2025-08 ユーレイルパス
8月は、遠い昔、ストックホルムでの2ヶ月間のアルバイトを終え、少し隣りのフィンランドを1週間旅して戻り、ストックホルムから、いざヨーロッパへの旅立ちの月でした。ストックホルムでは、最初アパートを借りていましたが、夏季、大学の学生寮が、2ヶ月貸し出されるという情報を得て、早速申し込み部屋を借りることができました。当時お決まりの、皿洗いの仕事を得まして、2ヶ月旅の資金を稼ぎました。最初は大手スーパーマーケットの社員食堂の昼食の片付けをしていましたが、チーフからもっと稼ぎたかったら王立公園横の、レストランの夜の仕事を紹介してくれると言われ、昼、夜働きました。土日は、夜の仕事だけなので、近くの市庁舎へよく行きました。今ではノーベル賞の受賞者の晩餐会で有名ですが、当時は観光客もまばらでした。私は、建築学科の学生でしたので、設計者のラグナーヨストベリを北欧の有名な建築家と知っていましたから、結構お気に入りの場所でした。
時には、土日の昼間も働き、レストランですから、食費も浮きます。さらに、土日は、時給が倍になります。かなり旅行の資金は貯まったのと、働きすぎで少々飽きてきました。ですから、8月の旅立ちは必然でした。
日本を出る時、父から3ヶ月のファストクラスのユーレイルパスを、餞別でもらっていましたが、まずは、ヒッチハイクからスタートしました。デンマーク、西ドイツ、東ドイツ、オーストリア、ユーゴスラビアと、ヒッチハイクの旅は順調でこのまま行くとイタリア、ギリシャに着いてしまいそうな勢いなので向きを変えて、各国のビザを取りながブルガリア、ルーマニア、ハンガリーと列車を使い、オーストリアからユーレイルパスを使い始めました。
日本を出る時は、初めての海外なので何も分からず、スーツケースでしたが、これでは身軽に動けないので、当時最新のアルミフレームのノルウェーのキスリングを買って、寝袋を括り付けての旅姿でしたから、車内で早速乗客に呼び止められました。君ここは、ファストクラスですよ。普通車両は後ろです。荷物は棚に上げていたのですが、若者の席ではないと思われたようです。当時、ヨーロッパの列車は、バカンス、クリスマスシーズン以外は、混んでいませんでしたので、コンパートメント車両の一室をほぼ独占できました。椅子を倒して、6席をフラットにしてシーツを敷きます。動くホテルの寝室完成です。
今は廃刊となった、トーマスクックの時刻表をかかえ、夜出発して、朝到着の都市を探します。スーパーで、夕食、朝食の買い出しをして、列車に乗り込みます。食事を済ませて、睡眠。朝、到着した駅で、リュックを預け、カメラの入ったショルダー一つで、夕方まで市内をひたすら歩き回りました。2日に一度はユースホステルに泊まり、シャワーを浴びて、洗濯。この繰り返しをして、ユーロッパ中を駆け巡り、3ヶ月のユーレールパスで、車中30泊で、旅を続けました。だんだんとヨーロッパの地図が頭に入り、パズルのように2つの都市を結べるようになりました。旅行中、長く泊まったのは、スペインのグラナダだけで、ほぼ、1泊2泊の旅でした。グラナダのアルハンブラ宮殿は、私の高校生時代からの憧れの建築で、1週間毎日朝から閉館まで通い詰めました。
この年、ニクソンショックでドルが暴落、アメリカ、カナダの若者の旅行者はドルの両替ができず、何日も銀行で待っていたようですが、幸い私は、スェーデンクローナを持っていたので、難なく旅を続けることができました。スペインでは、洪水で列車が大幅に遅れ、食料の配給があったのですが、ワインも配られ、流石スペインと思いました。数え上げると3ヶ月ですから、色々ありましたが、ユーレイルパスを、使っての列車の旅は、ヨーロッパの地理を体で覚えさせてくれた、若いからできた貴重な体験でした。
今また、ゆっくりとヨーロッパの列車の旅をするなら、食堂車のある列車に乗って、車窓から、移りゆく景色を眺めてみたい気分です。
2025-07 新緑のフィンランド
5月、久々に新緑のフィンランドを訪れようと予定を立てたのですが、予定していたほどの仕事が入らず、ダラダラと二月が経ってしまいました。毎年作っています卓上カレンダーの写真に、また新しい風景を加えることができず少々残念です。7月、8月は夏休みで航空運賃が高騰するので、はなから除外です。次は9月を一応予定に入れておきます。旅のスケジュールを組むだけで、気分は上向きますので良しとします。
