2023-12 ヘルシンキ中央駅
テレビ欄を見るとBS1で、かもめ食堂の再放送をしていました。先月観に行ったアールト同様、小さな映画館で随分前に見たのですが、その時も、そんなにこの映画が流行るとは思わず、すぐ上映が終わるかもしれないと、初日に見に行ったものです。その次のテレビ欄が目に止まりました。ヨーロッパ発駅ロマン、ヘルシンキ駅と書かれていました。早速録画して夜遅くに見ました。駅の花屋さんがメインでしたが、徴兵の見送りのカップル、徴兵時期を振り返り思い出すカップル、駅の別れ等が映し出されていました。ヘルシンキ駅は典型的な終着駅ですから、旅情をくすぐります。線路は、ロシアを除くと直接ヨーロッパとは繋がっていません。私は、残念ながら、この駅で人を見送ったり、出迎えた記憶はありません。ただ、シベリア鉄道を経由して、初めてのヨーロッパ到着が、ヘルシンキ駅でしたから、もちろん人一倍感慨はこの駅には、あります。当時は、大屋根もなく、吹きさらしのホームでしたが、新たな世界が広がる緊張と、希望に満ちた一歩でした。
広大な貨物ヤードがなくなり、新しい建物が立ち並び、駅の周りもどんどん変わっていきますが、この駅舎と、正面玄関から出た時の空間と、目の前に映る建物の変わらぬ存在感には、ホッとさせられます。大学時代、学生寮と大学の通学にはよく、この駅を利用しました。たった一駅の利用でしたが、車窓の風景は、今でも鮮明に記憶に残っています。通学定期は、とても便利で市電、市バス、鉄道も利用可能でした。その日の気分でいろいろの交通機関を利用していました。
現在は、ヘルシンキ空港とも直結され、ループではありませんが、右回り、左回りのルートで空港へ向かえます。ホームと並行に連なっていた鉄道会社の建物は、現在改装されホテルになっています。ホテルの部屋の窓からホームが見渡せるなんて、鉄道ファンにはたまりませんね。この建物も駅舎同様、私の大好きなエリエル・サーリネンの設計ですから、なおさら、次回訪れるときはぜひこの、HOTEL GRAND CENTRALに宿を取りたいと思います。
ヘルシンキ駅で、クリスマスの思い出は、日本へ帰って会社勤めをしていた時のことです。フィンランドのクリスマスを楽しもうと急きょ、旅立ちました。当時ですから、もちろん直行便はなく、モスクワ経由ヘルシンキ着です。空港から、ヘルシンキ駅へ向かい、最終列車に飛び乗りました。目的地は、友人家族の住むIMATRAでしたが、クリスマスイブは、長距離列車は、早じまい。国鉄が、休むなんて、そんなこと知りませんでした。200km走ったKOUVOLA駅で、「この列車はここで終着です」と降ろされました。どうしようかと、駅で途方に暮れていると、親切な方が、とりあえず我が家へどうぞ、ちょうどサンタクロースが来る時間だからと、招待してくださいました。フィンランドは、子どもへのプレゼントをサンタさんが自宅へ持って来てくれます。
電話帳を調べて、友人宅へ電話をしてくれたのです。友人は、120kmの厳冬の道を、迎えに来て来てくれました。また、120kmの道程を、ご夫婦で歌いながら、運転してようやくイマトラ市へたどり着きました。みんなが親切な、古き良き時代でした。
2023-11 AALTO-アールト
久々に映画館に、足を運びました。2020年フィンランド制作アアルトのドキュメンタリー映画が、11月末に札幌でも上映されたからです。北海道の建築家は、アールトファンが多いので、知っている方がいるのかなと思いましたが、年配の人は、わずかで、若いカップルが多数を占めていました。コラムで、何度も書いていますので、今更書くことはないのですが、思ったよりずっと良い作品でした。アールトを、特別賛美することなく過去の人ととらえ、反対者の意見も、インタビューでそのまま表現しています。建築家の目で捉えていないところも、必要以上に建築物にこだわってない所が新鮮でした。字幕と並行して、耳に入ってくるフィンランド語が、心地よく時代を遡らせてくれました。パートナーのElissaが、アールトが病院に入った時、看護師からEläkeläinen(年金生活者)かと問われて激怒したという話、すごく面白かったです。良きパートナーだったことが、想像できますし、仕事に対するパートナーのプライドなのでしょうね。ただ、私の多くの友人は、大きな会社を経営していても、あっさりと仕事を譲り、年金生活で、実に楽しそうに、釣り三昧、狩三昧をしています。これもまた羨ましい国です。
