2022-03フィンエアー直行便
2月のニュースで、当初3月を予定していた千歳直行便再開が、コロナの影響で遅れていましたが、7月再開との報でした。3年前は冬期のスケジュール便でしたから、夏スケジュールでは初めてになります。私としては、3年もフィンランドを訪れていないという異常事態でした。少々直行便にこだわっていましたから、待つつもりでした。以前、千歳―ヘルシンキ、チャーター便で飛んで以来の旅行です。そう思いながら、フィンエアーのスケジュールを見ていましたら、同じ7月から始まる羽田―ヘルシンキが、目に留まりました。仕事を終えて夜の便で千歳から羽田へ飛び、2時間ほど待って羽田からヘルシンキへ向かうと、ヘルシンキへ朝の5時半に到着です。夕方到着しても仕事になりませんし1日が無駄になります。これは有効に使えると、新しいスケジュールに感激していました。
ところがです。イギリス、オランダに続いてフィンランドもロシアの航空機の自国上空通過権を拒否しました。ウクライナへの暴挙ですから、当然のことですし致し方ないと思います。頭の中は、遠い昔のアンカレジー経由というルートを思い出しました。ヨーロッパへ出かけるには、北と南ルートがあって、お金のある人は、アンカレジー経由のヨーロッパ、お金に余裕のない人は、アジアの空港を乗り継いで、疲れ切ってヨーロッパへたどり着くルートです。私は、さらに安く行こうとシベリア鉄道を使ったり、アエロフロートの飛行機でモスクワ経由で何度もヘルシンキへ旅立っています。当時の飛行機は長距離を飛べませんでしたから、東京―アンカレジー8時間、給油をしてさらに8時間でヨーロッパでした。私もアンカレジー経由を二度ほど経験しています。
フィンランド航空は、日本就航に際して画期的な試みをしました。大型ジェット機DC-10をダグラス社へ特注で、DC-10ERを発注します。座席数を減らして13,000kmを飛行できる燃料タンクを増設しました。13時間半、北極点上空を通過してから南下してヘルシンキ空港へ着陸する画期的なルートでした。随分、このルートは利用しました。途中から、シベリア上空を通過する交渉が成立して、各社ヨーロッパ線は、シベリアを飛んで時間短縮が実現しました。フィンエアーも新しい飛行機で、飛行機の性能も向上して9時間半で、ヘルシンキに着くようになりました。冷戦の終結は、良い結果をもたらしたと思っていました。
愚かな懐古主義的指導者の出現が、歴史を無理に引き戻しているのでしょうか。ローカル空港になった、アンカレジー空港が再度脚光を浴びるとは思ってもいませんでした。コロナで落ちこんだ航空関係各社が、再び別の試練にさらされるとは、大変な事態です。私は、1968年のプラハの春を今でもしっかりと覚えています。指導者が変わっても、同じ愚策を繰り返すロシアを私は許すことができません。今は、ただウクライナの人々が一人でも命を落とさず生き延びることを願うだけです。
2022-02 コテージ屋根の雪下ろし
今年の冬の雪の多さには閉口します。ニセコのシルバーパインのコテージは、今年3月で築31年になります。竣工時を除いて、年一度の屋根の雪下ろしを30年延々と続けてきました。毎年1月下旬に、友人に召集をかけて10人以上の人員でひたすら屋根の雪を下ろします。構造的には、積雪に耐えると思いますが、室内のドアが閉まりにくくなったり、雪庇がどんどん伸びたり不安になります。何せ屋根面積だけでも200M2を越しますので、単純に控えめに1.2M積もったと計算しただけで、積雪荷重が50トンになります。
毎年、メンバーは大きく変わることなく集まってくれます。当別町からトラックで大きな除雪機を運んできてくれる貴重な一人は下で、上から下ろした雪をひたすら大型除雪機で、朝から夕方まで飛ばします。幸い敷地に余裕がありますので、雪の処理に困ることはありません。数年前までは、屋根の断熱が悪く、恐ろしく大きな氷柱ができていて、その片付けに時間を要しましたが、屋根全面を改修して氷柱もわずかにできる程度になりました。朝から屋根に登って、雪をスコップ、ママさんダンプ等で、ブロックに分かれてひたすら雪を下ろします。