気持ちを切り替えて、友人と力仕事に精を出しました。ニセコ、庭の白樺の大きな木を3本倒しました。これで、来年の暖炉の薪を確保です。伐採で思っていた以上に、サウナ小屋からの羊蹄山を望む景色が良くなりました。
6月は、大学時代の同期がニセコに来てくれたので、久々に昔の大学生活を思い出して、夜中までグラスの氷を何度も入れ替えました。全国的に、学生運動が、激しさを増した躍動?の時代でしたが、何の根拠もない可能性を信じて生きていた、世の中が今より良くなる、錯覚さえ感じ取れる、ある意味とても良い時代でした。昔、学生時代に休学してヨーロッパの旅へ、旅立った時も同様でした。若者に対して、社会が寛大でした。美術館、博物館はグリーンカード(学生証)を、提示すると半額あるいはフリーでした。学ぶことに対して、優しく、寛容に見守ってくれていたような気がします。遠い昔の話です。
この時期、フィンランドは、日没も遅く最高の季節です。東のロシアとの国境にも近い、一番大きな湖SAIMAAサイマーは、どこから見ても絵になります。森と湖の国そのものです。湖沿い、森林を這うように走る国道、林道、風の少ない国ですから木々は、実にまっすぐ伸びています。
昔、ヒッチハイクをしながら、ここで、写真を撮っていると、1台の赤いルノーが止まりました。前席には、ご夫婦、後部座席には小さな女の子と男の子が乗っていました。 窓を開けてご主人が話しかけてくれているのですが、何を言っているのか解りません。奥様が、英語で私たちは、これからIMATRAという町に帰るところだけれど、よかったら乗っていかないかと言ってくれました。私を、助手席へ奥様は子供達と後ろの席へ移られました。
私は、このお宅に2泊もさせていただき、専門が建築ということで、イマトラ市にある世界的な建築家アールトのVuoksenniska教会へも案内していただき、湖岸の市のサウナへも連れて行っていただきました。ご主人は、全く英語が話せないのに、一所懸命会話を成り立たせようとしてくれました。
この、GRÖHN一家との出会いがなければ、大学卒業後、再びフィンランドへの留学にも結びつかなかったと思います。もちろん 3年後の留学時、その年のクリスマスには、再びイマトラのグローン家を訪れ、覚えたてのフィンランド語で、ご主人とも何んとか会話を成立させました。現在50年以上も、この家族との交流は続いています。素朴な、田舎のごく普通の家族、私の頭の中には、昔のフィンランド人のイメージが、この家族を通じて生き続けています。フィンランドが、目まぐるしく変化していっても、多分、大好きな国に変わりはないと思います。
2025-04 旅立ちの季節
4月は、私のイメージは、今でも旅立ちの季節です。1971年、信じられない50年以上前、横浜港、大桟橋より、当時の青函連絡船より小さなソ連邦のバイカル号に乗船しました。当時、横浜港でバイトしていましたので、海外の大きな豪華客船に、仕事で宿泊したこともありました。ですから、その船と比べると質素というか小さな船でしたが、初めての海外ということで、気分は高揚していました。横浜を出港して一泊、未だ日本、津軽海峡通過、船中2泊でナホトカ港へようやく到着です。今はもう伝説に近いシベリア鉄道に乗って、モスクワに到着。当時は、旅行会社の駐在員の方が、まだモスクワで対応して下さり段取り良く市内観光ができました。モスクワからまた列車に乗り、フィンランドとの国境で、うそのような厳しいソ連の税関の検査を受けて、憧れのヨロッパの入り口、ヘルシンキ到着でした。
大学2年を終え、各地の大学で学生運動、混乱していた社会に少々嫌気がさして、ヨーロッパの国々を、自分の目でみたくなり大学を休学して出かけました。
先日、50年前の出来事で、テレビで浅間山荘事件を取り上げていました。私はこのときは、日本へ帰る途中で、バンコクで事件を知りました。あの事件を、当時の学生運動と同一視して捉えられることには、今でも私は、抵抗を感じずにいられません。よど号ハイジャックと同様、あれは、殺人、強盗事件で、主義主張を語るれべるのものではありません。