私個人は、フィンランド国内の多くの彼の、建築をみていますが、アールト氏とは、自邸のあるMunkiniemiで散歩途中の彼に挨拶をしただけの面識しかありません。
1976年、私が、両親のヨーロッパ旅行に付き合うため、ヘルシンキから船でストックホルムへ向かう時、友人が見送りに来てくれて、大きな声で船に向かってアールトが亡くなったと、知らせてくれました。一つの古き良き時代が、終わったと思ったことを覚えています。
私の友人が、ヘルシンキ市役所に勤めていました。フィンランドの、最新の建築事情を、彼女からいつも、いろいろ教えてもらいました。デンマーク出張中に突然倒れて亡くなったのですが、彼女は、アールトのエッセイとスケッチ集の復刻版を訳した本を2009年に出しています。吉崎恵子さんが、この映画を見てどんな感想を持ったか、聞いてみたい気がします。
2023-04 シベリア鉄道
4月は昔、旅立ちの季節でした。五木寛之の小説、『さらばモスクワ愚連隊』を読んでシベリア鉄道へ向かった人々。大瀧詠一の『さらばシベリア鉄道』ではないですが、1960年後半、先輩たちが、横浜港を出港して、シベリア鉄道の旅を続けて、ソビエト連邦との国境フィンランドのVAINIKKALA駅で信じられない厳しい検問を受けたのち、フィンランドの機関車に牽引されて、自由のヨーロッパの玄関口ヘルシンキ中央駅へ辿り着きました。
先日フィンランドの友人と電話で話をしたのですが、先駆者と言って良い人々の一人、以前VARKAUS市で指揮者をされていた方が亡くなったそうです。また一人、フィンランドと深く関わった先輩が旅立ちました。私も、70年代初めにシベリア鉄道に乗ってヘルシンキを訪れた人間ですから、過去形にさしかかっているのかもしれません。
長く続いた冷戦の時代にも、西側との架け橋として続いていたシベリア鉄道、ハンガリー動乱、プラハの春、力で東欧諸国を縛りつけた悪き時代、鉄のカーテンと言われた遮断された東西の時代もモスクワーヘルシンキは列車が走っていました。ウクライナ侵攻が始まったつい最近まで走り続けていました。
シベリア鉄道を、繋いで若者は、ヨーロッパへと旅立ち、東西ベルリンの壁を目の当たりに見て、ベトナム戦争しか知らない、マスコミ、アメリカの情報の世界観だけしか持っていなかったことに、初めて気づき、世界で起こっていることを、肌で感じて、自分で考えることの大切さを知りました。
小国のフィンランドに対して、一部の不勉強な政治家に、フィンランド化というソ連邦の属国のような揶揄する発言がなされたこともありますが、冬戦争において、現在のウクライナのように一方的な侵略を受けながらも持ち堪えたフィンランド魂SISUは、健在でした。今回のNATO加盟は、戦後理不尽な賠償を強いられ、それでも、1952年、賠償を終えヘルシンキオリンピックを開催し、あえて中立を保って来たフィンランドの生き方を、無視した狂気の沙汰のプーチンに、全ての責任があります。知ったかぶりのロシア擁護派は、論理的表現さえ欠けている人間です。戦後の日本が受け入れたのは敗戦ではなく、終戦という表現で、責任の所在をうやむやにして全ては、軍部の責任にしたように、全ては、プーチンの責任で済ませるのではなく、ロシア国民自身が責任を負わなければいけないという自覚がない限り、ロシアの歴史はまた繰り返すだけでしょう。