雪下ろしを始めた数年は、土曜日と日曜日、2日に分けて除雪をしていたのですが、要領が良くなったのと、次の日では下ろした雪が硬くなって大変なので1日で一気に終わらせて、夜の宴会へと進みます。以前は、夜間スキーへ出かけたりしていましたが、メンバー年を重ねて無理はできなくなってきています。屋根の雪下ろしは、母家だけでなく、サウナ小屋、バーベキューハウス、物置と何棟もあります。片付けが終わったら、交代でみんなで外のサウナに入ります。この薪ストーブのサウナ小屋は、フィンランド人が、絶賛するレベルの素晴らしいサウナです。かなりの重労働ですから、皆さん体中痛くなっているのですが、サウナの後は、気持ちも軽く、会話も、お酒も弾みます。
昨年は、コロナの影響で皆様に集合をかけることができず、2,3名単位で屋根の雪下ろしをしたのですが、締まった雪で岩のように硬く、アルミのスコップは全然歯が立たず、くたくたになっても全然捗らず、週末に限って、雪下ろしだけで8週を要しました。今年もなんとか終わりましたが、建物を維持するということはいかに大変なことか痛感しています。
ただ、2月が過ぎましたら、雪も落ち着きますし、今年のゴールデンウィークには、コロナも落ち着いて、コテージでの友人との楽しい会話が復活することを望んでひたすら又、週末の除雪に励みます。
2022-01 Jukka
年末も近づき、使わなくなった子供たちのロッカーを整理がてら、片付けていたら懐かしい玩具の箱が二つも出てきました。フィンランドの木製玩具の老舗で90年以上の歴史を持つJoho Jussila社のものです。子供の顔にJUKKAのマークです。Jukka-taloの愛称の組み立て式の各種本物のようなログハウスです。
住宅、サウナ小屋、倉庫、風車の4種類があります。現在製作されていませんから、ありましたでしょうか。フィンランドには、住宅メーカーで 同名のJukka-taloという商標の会社が存在しますが、これとは関係ありません。
我が家の棚に今も並んでいるのは以前、子供が小さい時、フィンランド出張の時、年に何度も出かけるので、毎回何を買おうかと迷って、探し当てお土産に買ってきたものだと思います。
素朴な木製玩具が色々あって、私のImatra(イマトラ市)の友人は、長男が汽車を好きなのを知っていて、プレゼントにいただいた列車などがあります。結構大きなものですが、機関車、客車、貨物の3両からなっていてカラーですが、木独特の素朴さを漂わせています。
フィンランドは、そもそも木材の使い方が、上手ですが、子どものおもちゃにもその優しさが伝わってきます。今、子供たちのおもちゃというか遊具は、ゲームだったり、自然との関わりから遠く離れた世界に移っていますが、これは、多分フィンランドにおいても同じだと思いますが、木の感触、素材に触れる生活を子どもの時から味わってほしものです。
2021-12 クリスマスプレート
イアーズプレートというと、一般的にロイヤルコペンハーゲンの100年を超える歴史を持つ深い青色のプレートが有名だと思いますが、アラビアのイアーズプレート、特に私はRaija Uosikkienのクリスマスプレートが好きで、1989年までの12枚のシリーズに何気なく興味を持ちました。古い街並みのデザインと色が気に入って、私は1987年から買い始めたのですが、わずか3年で、このシリーズは終わってしまいました。クリスマスが近づき、意気揚々とエスプラナーデのアラビアのショップへ出かけたのですが、作風がガラリと変わって、現在のフィンランドの田舎の風景になりました。小さなもみの木の横に斧を持って子供を待つお父さんは、一瞬ドキッとしました。キューブリック監督の映画シャイニングの世界ではないかと思いました。フィンランドの田舎の家庭では、随分前は、近くの林からクリスマスツリーに似合う、もみの小木を切って室内にセットしました。車の屋根に乗せて運んでくる人もいました。もちろん、そんな田舎ではなかったり、手に入らない人のために当然のように、シーズンは、朝市等でも売られていました。
現在、フィンランドのクリスマスがどのようになっているか、コロナのせいで3年ほど行っていませんので分かりませんが、昔は、地方行きの列車が夜には止まってしまうぐらいでしたから、ヘルシンキの町はみんな地方へ帰って閑散たるものでした。田舎に知り合いがいなければ、観光客でさえ寂しい季節だったと思います。
