2021-03 セピア色の旅の記憶-7 イギリス
初めて,イギリスに渡ったのは、1971年の多分、夏の終わり。パリ北駅を出発したのは、覚えていますがドーバー海峡のどこの港かは全く覚えていません。着いた港から駅に向いロンドンまでの切符を買おうとしたら、シングル?と聴かれ片道かという理解に迷っていると冷たく聞き返されました。さらにどこの国から来たのかと、そっけない問に日本ですと答えると急に優しい顔になり、良い旅をと切符を渡してくれました。これが、私のイギリスに対する最初の印象でした。当時、日本のパスポートは、ヨーロッパではオランダ以外、税関も表紙だけ見て、ろくに目を通さないくらい優等生扱いでした。
ロンドンに着くなり、ユースホステル、YMCAは、空室なし。入国初日から宿無し、図書館の庭で寝袋の野宿でした。次の日YWCAなら泊まれると聴き早速チェックイン、やけに女性が多いと思いました。Wの意味がわかっていませんでした。後で、1室だけ男性用で泊まれると知りました。こんなレベルの旅です。大英博物館、内容の素晴らしさに驚き、学生無料には感激しましたが、占領地等のものを取ってきて展示しているのですから,当たり前かとも思いました。それにつけても、イギリスの天候のせいかファサードの重苦しい事、年末にギリシャを訪れパルテノン神殿を見て地中海の太陽の元で初めて大理石は輝くと感じました。
この後、随分イギリスを旅しています。ヘルシンキ大学在学中、父は定年退職して,両親がヨーロッパを見たいという事で2週間ほど一緒の道中再度イギリスへ、父はイギリスに感激していました。古い日本人にとって憧れなのかも知れません。バーバリーでコートを注文、私もトレンチコートを買ってもらいました。貧乏学生には手が出ませんのでこのときとばかりに。
時折フィンランドへ長期出張の時は、ロンドンへ出掛けました。昔、娘の3歳の誕生日が近かったので、とんぼ返りでバーバリーでベルベットのドレスを買ってヘルシンキへ戻ったら、友人からあきれられました。ゴルフ場の大きな仕事をさせてもらった時は、セント・アンドリュースのセンターハウスへ入れていただき、ゴルフをしない私でも楽しい時間を過ごさせてもらいました。近年では、フィンランド航空のストが予想外に長引き、打ち合わせに間に合わずロンドン経由でフィンランド入りした時、久々にヒースロー空港に立ち寄りました。相変わらず乗り継ぎが不便で、税関は愛想が悪く、楽しくない空港でした。過去の栄光にこだわったEU離脱で、私はグレートがぬけたブリテンになっていくと思っています。
2021-02 セピア色の旅の記憶-6 ノルウェー
先日、NHKのBSで欧州大縦断鉄道の旅、ノルウェーからイタリアへ向う列車が放映されていました。最北の不凍港ナルビクNarvikからスエーデンのキルナKirunaを経由して南下する旅です。列車は当然新しくなっていましたが、景色にさほど変化はなく,50年前の記憶をよみがえらせました。
夏を迎え、旅の蓄えも出来て、日本から共に出発した友人とスエーデンで別れ、お互い各国自由気ままな旅を続けていたのですが、偶然オランダのハーグHaagのユースホステスで再会しました。旅の経過の報告がてら、ノルウェーを一緒に旅する事に決めました。オスロ郊外では、ガス欠の車で立ち往生している人に、近くのガソリンスタンドまで車を押すのを手伝ってくれないかと頼まれ、二人で後ろから一生懸命押しました。スタンドで無事補給を終えると、お礼にその町のユースホステルまで送ってもらいました。ホテルの無い田舎では、モーテルが当時から多く在って、値段交渉で安く泊めてくれました。木造教会の点在する地区を見て回り、憧れのフィヨルドも船に乗換え訪れました。夕日と湖、山並みのコントラストは実に絵になります。湖の半ばで、反対側から近づいてきた船が合流して停船、目的地によって乗客が乗換えるのには驚きました。山々はそれほど標高が高いわけではないのですが、緯度が高いので、まるでスイスのような景色に感じられました。列車でさらに北を目指す事にしました。ところが鉄路は国の半分くらいで止まってしまいます。尋ねると,もっと北へ行くには、スエーデン経由で回り道をしないと行けないという事でした。乗り掛かった船、列車です。スエーデンに戻り,北を目指しました。随分時間がかかったような記憶です。Kirna を過ぎて再びノルウェーへ入ると、さかんに貨物列車とすれ違います。短い列車ではなく、かなりの長さでした。昔から、スエーデンの鋼材は有名ですが、教科書に出てきたキルナ鉱山からの運搬列車だと思います。目的地として向ったナルビクは、メキシコ湾流の関係で冬でも凍らない鉱石積み出し港でも有るわけです。