現在、シベリア鉄道ではなく、シベリア上空を飛べない状況、ヨーロッパの旅は長い時間を必要とします。今更、鉄路を使うことはないと思いますが、ロシアがウクライナ全土から一刻も早く完全撤退し、膨大な戦後賠償を自ら受け入れ、シベリア上空を今まで通りに自由に飛べる日が来ることを、シベリア鉄道を二度も経験した人間として、今度は空からまた、シベリアを眺望できる旅の再開を切に望みます。
2023-03 2月のニセコ大雪
2月に入ってからのニセコは、後半大雪、すでに終えた屋根の雪下ろしが、無かったかのようにこんもりと積もっています。1月末の雪下ろしで、異常な胸の痛みに不安を感じ、精密検査をしてもらったところ、労作性狭心症と診断されました。静かに生活するなら、生きていけるかもしれないと医師に言われました。私には、到底享受できる生き方ではないので、好まない入院ではありましたが、カテーテルによる手術を3泊4日で受けました。リハビリの自転車漕ぎも、息切れ、胸の痛みもなく、ことのほか順調でしが、これで、フィンランド行きは、またまた延期です。
ついでですから、食事の時、食道への違和感もあったので、胃カメラ等徹底的に検査してもらったのですが、心臓以外は全て問題なしで、少し安心しました。昔、インドへの旅で40日間滞在して、お腹一つ壊さなかった私ですから、やはり、胃腸はすこぶる丈夫でした。
冬場は、除雪のため、ほぼ毎週行っていたコテージへも、3週間ぶりの再開となりました。おまけに、ニセコ、想像を遥かに超える異常な積雪でした。門からのアプローチも、約1メートル積もっていました。術後、静かに生活していたので、当然体力は落ちています。幸い、長男が連休で札幌へ帰って来ていたので、力のいる排雪は彼に任せました。2泊しても、半分くらいしか除雪できませんでしたので、少し、弱気になって、コテージの維持管理に不安を感じました。体力が回復しても、今までのように動かないようにと、家族には、キツく言われています。建てて、32年を経過していますが、職業柄、メンテナンスを怠ったことはありません。フィンランドでも、数少ない特殊なログハウスなので、フィンランド人には、これは、フィンランドの文化だ、残さなくてはいけないと、人ごとなので気楽に言われています。私はフィンランドと関わって、52年になります。その証のような建物の維持は、続けなければなりません。多分、これが、私なりのフィンランドを表現する思い、フィンランドへの愛着だと感じます。いま少し、気落ちしていますが、雪解けとともに、活気を取り戻し、新しい試みを続けようと思っています。
2023-02 HAUTA巡り 旅の計画
3月末、夏季スケジュールからフィンランド航空、大阪便が週3便で復活するそうです。羽田、成田便を合わせて週14便でヘルシンキへ行くことができます。名古屋、福岡、札幌は再開の目処が立っていないみたいです。シベリア上空を依然飛べませんから、ヨーロッパ最短路線の強みは無くなってしまいましたが、私のように目的地がフィンランドの人には、ただ、時間が昔の13時間に戻っただけのことです。特に驚きはしません。
北欧で、私が訪れた時代のフィンランドは、本当に田舎でした。空の玄関口は、コペンハーゲンが、ダントツに大きく、ストックホルムも及びませんでした。北欧の翼は、デンマーク、スエーデン、ノルウェーのSASスカンジナビア航空でした。フィンランド航空は、DC-8のニューヨーク路線を唯一持つくらいの小さな航空会社でした。それが、DC-10で、北極点経由の東京直航便を開設して、ヘルシンキ空港をローカル空港から脱皮させました。規模をどんどん拡張して、北欧デザインの美しい空港に生まれ変わっています。便の乗り継ぎは、相変わらず短時間で済みますので、ロンドン経由の不便さを考えたら、依然、ヘルシンキ経由はお薦めです。
いっ時の、航空運賃よりは、下がり始めましたので、そろそろ乗り時かと考えています。でも、やはり3年というブランクは長すぎて、どうしても躊躇します。フィンランドへ行かなくとも、メール等で仕事は成り立っています。以前なら、工場のラインのチェックは欠かさなかったのですが、親友の社長が亡くなって、一緒に世間話をしながら工場を巡る時間も、あえて必要と思わなくなって来ています。届いたコンテナの中身を確認して問題がなければいいか、などと思っています。