クリスマスプレートですが、新しいToveSlotte-Elevantのデザインのものを8年ほど買いましたが、飾るところが無くなったのか、またデザインが変わったのかよく覚えていませんが、いつの間にかやめました。私は本業が設計事務所ですので、私の設計させていただいたお宅には、必ず完成年のアラビアのクリスマスプレートあるいは、フインランドの叙事詩kalevaraのイアーズプレートをお届けしていました。みなさん、自宅をお建てになるときは、もちろん真剣ですが、時間が経つと、何年に建てたか、結構記憶が曖昧になって来ます。それと建築年を確認していただくことで、メンテナンスの必要な時期を、再確認していただけます。大金をかけた、マイホームですから、北欧の人々のように我が家に愛着を持って生活していただきたいものです。私の、ニセコのコテージにも、もちろん1991年のクリスマスプレートがログの壁にかかっています
現在、北欧は暗い、寒いよくない季節ですが、クリスナスシーズン到来で、街にはイルミネーションが輝き、クリスマスセールで、人々の表情は明るさを増すと思います。コロナが季節とともに去りゆくことを願って、1日も早くフィンランドの地を踏めることを祈ります。
2021−11アアリッカaarikka
以前は、フィンランドを訪れるたびに、ヘルシンキのエスペラナーディのアアリッカの店へ必ずと言って良いほど顔を出しました。お土産には、スペースを取らない小物も多く、決つして安いとは言い難いのですが、木の温もりを持ったセンスの良さを感じていました。昔はよく木のイヤリングを買いました。フィンランドでは、ピアスが普通でしたが、日本ではまだ多数派ではなかった時代、ピアスでないものを選んで買っていました。デザインが奇抜で、お土産にプレゼントすると、みんなに結構喜ばれました。アアリッカは、木の素材を生かして、動物、鳥も多くデザインされています。今もあるかどうかわかりませんが豚の貯金箱はユーモラスです。トナカイ、鶴、カラス、小鳥のデザインは、置物だけでなくナプキン立て等数多くあります。最も有名な動物は、体が木玉で覆われた羊でしょうか。色々なサイズ、木目、白、黒とカラーも選べます。小さいものでも結構高額です。
以前、ゴルフ場関連の仕事をしていまして、そのゴルフ施設のコンセプトがフィンランドでしたので、多い時には、年に10回フィンランドへ出張していました。オーナーが、ゴルフ場の竣工祝いに、工事功労者にフィンランドのものをプレゼントしたいということになり、アアリッカの一番大きな羊を送ろうと提案されました。アアリッカの店舗にさえ一台置いているかいないかの数でしたので、ヘルシンキでショップを経営する友人に頼んで直接アアリッカと交渉してもらいました。さすがに、アアリッカもあの大きさの35個という単位の注文は、初めてだったそうです。友人の努力のおかげで無事、日本に到着しまして、みなさまへお渡しすることができました。オーナーから、私へも大きな羊のプレゼントをいただき、今でもニセコのコテージに、場所を取りすぎるので、設置箇所に悩み最終的に冷蔵庫の上に、黒い大きな羊が飾られています。自分で会社を始めて、40年近く経ちますと、何げなく買ったアアリッカの品々が、我が家にも溢れていることに気がつきました。
新聞の記事にフィンエアーの千歳―ヘルシンキ便が、3月末、夏期スケジュールから再開というニュースが載っていました。フィンエアーのホームページでは、4月便からになっていましたが、いずれにしても少し明るい方向になって来ました。フィンランドと関わって、一年どころか、こんなに長い間訪れなかったことはありません。少し、浦島太郎の気分です。
2021-10 Iittala kylä Iittala-(ガラス)村
今回のイイッタラ村は、Hämeenlinnaの北にあるイイッタラの工場のことではありません。1987年から始まったガラスの塊で作られた家々の村のことです。最初手に取って面白いと思いながらも、重さ(600g以上あります)と価格の高さに最初は躊躇したのですが、年に一度の買い物ならよいかと思い、1991年まで毎年買い続けました。毎年限定3000個とのナンバーリングが打たれています。ちなみに私のは、若い番号で1987年の283番、1991年ので2121番です。その後、なんで買い続けなかったのか、終わってしまったのか記憶は定かではありませんので、結果はどうなったか知りません。ただ、我が家の食器棚には、地震の被害に遭わず整然と並んでいます。