一年のヨーロッパ、北アフリカ、アジアの旅を終え日本へ帰り、復学して大学生活へ戻ったのですが、嘘みたいな、平穏な日本社会にあぜんとしました。細々と、成田闘争が、続いていただけです。私は、日本において、革命という言葉は、幻想だとおもっています。ですが、あの当時の若者は、自分が動くことによって、世の中が変わるかもしれないという、淡い期待をもっていました。少なくとも、真剣に生きていました。その淡い期待も失せた日本に止まる気もなく、卒業と同時に、性懲りも無く、同じシベリア鉄道経由で 、再び4月に、ヨーロッパへ旅立ちました。それから2年半ヘルシンキでまた、大学生活をすごすのですが、ろくなスケジュールもたてずに、日本を飛び出した私に、1960年代シベリア鉄道で、フィンランドへ渡った、第一世代と言える先輩諸氏は、逞しく生きていて、優しく受け入れてくれました。学生証が降りる前に、ヘルシンキの市営交通の定期券の発行を、直談判で行ってくれたり、学生寮の手続きを手伝ってくれたり、今でもどうして、可能だったのか理解に苦しみます。
時が過ぎて、今では、この時の方々にお会いする機会もありません。昨年も、人伝いに、お一人が亡くなられた報をききました。
我々、第二世代?1970年初期のシベリア鉄道組も、後期高齢者の仲間入りです。私は、何とか現役を続けて、今でもフィンランドとの仕事を継続していまが、取引先の相手も当然、世代交代していきます。一抹の不安ではなく、寂しさを感じますが、今でも私を受け入れてくれるフィンランドの人々との付き合いを大切に生きたいと思っています。
今年は、新緑の季節にフィンランドを訪れようと思います。また何か新しい発見があるかもしれません。シベリア鉄道からつながる終着ヘルシンキ駅。まさか50年以上にわたってこの国と関わるとは、当時夢にも思っていませんでした。
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2025-03 ヘルシンキ地下鉄
昨秋、ヘルシンキを久々に訪れて、地下鉄が西へ、となりのエスポー市のKivenlahtiまで路線が伸びているのに驚きました。エスポー市まで伸びているのは、友人から聞いて知っていました。遠い昔、私がヘルシンキで、学生生活を送っていた時代は、工事は始まったけれど、本当に走るのかという程度の話でした。自分で仕事を始めて、度々ヘルシンキを訪れていた時代は、東へ伸びて行く地下鉄でした。中心部を過ぎるとすぐ地上に出て、地下鉄といっても地上を走る路線でした。スェーデンのストックホルム市は、昔から地下鉄の路線が多いですが、都心を出ると同じく地上を走っています。ですから、今回西の終点まで乗ってみて、ずうっと地下を走り続けるのには、驚きでした。硬い岩盤の地下深く走るのですか、建設費、工期も並大抵ではないことは、容易に想像がつきます。地下鉄開通当時、ヘルシンキ駅から地下のアーケードへ降りるとさらに下へ向かうエスカレーターがありました。乗ると、モスクワの地下鉄ほどではありませんが、深くホームへと降りていきます。エスカレーターを降りホームへ向かう手前に、とても厳つい厚い扉が収納されているのが目につきます。もちろんこれは、防空壕を兼ねた作りであることが想像つきます。
フィンランドでは、今でも法律で、公共建築物を建てる時には、建築面積に対して数%のシェルターを設けることが義務付けられています。昔、建築コンペを手伝ったことがあるのですが、条件のところに、確かに明記されていました。
訳のわからない、アラートが、朝から突然スマホで鳴りだして、『安全が確保できる建物に避難してください。』と、わかったような、責任の所在のはっきりしない、無責任なアナウンスが流れる国とは、大違いです。根拠のない?仮想敵国とは、違い、明らかに昔から、現在のロシアを想定した考えです。
これは、NATOに加盟することによってなされた措置でもなんでもありません。加盟する、しないに関わりなく、辛い冬戦争の経験から、なすべき、国の方向性は、一貫していたのだと思います。
地下鉄の話に戻ります。ヘルシンキ駅から東のITAKESKUSまでの開業が1982年、途中駅、Marimekkoのアウトレットがある駅Herttoniemiへは、行かれた方も多いのではないでしょうか。ちゅうしんぶHakaniem近くの、地下から地上へ出て海を渡りますが、ここも再開発地区で、2007年には途中にKalasatama駅ができました。ヘルシンキも一極集中は、止まりませんね。
