、じつに表情がやさしく、従順なのです。叉、サーメの人々の表情も実に穏やかで優しいのです。この、それぞれの表情が私にとっては救いでした。一日の仕事を終え、それぞれの帰路につく頃、雪原に残る赤い痕跡だけが、トナカイの厳しい一日を語っているようでした。
2004年1月4日 日曜日 新年のヘルシンキ、少しだけアールト4
ヘルシンキの新年は、朝市の開かれる南港近くの大聖堂前、元老院広場で始まる。夜中の12時に大統領の新年の挨拶、そして演説が行なわれる。港に停泊している船からは、無数の汽笛、打ち上げられる冬の花火。広場に集まった人々は新年を祝って互いに握手を交わしたり、抱きあったりする。日本の盆と正月をまとめたようなクリスマスが終わってしまっているので、いたって質素な新年。 家庭では、スクープの中に馬蹄に形どられた錫を入れ、ストーブ、調理台等で溶かして水の入ったバケツに注ぎ、固まった形を見て新年を占う。1月2日からは、ごく普通の生活に戻ってしまう。町では、クリスマス明けのバーゲンセールが始まる。 元老院広場から少し東側の小高い丘には、レンガ色のロシア正教のウスペンスキー寺院が見える。道を挟んで反対側に5階建ての対照的な白い近代的な建物が建っている。これは、エンソ、グッツァイトの本社ビル。今でこそ、ノキアが世界的企業になってしまったけれど、この建物が建てられた1962年当時は、森林王国フィンランドの代表的企業。アールトは、初めてヘルシンキで白い大理石をつかったと言われている。赤いレンガの寺院との調和を考え、CGの無かった当時、かなりのスケッチの枚数を費やしたという。20年程前、私はお手伝いをしていた仕事の関係上、何度かこの建物の会議室でエンソ本社の方々と打ち合せをしたことがある。シンプルだけれども、随所にこだわりの見られるすてきな事務所だと思う。ただし、大理石の美しさは、地中海の空、輝くあの太陽のもとでこそ美しい。パルテノン神殿の大理石の輝きは、ロンドン、大英博物館には見られない。 この建物で、すっかり白の大理石を気に入ってしまったのかどうか、解らないけれど、1971年に建てられたコンサートホール、フィンランドタロの外壁は、北欧の厳しい気象状況で、年を追うごとに悲劇をむかえてしまう。
2003年12月4日 木曜日 12月のフィンランド
今年のヘルシンキは、雪が遅い。11月に一度寒さが来たが、現在雨の毎日である。ただでさえ、暗い季節に雨は一層気持ちを沈ませる。でも、12月はそんな気分を明るく変えさせる材料がある。12月6日の独立記念日、官庁、商店の窓辺はもとより各家庭がローソクの明かりに映し出された窓が暗い町に浮かび上がる。もっとも官庁、商店はローソクの形をした照明器具である。 ちなみに今年は独立86年。12月の町は、クリスマスのイルミネーションによって飾られる。ヘルシンキ一番の商店街、アレクサンテリン通りは建物から建物へ照明が施される。一角のストックマンデパートのショーウィンドゥは、子供のために毎年サンタにちなんだデコレーションがなされる。私が学生生活を送っていた30年前もいつも子供であふれていた。子供用の桟橋が用意されているのも昔のままだ。 フィンランドは、サンタクロースで有名な国。サンタクロース村はあるし何といっても政府公認のサンタクロースが、この季節、世界中の良い子を訪問している。ヘルシンキから北へ700Kmのロバニエミ市郊外のサンタクロース村はこの時期一番のにぎわいをみせる。つい数年前までは、ロンドンから超音速旅客機コンコルドの日帰りツアーが組まれていたのだから驚く限りだ。子供のいる家庭へは、イブの夜になるとヨウルプッキ(サンタ)が、訪れるのだから、サンタさんの存在を疑う子供はいない。また、この国の素晴らしいところは、その夜に家族が一年がかりで暖めたプレゼントを各々にする事だ。こんな楽しいクリスマスを私は、フィンランドの田舎の家庭で何度か経験させてもらっている。わが家でも、子供が小さいときフィンランド式のクリスマスを家族で楽しんだ。感謝の気持ちはいつでも持ちたいものである。
2003年11月4日 火曜日 ユバスキュラ
ヘルシンキから国道4号線を北へ、270km車を走らせるとユバスキュラ市がある。アールトはこの町で1923年に設計事務所を開設、彼にとってゆかりの地である。今回はアールトから少し離れた現在のこの町を紹介しましょう。中部フィンランドの中心都市として、農業、工業、商業各分野の核をなしていますが、とりわけ森林関連産業が中心でした。けれども、IT産業の台頭で、この町も大きく変わろうとしています。市の中心部は再開発が活発に行なわれています。 昨年12月にオープンした、日本的に言うと旅客ターミナルビルもその一つです。このビルは鉄道駅とパスターミナルが合体しています。そもそも計画は1980年代にすでにでになされ、設計コンペは、1990年半ばに行われ、ハッリス&クイスィク+ペトリ ロウヒアイネンの設計事務所が1等入選しました。それで、完成を見たのが2002年12月2日です。日本人から考えると遅いようですが、1970年代に設計コンペが行われた、ヘルシンキの新オペラ劇場が、完成したのはつい数年前ですから、決して驚く事ではありません。 フィンランドは、どちらかというと車社会ですから、道路網はとても整備されています。多くの国道は、郊外へ行くと制限速度が100Kmですので高速道路なみですが、高速道路網も整備が進んでいます。飛行機はヘルシンキが、起点ですが主だった都市へ飛んでいます。鉄道網はどちらかというと、遅れているほうですが、電化も速度は遅いですが地方路線へと伸びています。そしてこのようなターミナルから、さらに路線バス、近郊バスが発着していきます。一見当たり前のようですが、人口わずか500万人の交通網としては、素晴らしい整備だと思います。弱者への配慮、子供、高齢者の自らの移動を保証しているかのようです。それがお仕着せではなく、実にセンスがいい。今、ハイテク、教育等、各分野でフィンランドが注目を集めています。これは、突如としてなしえた技ではなく、長いスタンスで国を、特に国民のことを考えた結果ではないのかと思えるのです。