Iittalaのグラスは、世界的に有名な工業デザイナーTapio Wirkkala、Timo Salpanevaが黄金期を築き、あまりにも有名ですが、1970〜80年台に活躍したJorma VennolaもIittalaのグラスを語るには欠かせない存在です。グラスではないガラスの家は、彼の作品です。
グラスでは、多角形のKuusi(樅)が有名です。フィンランドは、森林王国ですが、樹種はパイン(欧州あか松)の次に樅が建築材料に多く使われています。クリスマスに朝市で売られているツリーは、このkuusiです。このkuusiのシリーズは、6本のもみの木が並んでいます。ちなみにフィンランド語の数字6もクーシです。キャンドルスタンドも色々な大きさのものも作品として残されています。もちろん現在は、作られていませんが、グラスが多角形という性格上、角にひびが入ることがあります。致命的なダメージではありませんので、私は使い続けています。
Jormaは、コンビネーションに優れた人で、グラスの取っ手に取り外し可能な金属を使ったコーヒーグラスもデザインしています。私は、同じデザインの大きなピッチャーに果物、ワインを入れパンチを作り、ピッチャーの周りにこのグラスを何個も掛けて各々のグラスとしてパーティーを楽しんだりしました。またグラス部分をを取り替えてビールからワインまで楽しめる色違いのプラスチックの台など素晴らしいアイデアの持ち主でした。
私が、今でもニセコのコテージで使っているエッグスタンドは、ヒヨコのデザインです。これにゆで卵を乗せると、それだけで楽しくなります。北欧を旅した時、ホテルでは必ず茹で時間の異なる、ゆで卵がエッグスタンドと共にセットされています。昔、スプーンを使って器用に上の部分だけをカットしてスプーンで卵を食べる北欧の人々のスタイルに感心したことを覚えています。このヒヨコのエッグスタンドは、そんな懐かしい思い出さえも、朝食の時に蘇らせてくれてもいます。
2021-09 ムーミンMoomin
今までムーミンについて書いたことはほとんどなかったと思います。日本にいたときは虫プロのアニメ、ムーミンを楽しくテレビで見ていた程度の記憶です。最初に訪れたフィンランドの時もムーミンは脳裏にありませんでした。次にヘルシンキ大学へ留学を決めたときも、頭は建築の知識以外あまり興味を持っていませんでした。大学で、たまたま同時期留学の同級生の女の子が、童話作家を志していて、ムーミンを称賛していました。日本でブームになっていた割にはフィンランドでは静かなものでした。フィンランド最大の新聞Helsingin Sanomatヘルシンギンサノマトには、確かにムーミンの漫画が連載されていました。この年1974年、ムーミンオペラがヘルシンキ中央駅すぐ右横の、国立オペラ劇場、現在の国立劇場(当時は、現在のTÖÖLÖ湖沿いのオペラハウスが存在していませんでしたので)で初演されています。私は、友人に誘われて子供のためのムーミンオペラを、Bulevardi通りにあるアレクサンテリン劇場で、大勢の子供の中で楽しく観たのを思い出しました。甲高いミーの声がやけに耳に残りました。
自分で仕事を初めて、毎年フィンランドを訪れるようになった頃、家族全員のムーミンのマグカップを揃えました。各人の色を決め、朝食の時はマイカップで食事を楽しみました。現在は、ニセコのコテージの食器棚に収まっていますが、トーベヤンソン自らのデザインのムーミンマグカップですので、信じられないネット価格がついています。そんなこととは関係なく相変わらず普通に使っています。
ムーミンの人形、ムーミン谷の家も自宅の棚に収まっています。地震でグラスは、随分割れましたが、幸いムーミン一家、住まいはなんの損傷もなく全員無事でした。さすが、アラビアの陶器は丈夫です。