ノルウェーの少しくらい歴史の中には、いち早くこの港に目をつけたヒトラーが、ノルウェーを実行支配し、戦後国民が、戦時の人々の行動に対して反目した時代がありました。
フィンランドも北でノルウェーと国境を接しています。私は、ほぼ最北のフィンランド、ウツヨキUtsjokiを1971年夏に1974年冬に2度訪れています。
私の友人は、ロバニエミに住居が有るのですが、定年後、夏はほぼウツヨキの別荘で暮らして、鮭釣をしています。遊びに来いといつも言われるのですが、なかなかあそこまでは当時以降、足を伸ばせません。(ヘルシンキから北へ約1300KM)
2021-01 セピア色の旅の記憶-5 スペイン-3
昔、旭川高専在学の時、地理の特別授業で、スライドによるアルハンブラ宮殿が紹介された。それ以来、私の脳裏に記憶されたイスラム建築を、いつか見てみたいと思っていました。Madridからcordobaを経由して憧れのGranadaに到着しました。その日は午後の到着という事もあって訪れるのをやめ、まず宿を取りました。もちろんホテルの格ではない通称流れ星、最初から決めていた1週間のステイです。次の日、はやる気持ちを抑えて静かに坂を上っていきました。入場料を支払って門をくぐり中へ入ります。もちろん写真からの想像をはるかにしのぐ、表現することが難しく、ただただ感動でした。まず、写真に納めるのではなく自分の目にしっかりと記憶させたかったのと、アルハンブラ宮殿の空気を感じたかったからです。2日目はスライドと白黒フィルムを用意して出掛けました。当時カラーフィルムは、高価でしたのでたくさんの写真を撮りたいのと、引き伸ばして飾ることも考えました。3日目からは、午前アルハンブラ宮殿,昼にグラナダの町に戻りグラナダ大学の学食で昼食、学生にグラナダの町の話を聴いて、午後は北にある庭園ヘネラリフェGeneralifeへ。水をこよなく愛するイスラム文化は、噴水、池の水の水源を遠くシエラネバタ山脈から求めているという壮大なスケールの庭園です。ここで閉園まで過ごしました。これが毎日のスケジュールでした。獅子のパティオは、白い石が敷き詰められていましたが、その4年後訪れた時は花が咲き乱れていたりしてがっかりした記憶も有ります。
私の好きなのは、華奢なツィンの柱です。この絶妙なバランスがイスラム建築の素晴らしさです。9・11の世界貿易センタービルは、設計者のミノルヤマサキが、こよなくイスラム建築を愛していたからツィンタワーなのです。この気持ちを知ってか知らずか歴史は残酷です。
10月にこの地を選んだのは、姉の結婚式があるので、どうしても私の愛するアルハンブラ宮殿のあるグラナダから祝電を送りたかったのです。生まれて初めての海外旅行、4月に横浜からバイカル号に乗って一泊、津軽海峡を通過時、姉は、父の転勤で函館にいました。函館山から船を見送ってくれたそうです。
1週間毎日通い詰めても、飽きることなく時が過ぎていきました。でも、もうこれ以上長居は出来ません。旅はまだまだ続きます。
グラナダ駅をを後にした時、アルハンブラの思い出がTARGO(スペイン国鉄自慢の特急初代タルゴ)の車内から流れてきました。到着時にも同様のメロディーが聞こえていたのに、なぜかこのメロディーが後ろ髪を引かれるような感慨を覚えたこと今でも、記憶の片隅に残っています。
2020-12 セピア色の旅の記憶-4 スペイン2