今回、西の地下鉄へも乗ってみたのですが、Helsinki市、Vantaa市、Espoo市というヘルシンキ圏の考え方なのでしょうね。調べてみたわけでは無いのですが、どう考えてもこの地下の深さは、シェルターの発想以外にあり得ないと思います。あの岩盤を掘り進むですから、感嘆します。地下鉄を空港まで延伸する予定もあるようですから、また、当然地下を掘り進むのだと思います。
国を守ること、イコール国民を守ることだと、政府が考えているとすると、多少、日本よりは、随分まともな国なのかもしれません。
2025-02 屋根の雪下ろし
30年以上続けています、恒例の屋根の雪下ろしを、今年も無事怪我なく終えました。12月、ニセコの降雪量が多く、少し心配しましたが、1月はさほど降らず2月1日2日で11名のメンバーで、雪を残すことなく下ろし終えました。毎年メンバーが同じではないのですが、皆様ほぼ、ベテラン揃いですので要領よくひたすら雪を下に落とします。大型除雪機で、一人はひたすら落とされた雪を遠くへ飛ばします。幸い敷地が広いので四方へ飛ばせます。お昼はいつも豚汁で一休みです。夕方排雪を終えて、屋外サウナに火を入れます。15平方メートルまでないサウナ小屋ですが、このログハウスは、交互に径の異なる丸ログで積まれていて、フィンランンドでは一社しか作れません。サンタクロース村で有名な、ロバニエミ市に会社はあります。地場ゼネコンで、公共工事から、橋まで仕事を受けます。サンタクロース村の施設は、大部分この会社の仕事でした。近くにあるサンタトンネルも、この会社が受けました。競争入札で、フィンランンド1番のゼネコンを押しのけて、仕事を受けたのですから、腕も確かです。1本、1本旋盤のような機械で表面を、通称ビーバーイーティングカットと呼ばれる加工をします。樹種は北欧赤松ですが、北極圏より北の木のみを使用し、表面を削り落として、芯材のみを使って仕上げる、通称AIHIKIと呼ばれる特別のログ材です。ですから、この屋外のサウナ小屋は、薪焚きのサウナ小屋の中でもストーブに水をかけた後の、体に帰ってくる湿度が絶品です。昨年、フィンランドを訪れた時、このようなサウナ小屋を注文されたら、製作可能かと聞きましたら、AIHIKIのログはもう作っていないそうです。こんな手間のかかるログは、止めだそうです。なおさらこの、サウナ小屋は貴重になりました。
サウナで、過酷な屋根の雪下ろしの疲れを癒し、外で涼んで正面に見える羊蹄山を眺めながら飲むビールの味は格別です。
もし最高のサウナ小屋を、今望むなら、あとはKEROで作るしか方法は残っていません。立ち枯れのログ、通称シルバーパインと呼ばれているログハウスです。参考までに、これは、現在でも金額を問わなければ、手に入ります。
サウナから出たら、居間の暖炉の薪に火をつけて、いよいよ宴会の始まりです。皆様、いろいろの食材を持ち寄り、参加してくださるのですから、私は、なんと素敵な仲間と30年も付き合っていれるのだろうと、ただただ感謝です。
正直、あと何年この屋根の雪下ろしを、私は出来るのか分かりませんが、体力が続く限りは、続けていこうとまだ、思っています。
2025-01 自転車専用道路
冬の季節に、少し話題としてずれてしまいますが、昨秋ヘルシンキを訪れて気づいたことがあります。中央駅近くのSOKOSデパートの前の大きな通りを渡ろうとしたら、歩行者の信号の横に自転車専用信号がついていました。昔、アムステルダムへ行った時、自転車信号に、さすが自転車の都市と思い感心したことがありますが、ヘルシンキにも現在信号が完備されつつあるのかと思いました。つい最近我が国では、自転車の飲酒運転、スマホのながら運転に罰則規定が強化されましたが、この国の感覚のずれ具合には、平衡します。自転車の事故が、増えたと言って、おざなりの自転車道をとってつけたように、現状の道路を幅を変えるでもなくラインだけをひいたり、自転車は、車と同じ左側通行ですと言うだけの、根本的な対策を未だとっていません。
災害時に、緊急車両の通行ができるようにと、ようやく電柱のない道路を作り始めるのは良いのですが、幹線から脇の道路の電柱は、逃げた分の電線が増す有様です。都市の美観として、電柱のない風景が良いから推進するのではなく、予算ありきの最低限のスタートです。始めないより良いのではなく、街の将来像、文化そのものを、考えるべきなのではないでしょうか。