我が家のトイレの壁には、ムーミン達のプレートが掛かっています。フィンランドを訪れたとき、楽しそうなので買おうと思いましたが、枚数が多くて重くなりすぎるのと、価格が高すぎました。別の店で見ると、1種類だけセールをしていました。さっそく1枚を買うことにしました。次回訪れた時に別の1枚と買い足していましたが、残念ながら13枚、大中小のプレート途中で生産中止になり全プレートを飾ることは、できていません。特にフローレン(ノンノ)のプレートがありませんので、ムーミンが寂しがると思いますので、次回フィンランへ出張の際探すことにします。
2021-08 アラビア・ヌータヤルビ
2018年、胆振大地震では、我が家も大きく揺れて倒れこそしませんでしたが、食器棚の扉が開いて半分近く、長年、出張のたびに買い揃えていた大切なフィンランドのグラスを失いました。床一面、ガラスの海と化しましたが、幸い誰も怪我せず、特に愛犬がそこに居なかったのには安堵しました。片付けを終えると、乱立していたグラスの棚がすっきりして、グラスを各々きちんと見ることが可能になりました。
フィンランドのグラスを揃え始めたのは、留学時代はそんな余裕がなかったので、出張で訪れるようになってからだと思います。当時、少しワインに凝っていて、私好みのワイングラスがなかなか見つからず、重厚でないシンプルなデザインの、特に赤ワイン用のグラスをずいぶん探しました。そこでアラビアのガラス部門のNuutajärviのワイングラスに出会いました。赤、白各ダースは、ゆうに超えて揃えましたが、これも半減してしまいました。
年に何度かフィンランドを訪れるのですが、必ず仕事で向かうのはヘルシンキから西へ120kmに位置する、ロイマー市という小さな町です。かれこれ、30年は通ったでしょうか。行きはトゥルク方面への高速E18を走りますが、帰りはいつも内陸の国道E63、高速E12を使いヘルシンキへ戻ります。帰路は、イイッタラの工場に立ち寄るのが目的ですが、時々少し道を逸れてヌータヤルビにも立ち寄ります。イイッタラに比べたら小さな工場ですが、現在でもアート作品等制作していますが、イイッタラに併合されてからは、過去のグラスはもう生産を終了しています。ショップは併設されていますが、アラビア、ヌータヤルビというブランドさえイイッタラと混同して訳がわかりません。
秋から冬になると、アイリッシュコーヒーの似合う季節になります。私は、いつもフィンランド出張の折、定宿のホテルのバーで飲んだ後は、このコーヒーを飲んで部屋へ戻るのを常としていました。ニセコのコテージでも、寒い季節は、来客にアイリッシュコーヒーを振る舞います。そこで、活躍するのが、もう一つヌータヤルビの好きなグラスである細長いコーヒグラスがあります。アイリッシュコーヒー専用グラスとして重宝しています。上にホイップクリームをフロートさせた後の飲み口が絶妙で、お気に入りです。ただ数をあまり多く持っていませんので、コロナが明けたら、アンティックショップを探して見つけようと思っています。毎年作っているフィンランドの景色の卓上カレンダーの写真も使い果たしましたので、写真アングル考えながら動かなくてはいけません。やらなくてはならないことが、まだまだあります。2年間行けていない友人の墓に、日本のウィスキーも添えなければなりません。
2021-07 本場の白樺 ビヒタ復活
6月、ニセコ、サウナ小屋横の2本の白樺の大木を1本伐採しました。大きくなりすぎて万が一倒れてきて、建物を痛める恐れがでてきたからです。というのも、この滝台地区はニセコでも風の少ない場所だったのですが、開発が進んで、裏山にも手が延びてきました。秋には落葉がたくさん取れたカラ松林が見事に消滅しました。結果、裏の2本の栗の木の枝が、秋の強風で無惨な姿になりました。よって伐採を決めました。この白樺、25年ほど前、帯広の造園屋さんが、タネから育てたフィンランドの白樺、1メートルほどの苗木を分けてもらったものです。周りにも白樺はたくさんあるのですが、秋、白樺が葉を落としても、この2本だけは遅くまで葉をつけていました。こんな寒さまだまだと言いたげの姿でした。