何度かのヨーロッパ横断を続け、地中海からではなく、フランスから北部スペイン、バスク州へ入りました。当時も治安が良くないという情報でした。フランコ政権の悪政が当時も人々にしこりを残したのでしょうか。国境駅では随分と停車しました。国が変わると牽引する機関車は変わるのが普通ですが,スペインの鉄道は新幹線より広い線路幅,広広軌鉄道ですから、牽引される車両も車軸距離が異なります。私の記憶では、車軸距離を変える作業で時間がかかっていたと驚いたことを覚えています。サンセバスチャンからサンタンデールへ向いました。途中のBilbo当時はビルバオには、グッケンハイム美術館は存在していませんし、ビスカヤ橋の存在も知りませんでした。いまして思うと、ビスカヤ橋は渡ってみたかった。途中下車することなく、目的はただ一つ、歴史の教科書に載っていたアルタミラの洞窟を見てみようという思いでした。Santanderサンタンデールからローカル線に乗換え、車窓から景色を眺めていると、女子中学生が、私の乗っている車両一杯に乗り込んできました。当時まだ日本人は、珍しくスペイン語で質問攻めです。幸い少しスペイン語を話せたので必死に会話を続けました。目的地を聞かれ、アルタミラの洞窟を見に行くと言うとけげんな顔をされました。面白くないよとの返答です。1時間弱SantaIsabel 駅から徒歩2Km当時は博物館も何もなく、ただただ田舎道の野原が続だけです。少々不安を覚えながらも,通る人に道を尋ねながら歩きました。お粗末な標識を見つけました。これが歴史の教科書にも載っている、かの洞窟なのか。列車を乗り継ぎ、ここまで歩いてきてまた、駅まで引き返すだけの無駄骨か。
半信半疑、中をのぞき込むと人がいました。入場料を取られてたのかどうか全く覚えていません。それぐらい品粗な入り口でした。狭く,薄暗い洞窟というよりほら穴の感じです。少しすると目がなれてきました。確かに教科書に乗っていた絵が上に見えました。中央に寝そべるように上を見上げる姿勢での鑑賞です。何となく満足してアルタミラを後にしました。写真を撮れるレベルの明るさではなかったですし、フラッシュは禁止でした。外はすでに、日が陰り始めていました。駅につく頃には,アルタミラの丘は夕日に包まれていました。
何年か後に、平成天皇御夫妻が、皇太子殿下時代に訪れたのを最後にアルタミラの洞窟は閉鎖されたままのようです。
2020-11 セピア色の旅の記憶-3 スペイン
依然、出張の目処がたちません。旅の記憶を続けます。
1971年スゥエーデンから旅を続けて、ヒッチハイクで南下を続けましたが、1週間ほどで東欧に着きました。東欧に入ってからは、車の数の少なさで、移動距離が極度に落ちてしまいました。予定のたて難い移動も相まって、ユーゴスラビアでヒッチハイクを終わりにしました。
いよいよ父に買ってもらった、3ヶ月のユーレイルパスを使い始めました。当時は,列車もさほど混んでなく、まして1クラスのコンパートメントは、貸し切り状態です。1日中歩き回り町中を見学、夕方スーパーで食料を仕込んで,夜出発の列車に乗り込みます。翌朝着きそうな次の国へ移動です。こんなスケジュールを繰り返し、フランスからスペインへ。
当時、私は大学で第二外国語にスペイン語を履修していました。1年生の時は、予習、復習をして毎週教室へ向かいました。何せ語学は真面目に時間を費いやすしかないからです。ところが2年生になって、私の通う大学でさえ、学生運動が盛んになり勉強どころではなくなりました。大学のロックアウト後、秋に授業は再開されましたが、あまりの環境の変化で力が入りません。思うところあって、休学して1年ヨーロッパへ旅立つことを決めました。ところが、スペイン語の先生から呼び出され、成績芳しくないのでもう一年補修を告げられました。休学するので1年まってくれと言うと、私は来年でこの大学をやめると言われ、それは困ると交渉の結果、先生のスペイン留学の時の下宿先を必ず訪れるという条件で何とか単位を取得しました。
バルセロナを訪れた時、もちろん真っ先に先生の下宿先へ向かいました。たどたどしいスペイン語で、説明するとそうか、わざわざ挨拶に来てくれたかと、たいそう歓迎されました。その後のスペインの旅は、スペイン語が話せるだけで随分楽しいものになりました。語学は大事だとつくずく思いました。
当時は、まだ、サントリーがスペインの一大キャンペーン広告をうつ前でしたから、スペインブームでもなく、観光客もさほど多くなく、サグラダファミリアも閑散としていました。建築専攻の私ですから、時間をかけて,隅から隅まで見学出来ました。勝手にガウディの気持ちを考えながら、思いを巡らしました。もちろん、その後何度も訪れていますから、完成に近づく変化を見ていますが、最初に受けた衝撃を、超えることはありません。何とも言えない存在感、絶望的な時間をこえての完成を、彼は本当に現在進行中の姿を夢見ていたのでしょうか。既に、風化の始まった歴史的建造物遺跡とさえ思えました。私は、コンクリートと共存するサグラダファミリアの完成を、何が何でも見に行きたいという気持ちではありません。完成を願う気持ちと、完成をあえて望まない当時の姿を思う気持ちが交錯します。