フィンランドへ、出かける時、仕事抜きのスケジュールを組んだことはありません。今、思ったんです。仕事抜きで、フィンランドへ行ってみようと。
会社、工場へは、連絡を入れず、早朝ヘルシンキ空港に到着したら、乗り継ぎで、ロバニエミへ向かい2、3泊。古くからの友人と時間を気にしない会話を楽しもう。相手は、迷惑かもしれませんが。
ヘルシンキへ戻って、レンタカーを借りて、LOIMAA市の親友の墓地へ、ウィスキーの小瓶を持って3年の不義理を詫びようかな。次にLAHTI市へ向かって、老人介護施設へお邪魔して、クリスマスカードで亡くなったことを知らせてくれたお礼と、墓地の所在を、教えていただこう。ヘルシンキへ戻って、1974年からの知人で、ヘルシンキ市役所の都市計画を担当していて、最新のフィンランド建築事情を随分と教えてもらったり、私が、ヘルシンキ中央駅の設計者サーリネンが好きで、Nゲージの駅の模型を作りたいというと駅舎の図面を取り寄せてくれた、彼女の墓地も又、訪れなければいけない。
まるで、四国の88箇所巡りのような旅ですが、こんな旅も旅慣れた私には苦になりませんので、楽しく過ごせるかもしれません。
先日、ヘルシンキ大学の新しい図書館の記事を見ました。私の通っていた時代は大聖堂の横の坂道にドームような屋根がとび出たいかつい建物でした。古めかしくて、私は、結構好きでした。この新たな建物も是非みにいこうと思っています。古い学生証は、使用可能でしょうか?。いずれにしましても、少し楽しくなって来ました。旅の報告、乞うご期待です。
2023-01フィンランドでの新年
50年以上フィンランドと付き合っている私は、1月にヘルシンキを訪れたことは、10回をこしています。社員を連れての何度かの会社のフィンランド旅行は、仕事柄忙しくない冬を選びますので、必然的に1月になってしまいました。 元旦早々の出発は、いくらなんでも厳しすぎますので、大体2日、3日が定例でした。当時成田発のフィンランド航空は、札幌からの当日接続が無理でしたので、成田前泊が必要でした。時々成田山で初詣をしてからフィンランドへ向かうこともありました。
考えてみますと、私がフィンランドで新年を迎えたのは、学生時代を含めて3度程度だと思います。今も同じだとは思いますが、大聖堂の前でのカウントダウン、大統領演説、港からは、汽笛が鳴り響き空には花火が上がります。日本の信念とは、当然異なりますが、新しい年を迎える感慨は変わらないと思います。家庭では、馬蹄の形をした錫をスクープに乗せ溶かして、水の入ったバケツに注いで、その形から新年の運を占います。全てが真似事で、どれが正しいのかわかりませんが、見よう見真似で、フィンランド人のように新年を迎えた事を思い出します。
楽しかったフィンランドでの新年の記憶、一人孤独を感じて迎えた外国での新しい年を、どう生きようかと悩んだ時もありました。全ての関わりを、友人達に支えられ、50年の月日をフィンランドと関わって生きてこられたことは、今にして、幸せだったとつくづく思います。
コロナによって、ポッカリと空いてしまった時間を、どのように修復できるのか、未だ定かではありませんが、少しずつ、今更前に向かっていこうと思います。フィンランドにとっても、私にとってもロシアの問題を避けては通れませんが、非は、全てロシアにあります。マルクス、ガブリエルではありませんが、論理的説明を、できないものは、屁理屈以外の何者でもありません。
核の脅威に対処するという言葉を、散々使ってきておきながら、いとも簡単に主張が崩れ去り、前世紀の遺物のような社会に戻ることさえも阻止できない、現在の先進国と称する国々は、大戦を経て、何を学んできたのでしょうか。