今、空前のサウナブームですが、サウナに使う白樺の枝葉ビヒタ、日本の白樺は枝が硬くて使えません。若葉で何度も試しがしたが、すぐダメになり香りが今ひとつです。そこで、フィンランドからビヒタをコンテナに入れてみましたが、枝葉のついた木材は、規則で燻蒸しないと輸入出来ません。渋々規則に従うと、パサパサになり叩くと葉がほとんど落ちてしまいました。
フィンランド、田舎では夏至にもサウナに入ります。薪ストーブのサウナにはビヒタが必需品です。5月の第三金曜日に取ったビヒタが一番葉がが良いとか、色々伝授されました。そこで今回、伐採した白樺からビヒタを作ろうと思いました。大木なので枝の多さに閉口しました。気を取り直して20本ほど、作りましたが、終了です。翌週大雨が幸いして、また少しビヒタに使える枝葉が残っていました。早速、外のサウナ小屋に火を入れ使ってみました。枝のしなり、香り、完璧なビヒタです。
今回、今更分かったことは、陰干しの重要性です。日の当たるところに吊るすと、葉がすぐ茶色になってしまいますが、日陰で保存すると葉の緑色が持続されることです。ワインセラーにも置いてみましたが、湿度があってまずいかと思いましいたが、緑を保ち、室内が白樺の香りに包まれていました。
伐採した、フィンランドの白樺のおかげで当分、ビヒタには不自由なく外のサウナを楽しめそうです。早くコロナのワクチンが行き渡り、蔓延防止の地域がなくなり、ニセコのサウナをみんなで楽しめる季節の到来を切に望みます。渡航制限が解除されて、再び、フィンランドを訪れる日を心待ちにしています。
2021-06 ARABIAアラビアの食器
二年前の4月、(思い起こすとフィンランド関わって2年以上フィンランドを訪れなかったのは、1974年以来、初めてです。)アラビアの工場跡地のイイッタラのショップに足を伸ばしたとき、面白いコーナーが目に留まりました。新製品ではなく懐かしいアラビアの品々が並んでいました。不思議に思って尋ねますと、家庭で使われていた食器の販売でした。不要になったコーヒーカップ、プレート等を使用者が持ち込み、廉価で販売代行をしているとの事です。一時のイベントのつもりが、評判がいいので持続するとの事でした。よい話を聴いたと思い、時々このコーナーを尋ねてみようと思いました。それが、想像をはるかに超えるコロナの蔓延、イベント自体が持続しているかどうかも解りません。
私が、ヘルシンキの大学へ留学を決めたのが1974年、学生寮に落ち着いたのが、夏でした。早速、まず食器を揃えようと知人の伝手でアラビアの工場へ向かいました。迷う事なく、セカンドメイドから物色しました。パラティーシのマグカップとカイラ のスープ皿、平皿、コーヒーカップです。1972年から1979年に販売されていたAnja Jaatinenのデザインです。KAIRAとはラップランドの荒野のイメージだと思います。黒、こげ茶、紺色の直線のシンプルなデザイン、もちろん工場では、職人が一つ一つ手書きで製作が行なわれていました。ですから、一枚の微妙な違いが味でもありました。とても気に入っている食器なので、 今でも時々使っています。ただ、枚数が少なく、食洗機で洗うのでよく見ると、傷だらけです。もう少しカイラが欲しいと思っていたので、絶好の機会を捕えたと喜んでいたのですが、ショップを訪れる機会はいつになるやら。
アラビアの食器の優れているところはともかく丈夫な事です。特にこの時代のは肉厚です。余談ですが、パラティーシは現在でも人気があり白黒、カラーシリーズが販売されていますが、プレート、コーヒーカップの裏を見てみてください。時代ごとにARABIAのロゴは変わっていますが、決定的な当時との違いは、裏側のデザインがカラーでない事です。当時のものは鮮やかな表と同じカラー仕上げです。
アラビアの親会社は、バルツィラといって北欧きっての造船会社でした。社風が面白くて、船で使うものは自前で作る主義でした。陶器で言うと食器から便器までです。船舶エンジンから、陶器迄作る発想は実に面白いと思います。揺れる船の中でも支障なく使えるのですから、丈夫なわけです。
造船業はもちろん、今でもヘルシンキで客船から砕氷船まで、作られていますが、親会社は他国に移り、当時の栄華はありません。陶器のアラビアも名前こそ残っていますが、イイッタラの傘下で、あの時代を生きていた私は、懐かしさの感慨と同時に切なさを覚えます。