2020-10 セピア色の旅の記憶-2 スウェーデン
シベリア鉄道経由で、憧れのヨーロッパへ。最初の地、フィンランドから第一の目的地、スウェーデン到着。当時は、日本から持ち出せる外貨に厳しい制限があって千ドルと決まっていました。一ドル360円の固定レートの時代です。千ドルで一年旅行が出来るわけありません。しかも,当時のソ連経由の旅ですから、100ドル以上が、既に消えているわけです。
ストックホルムに着くなり、求職のスタートです。駅近くの宿泊案内所で、まずは宿の確保です。次に仕事探しです。おおらかな時代で,国際学生証を持っていると短期間の滞在許可証と労働許可証は、仕事先を見つけると、問題無く下ろしてもらえました。まず大手スーパーの会社を訪れ,面接で社員食堂への配属を告げられました。昼食時の片づけの仕事です。社員がどんどん入って来る1時間は、目の回るような忙しさでしたが,後はのんびり仕事ができます。ひと月ほど続けると、大学生が夏休みのため、地元学生のつてで、開放された学生寮を借りることが出来ました。10階建てで、各個室、フロアーごとの共同キッチン、シャワールーム、地下には、洗濯機、乾燥機が並んでいます。日本での学生生活よりずっと快適でした。馴れてきたので,紹介で夕方から市の中心部のレストランの皿洗いのバイトも始めました。定期券を買って、週末も休みが無くなりました。土、日曜日は、時給が1.5倍、夜遅くは2倍になります。レストランですから、夕食も自前で払わなくて済みます。全然お金を使わない1週間、次の旅の資金は想像以上に稼げました。ただ昼も夜も働いて、週末もとなると少々疲れを感じて2ヶ月で仕事を辞めて、スウェーデンを離れることを決めました。
ストックホルムに滞在して,最初に驚いたのは町が近代的で、全体が実に清潔だったことです。夜12時なると地下鉄駅は、洗剤できれいに洗われます。もうひとつ1971年に既に大きな駅には、エレベーター、エスカレーターが有りました。地下鉄の駅に向う人は,次の人が見えると扉を押さえて待ってくれていました。なんて素晴らしい国なんだろうと思いました。市の中心部には,真新しい国会議事堂があって、中心部は開発真っ最中、国会の地下には図書館が併設されていて,音楽も自由に聞くことが出来ました。始めのころは、週末ドボルザークを第一楽章から順番に聞いていました。当時、ノーベル賞も日本人は文学賞の川端康成を含めてまだ3人でしたから、市庁舎を訪れる人も少なく、私は建築が専門ですから、設計者のラグナーヨストベリの市庁舎を隅から隅まで時間があると歩き回っていました。学生の時、父の元上司のお宅にお邪魔した時、見せてくださったヨーロッパの建築という古い本に北欧で唯一載っていたのはストックホルムの市庁舎でした。
オールドタウンも,なれると道に迷うことなく歩けますし、日本との文化の違いを堪能していました。当時は、どこを歩いても理想的な国に思えました。
時を隔てて、訪れるとストックホルム市内は、落書きが目立ち、地下鉄も、日本の駅の方がきれいとさえ思えました。若者がこぞってアメリカナイズされることは、どこの国でも同じことですが、ベトナム戦争でアメリカも傷ついて、若い世代の新しい世界が生まれるかと期待した結果が、同じ歴史の繰り返し、空しさを感じます。
2020-09 セピア色の旅の記憶-1 ドイツ
ここまでコロナウィルスが、出張を不可能にするとさすが、新しいフィンランドの話題と写真を、見つけることが出来ません。少しくフィンランドを離れて、遠い記憶のヨーロッパを振返ってみたいと思います。今から50年近く前、貧乏人の定席ルート、シベリア鉄道経由で、憧れのヨーロッパへ出掛けたのは、大学2年生を終えて休学して、大陸の空間を自ら感じ取りたかったからです。今でも鮮烈に覚えているのは、当時西ドイツのケルン中央駅で下車して、駅前というか、駅そのものにケルン大聖堂がそびえ立っていたことです。京都駅に清水寺がくっついているような衝撃でした。歴史と生活が違和感なく繋がっていることへの文化の違いを見せつけられた感じです。