理想国家など、あり得ませんが、フィンランドと長く付き合ってきて、根本的な政治への関わりの違いを感じずにはいられません。どちらが正しいとかではなく、どこへ向かうのかを、自分の意見として、見極めなければいけない時期に、確実に入って来ていると思います。
2022-12 クリスマスシーズン
クリスマスカードを友人に送る準備をしなければいけない季節になりました。会社を経営していますので、年賀状は毎年200枚くらい書いていましたが、仕事の規模も減らし、営業も手抜きになっていますので、年賀状も数年前からやめにしました。ただ、クリマスカードだけは、フィンランドの友人、会社関係へ送り続けています。取引先の担当者が、変わったり定年でやめたり、変化はあるのですが、毎年25枚くらいは送っています。できるだけ日本を感じるもの、札幌のイメージ写真等です。
一人、取引先を辞めて久しい人ですが、カードは送り続けていました。数年前から、代筆になっていましたが、昨年老人介護施設からカードが届きました。当人は、亡くなられましたとの添書きがしてありました。コロナのせいで、また一人、挨拶もできないまま、顔を見ることなく去ってしまいました。同時に、施設の方の心遣いに心温まる思いでした。毎年代筆をしてくださった方かどうかはわかりませんが、わざわざ知らせていただいたことに、今更フィンランド人の優しさを感じました。
私も充分、高齢になってきていますから、元気なうちにフィンランドへ行かなくてはと思います。幸い仕事の打ち合わせがありますので、足を少し伸ばすだけなので、主体が墓参ツアーにはならないと思いますが、現在、三カ所を訪れるのは少々大変かもしれません。長年フィンランドと付き合っていると、もちろん友人も増えますが、別れも増えるということに少々寂しさも覚えます。
クリスマスといえば、もちろんサンタクロース、サンタクロース村のある北極圏のロバニエミ市は、今年も賑わっていることと思います。ここも随分通いました。我が家の子供が小さいときは、ここから、サンタさんの手紙を送ってもらえるように手続きもしました。当時は、手数料もかかりませんでした。
私が、初めてフィンランドでクリスマスを迎えたのは、1974年学生生活をしていたときです。驚いたのは、家庭に本物の?サンタクロースが入って来ることでした。サンタさんが持っている袋の中には、子供たちの分だけではなく、家族のプレゼントも次々、出てくることでした。私の分まで用意してくださった、イマトラ市の家族には、今でも感謝しています。クリスマスには、友人は必ずご先祖のお墓参りをしていました。毎回連れて行ってもらいましたが、墓地もローソクが、クリスマスのようにいっぱい輝いていました。
その後、何回もクリスマスシーズンにも、フィンランドを訪れていますが、ストックマンデパートの子供のためのショウウインドゥの飾り付けは、続いているのでしょうか。3年も訪れていないと自分の頭の中のフィンランドが、遠い世界の出来事のように思われてしまいます。
フィンランドの田舎のように、ニセコの外のサウナ小屋に、火を入れてローソクの灯りで、クリスマスのサウナを楽しみたいと思います。
2022-11 忘れていたアルバムの思い出
築40年を過ぎた我が家、フィンランドからの留学を終えて、会社勤めをしながら、私が最初に設計をした住宅。かつての父の書斎は、長男の部屋になり、現在は娘の部屋となっています。私は、事務所が家の隣にあるのと、時差の関係で、夜でもコンピューターに向かうことが多々あるので、書斎を持ちたいとはあえて思わなかったし、書斎にこだわりは持ちませんでした。部屋の模様替えをしていた娘が、書棚に残っていた、忘れかけた古いアルバムを持ってきました。
タイトルは、1989年、『夏の鈴木家の北欧の旅』。当時私は、仕事が一番忙しい時代で、年に10回フィンランドと日本の往復を繰り返し飛んでいました。ですから、家族旅行には残念ながら同行できませんでした。話は色々聞いていましたが、初めてアルバムを見ました。私が、ヘルシンキ大学の学生時代、父が定年で、両親ヨーロッパ旅行の時は、パリまで迎えに行って、2週間ほど旅に同行したのですが、あえて遠い北欧には足を伸ばしませんでした。父にとっては、息子の学生時代を過ごしたフィンランドを一度は訪れてみたかったようです。