次の衝撃は、東西ベルリンです。国境を接するのではなく、東ドイツの中に西ベルリンが存在しているというのは、実感としてピンときませんでした。私は、ヒッチハイクで西ベルリンに入ったので、車のトランクは、当たり前で、大きな鏡で車の下、ボンネットの中までチェックする検問の凄まじさを見て初めて、NHKのニュースの東西ベルリンが頭に入りました。西ベルリンからの東ベルリン見学の更なる検問、地下鉄が、薄暗い東ベルリン駅間は止まらず通過すること、その駅には銃を構えた兵士の存在、明るいイメージは皆無でした。ペルガモン博物館見学の後、素朴なアイスクリームが、とてもおいしかったのを覚えています。
ベルリンの壁が崩壊してから私は、4度ベルリンを訪れています。直後に出かけた時は、異次元の時代が突如くっついた感じでした。地下鉄Uバーンは、新旧混在駅でしたし、Sバーンの駅舎は空爆を逃れてかろうじて残っているようなものでした。どう見ても賢いドイツ人が考えることでは無いと思いました。フィンランドで、仕事を終え日本へ帰る機内で、隣の席は見るからにいかついビジネスマンというドイツ人でした。私は、質問してみました。東西ドイツが一つになったことについての感想でした。彼は、壁の崩壊をテレビで観ていて、涙が止まらなかったそうです。どう見ても泣きそうな感じの方では有りませんでした。昨日まで、逃亡者は容赦なく射殺していたのは、憎しみではなく、体制維持の職務と割り切ってのことだったのでしょうか。根底には、ドイツ国民という誇りなのか、自負なのかが延々と流れていたのかも知れません。少し違う角度からドイツ人を、見た思いがしました。
2020-08ステイホームではなく、本来の家族の過ごし方
コロナウィルスは、現代社会をあざ笑うかのように、おとろえる気配がありません。完熟したかのように言われてきた資本主義経済は、貧富の格差を是正するどころか広げるばかりです。ストレス社会は、外出自粛で個人に、さらにストレスを増長させ続けています。私が、40年以上言い続けてきた『フィンランド人のような生き方を、しませんか』を、今一度思い浮かべてください。
フィンランドは、世界的に教育レベルが高くて、高福祉国家です。私が生活していた1970年代と比べますと、生活が豊かになった反面、都市化は、どんどん進み、国際競争力が増すということは競争社会も生まれ、ストレスを抱える人も増えて、必ずしも憧れの理想国家ではありません。それでも、私がこの国にこだわり続けるのは、もちろんフィンランドが好きということは有りますが、長年付き合ってきた人々の優しさ、自然との関わり、素朴な生活の過ごし方ではないかと思います。身分相応な生き方、つまり見栄を張らず、肩の力を抜いて生きる。独立心の強いフィンランドでは、高校を出るとほぼ親に頼らず自立します。家族関係が、あまりにもあっさりしていて、日本人から見ると驚かされるほどです。私の親しい家族でも、日本的な家族は、1、2家族のみです。でも、子供が小さい時は、家族での移動が普通で、週末のコテージへ出掛けたり、長い夏休みには、コテージでの生活を満喫する、自然と親しむことをごくごく当たり前に過ごすのです。北国ですから、厳しい冬が訪れます。その時は、日本人がハワイへ行くよりも頻繁に、太陽旅行へ南の地中海、カナリア諸島へ家族で旅行します。昔から、今のLCCのような格安航空があって、1週間のホテル代込みの信じられないくらい安いツアーが溢れていました。
基本的に国民は、国を信頼していますから、老後の心配なく安心して、今有るお金を使って、生活を楽しみます。北欧のインテリアが優れているのも、家庭での生活を大事にし、家での過ごし方を知っているからではないでしょうか。
私の友人も随分現役を離れて、年金生活に入っています。驚くのは、大きな会社の経営者だったのに、仕事の未練ではなく、毎日、趣味に時間を使って生活できる喜びを実に楽しそうに、話してくれることです。
一日も早くコロナウィルスの収束を願いますが、今、改めて私は、『フィンランド人のような生き方、始めてみませんか』、と声を大にして叫びたい。家で楽しむこと、家族で生活すること、本来、一番日本人が大切に思っていたことではないでしょうか。
2020-07ガッレンカッレラ ミュージアム