私も自分で会社を始めて仕事も順調でしたので、父が望むフィンランドへ家族が、休める夏休みを利用して両親、私の家族、姪が加わって北欧の旅行を決行しました。私は、切符の手配等をしただけで、フィンランドの友人を総動員しまして、スケジュールを組んでもらい、観光地を楽しく廻れたみたいです。アルバムを眺めながら行き先を、今更理解しました。ロシアとの国境近くのImatraイマトラ市では、親戚のように付き合っているグローン家が、駅までクラシックカーを2台チャーターして迎えに来てくださり、街の評判になったとは聞いていましたが、写真を見ると確かに、これは目立ったと思います。私が最初にこの地を訪れて感激した、フィンランド人に愛された建築家アールトのイマトラ市にあるVuoksenniska教会も、しっかり父を案内して下さっていたんだと皆様の優しさを感じました。
30年以上前の写真を眺めながら、飛行機のルートが、現在、昔の機内から撮った北極海上空の姿に戻ってしまっている矛盾を感じながらも、写真に写る父の楽しそうな笑顔を見ていると、全てにおいて、父に逆らって生き、心配ばかりかけていた愚息にしてみれば、足元にも及ばないけれど、少しは親孝行になっていたのかもしれません。
夏の写真を見ながら、夕暮れが日1日と早くなる晩秋の北海道からフィンランドを思い浮かべる今日この頃です。
2022-10晩秋のフィンランド
1年で一番フィンランドの旅に適さない季節がやってきました。唯一の朗報は、羽田―ヘルシンキ便が始まったことです。札幌を、朝一番でなく夕方の便で出発できることです。ターミナルの移動はありますが、夜中に羽田を出発して、早朝のヘルシンキ到着です。13時間半のロングフライトですが、シベルア上空を飛べない不便さにはフィンエアー就航以来、乗り慣れている私には、この時間慣れていると言っても過言ではありません。
50年前は、横浜を船で出発、ナホトカから一部鉄道を使い、ハバロフスク〜モスクワは、アエロフロートのII-62というリアに左右2機ずつエンジンをつけた国内線ソ連の旅客機経由、再び鉄道でヘルシンキでした。私は、これより古いソ連の旅客機Tu-114というターボプロップの4発ですが、8枚プロペラの飛行機で、ハバロフスクからモスクワへ飛んだこともあります。もちろん最終目的地はヘルシンキです。ですから時間を要することには結構、割り切れます。
ただ、早朝のヘルシンキ到着、すぐレンタカーで移動したい私にとってカウンターオープンまで、少々時間を持て余します。
札幌―ヘルシンキ便の再開を期待して待つべきか、でも長く待たされるなら、冬道の運転覚悟で出張のプランを立てるか、迷いどころです。
さらに、いちばんの問題は、丸3年のブランクは、私にも少々想像しにくく、知らない土地を、訪れるような不安がよぎります。ヘルシンキ市以外は、多分そんなに変化していないと思いますが、いろいろな心配事が次々とよぎります。ゆうに100回を数えるフィンランド訪問ですが、全てが過去形で、自分の培ってきた時間さえ遠い昔の出来事のような気持ちを感じています。仕事は、景気に比例して、決して多いとは言えませんが、メールのおかげで、仕事に直接響くことはありません。昔でしたら、Faxも機種によって速度の違いがあって、図面の詳細部が読みきれず、電話での補足を繰り返すことも度々でした。電話代が嵩むだけなら、フィンランドへ飛んで、打ち合わせをした方が早いということもありました。そんな忙しく、今思い返すと、がむしゃらに働いた時代もありましたが、メールで、図面もPDFで送ることによってほとんど問題を生じません。良い時代というか、物足りないというか、仕事に対する情熱も年齢と共に薄れてきているのかもしれません。でも人生の半分以上、関わったフィンランドという国に対する情熱は、薄れていないと思います。