EUが、7月 渡航を受け入れる国に日本も入りましたが、全面緩和の状況は遠く未だフィンランド出張の時期は見えません。先日、フィンランドに住む友人とSkypeでコロナの話をしていたのですが、少々気になる話題が有りました。現在ガッレンカッレラ ミュージアムが閉じているとのことです。私のコラムで以前、2004年6月に取り上げたこの季節絶好のお薦めスポットなのですが(興味の有る方は、古いコラムを読んでみて下さい)。何でも、国かエスポー市か解りませんが、遺族との話し合いが決裂して閉鎖状態だということです。
遠い昔、ヘルシンキ大学で学んでいた時、日本での学生時代と違って毎日、必死に勉強していた時がありました。週末だけは、息抜きに友人と散歩に出かけた青春時代の思い出の場所でもあります。
私の会社名でもありますHvitträskビタレスクは、同じくヘルシンキ中央駅、国立博物館の設計者であるサーリネン達の自邸、アトリエが、隣のエスポー市郊外にミュージアムとして、現在も財団管理で運営がされ、外国人のみならず自国民の歴史スポットとなっています。
ヘルシンキ市堺にあり、より地理的好条件の建物が朽ちることは、私には理解できません。フィンランド史を学んだ私としては、古き良き時代というより、独立を勝ち得て、多くの芸術家達を生んだフィンランドの民俗的象徴のような輝かしい時代の証の建築物でもあります。このような人たちがいたので、独立前の1900年のパリ万博でさえ、フィンランドという存在が知識階級の人々に認められていたと思います。その後、多くの世界的建築家の排出も、この歴史が物語っていると思います。フィンランドの叙事詩カレバラの地は、多くをロシアに割譲されてしまいましたが、カレリア地方の文化は、今もフィンランド人に受け継がれ続けていると私は信じたい。
この、コロナウィルスの蔓延が納まりフィンランド出張が、問題無く旅程を組めるようになりましたら、今一度、ガッレンカッレラの地を訪れてみようと思います。
2020-06 夏至 白夜祭( 夏至祭 )サウナ
未だフィンランドへ出張の予定がたちません。この季節の写真も新しいものが残念ながらありません。私は、週末ニセコに居ることが多いのですが、6月一人又やってきました。一人の時は面倒なので、室内の電気のサウナに入ることが多いのですが、この季節は、やはり外のサウナ小屋に火を入れたいと思います。フィンランド人は、夏至の週末は故郷へ帰る人が圧倒的に多いのですが、今年は、コロナで状況はつかめません。田舎の家々には、煙突から煙が昇り、サウナの準備が出来ていることが窺えます。今年最初の採れたてのビヒタも用意されている事でしょう。取れ立ての白樺の鮮やかな緑、オケの水にしたしてストーブの石に叩くように浸けるとさわやかな香りが室内に充満します。これが夏至のサウナの醍醐味です。新緑の葉のついた白樺の枝を束ねて作るのがビヒタです。白樺といってもフィンランドと北海道では樹種が大きく異なります。枝がしならない北海道の白樺は、ビヒタに向きません。そこで葉の若い小枝ばかりを集めて作ってみました。何とか1回は使えます。陰干しして保管した枝は、残念ながら使い物になりません。そこで、思いつきました。ニセコで、もう大木になっているフィンランド生まれの白樺の枝を、はしごを使って取ってみました。思った通りしなる、素晴らしいビヒタが作れました。
フィンランドでは、地方の公共のサウナはだいたい湖のそばに有ります。ですから、ほてった体を水に浸けるのは簡単です。ホテルのサウナもプールが付属しているとこが多いので水に入ることが出来ます。日本では、水風呂と称する物がついているのが一般的でサウナ通の常識になっているようですが、私は、この習慣に懐疑的です。心臓の負担が大きすぎます。そこで、足桶のお奨めです。サウナ室から出て、冷たい水の入った足桶に足を入れるのです。足の体温が体の方へ移動して代謝を感じることができます。心臓に余計な負担はかかりません。ドイツでは、スパのサウナに、各自が座って足を入れ、水を張って終わると栓を抜くという設備をよく見かけます。
サウナに入った後は、やはりビールがおすすめですね。フィンランドでは、小瓶のビールがスーパで普通に売っていますので、サウナ上がりに瓶ビールを普通に飲みます。私は、ニセコの屋外サウナは瓶ビールと決めています。北海道でも日の長い良い季節の始まりです。自然と親しみましょう。