コロナの行方と、体力とを鑑み、いま少し旅のスケジュールを考えたいと思います。
2022-09 新学期
日本と違って、欧米の学校は、新年度は9月始まり。日本の四季を考えると春から始まることを必ずしも否定しませんが、先進国というイメージさえ怪しくなってきた日本にとって、政治家を含めて国際感覚の著しい欠如のこの国は、教育に関してはそろそろ足並みを揃えて9月新年度を始めるべきだと思います。
遠い昔、日本の大学を卒業して、大学入学時のワクワク感とは別の感慨を持って日本を後にしました。初めてヨーロッパに旅立った時と同じルートをたどって懐かしいヘルシンキ中央駅に到着しました。友人紹介のお宅に2週間ほどお邪魔してから、宿探しです。当時札幌のフィンランド名誉領事館を訪れ、紹介状をいただいたフィンランド日本協会の会長宅に伺いました。お父様が、宣教師で北海道にもいらした方で日本語が堪能でした。ヘルシンキ大学の入学手続きは、まだ済んでいませんでしたが、どのようなルートかは、分かりませんが、学生寮への入寮手配を済ませていただきました。これで、秋からの住まいは確保です。1952年ヘルシンキオリンピック開催の国立競技場内にユースホステルがありましたので、ここをしばしの宿にしました。
先駆的フィンランド在住の日本人に何人かお会いして、いろいろアドバイスをいただきました。何の予備知識もなく、出かけた私ですから全てがぶっつけ本番でした。ヘルシンキ市民、あるいは学生証がなければ 市電、市バスの定期券は発行されないのですが、その方は、市の交通局と渡り合って、なんと定期券を取得してくれました。
今更、思い起こすと何と親切な、日本人、フィンランド人に巡り会えたことでしょうか。
留学生担当者との面接を終え、ヘルシンキ大学の入学許可がおりて、いよいよ第二の大学生生活の始まりでした。
現在、コロナの蔓延で大学生は、授業どころかキャンパスライフさえ楽しめていない大学生活だと思いますが、私の日本の大学生時代も学生運動が盛んで大学のロックアウト等難しい時代でした。ですから、それに嫌気が差して、休学して1年間ヨーロッパ、アフリカ、アジアを放浪して、日本へ帰りましたら、あまりの雰囲気の変わった大学に又、嫌気が差してひたすら卒業研究に没頭しました。ですから、いよいよ私にとって、遅ればせながらの楽しい学生生活の始まりでした。大学は、市内のど真ん中、大聖堂の広場を挟んで港を背に右が外務省、左が大学というキャンパスというイメージはありませんでしたが。
まずは、フィンランド語の勉強です。これも行ってみて初めてわかったのですが、当時の日本人の同級生?皆さんしっかりと日本でフィンランド語の勉強をしてきているのです。私は、大学書林のフィンランド語4週間のみの持参でした。赤尾の豆単(昭和のレトロ英単語)ならぬフィンランド語、英語、フィンランド語の豆辞書を片時も離さず持ち歩き、目に付く言葉を片っ端から調べました。卒業研究以来、こんなに机に向かったのは初めてです。軽い朝食、昼食は学食、夕食も学食という具合でした。
学生寮は、ヘルシンキ中央駅から一駅のPASILAパシラ駅下車、あるいは市バスです。当時は、ヘルシンキでは珍しい再開発の高層ビル街の地域でした。私の部屋は9階、キッチン、シャワー等は4人共用ですが、もちろん家具付き個室です。地下には、洗濯室、最上階はサウナも完備されていました。
現在、パシラ駅は小さな木造から、大きな階上駅に変わりヘルシンキ駅の貨物ヤードがパシラに移って、大規模な再開発が西地区でも行われています。
この地区も3年がたって随分変わっていると思いますので、訪れるのが楽しみです。現在、ヨーロッパ、オイルサーチャージが往復10万円ですから、今しばらく出張は見合わせたほうが良さそうです。希望としては、千歳発着のヘルシンキ便が再開してくれれば最高です。