話を、自転車に戻します。ヘルシンキ市内、気にしてみると、実によく自転車道が整備されています。ホテルの窓から、いまさら通勤時の人々の流れを見ていまして、自転車通勤の数の多さに驚きました。地下鉄、バス、市電と首都ですから、他都市に比べたら交通網は完備しているはずです。ですが、ヘルメットを被り自転車道を多くの人が駆け抜けています。日本のように歩道を、我が物顔ですり抜ける自転車は、これこそ、文化のレベルの低さだと思います。歩道、自転車道の分離は当たり前です。ヘルシンキですと、公共交通機関の路線地図と同様に自転車道地図もあたり前にあります。レンタルサイクルも完備していて、自転車の乗り降りができるスポットが、ヘルシンキ市内だけで、100箇所くらいあります。レンタル料は、1日5ユーロ、1週間10ユーロ、ひと月35ユーロです。さすがに月単位の値段は、5年前は25でした。この値段ですから、夏場の良い季節は、のんびりと港の海岸線を自転車を漕ぐのも良いと思いました。忙しく動いています私は、残念ながら一度も使ったことがありません。
日本でも、インバウンドで多くの人々が訪れ、レンタルサイクルも増えていますが、自転車道一つを取ってみても現状は、あまりにもひどすぎます。遅きに過ぎたで、許される事ではないことに行政は、立ち上がらなければ先進国という、何を基準にしているのか知りませんが、文化レベルを図りなおした方が良いと思います。
」
2024-12 ヘルシンキ中心部街並み
12月になると、ヘルシンキのメインストリート、マンネルヘイム通りとアレキサンテリン通りがクリスマスイルミネーションの飾りで、暗い北欧の冬が少し輝きを増します。時計のある正面のストックマンデパートの出口から外に出て、3人の鍛冶屋の像のスクウェアーに何か違和感を感じました。通りの対面に大きなタワークレーンが2基立っていました。そう言えば奥のTORNIホテルの塔がはっきりと見えています。隣接していた建物に前のビルの痕跡が残っています。通りを隔てた大きなビルが消えたと気づきました。
街中で、タワークレーンが立っていることに、工事現場でしたら別に珍しいしいことでも何でもないのですが、大きな建物が、無くなったことに驚きました。以前ストックマンデパートが大掛かりな改修工事をしたときでさえ、ファサード古い前面の外壁は残して、時間をかけてあまり違和感のない建物に生まれ変わったというより、元に戻ったという感じでした。駅近くの大きなバスターミナルを、地下に持っていったヘルシンキ中心部最大の再開発でさえ、二階建てのバスターミナルの上家は残っています。ターミナル近く、マンネルヘイム通りのガラスパレス、ヘルシンキ最初の機能主義建築と言われた1935年竣工の建物も店舗等は、時代で変化していますが、健在です。この建物を残すというヘルシンキ市民のセンスが私は、好きです。ですから、中心部の建物が、消えていくということに驚きました。少し冷静に考えると、隣のレンガ調の建物、その隣も残っています。以前の写真を調べてみましたら、確かに残すべきファサードの建築物ではありませんでした。少しホッとしてヘルシンキ中央駅に向かいました。ヘルシンキ中央駅からの正面の建物は、私が1971年に駅に降り立って眺めた景色と違和感はありません。何年経っても、昔の記憶を蘇らせてくれる街は、捨てがたいものです。
1960年代、北欧の建築は、世界から注目され、隣町Espoo市のタピオラTapiolaは、理想の田園都市として、世界中から視察団が訪れたほどです。フィンランドの著名な建築家がこぞってこの地区に腕を振るいました。オタニエミ工科大学(現アールト大学)は、アールト、学生会館はピエティラ、礼拝堂はシレン(安藤忠雄氏がイメージを感じたという)錚々たるメンバーでした。
私は、このフィンランドに憧れて大学へ行きましたが、住んでいた学生寮は、現在も続いているパシラ地区の再開発の先駆けとなる、東パシラ高層地区のど真ん中にいました。理想と現実のギャップに苦しんだ時代でした。
当時の理想都市タピオラ、地下鉄が通ったことで旅の終わりに訪れてみました。駅の周りは、ターミナルビル等が、建設途中なので、出口からどう動くと良いのか、ずいぶん迷いました。やっとのことで、昔タピオラセンターと言われていた、老朽化が進んでいるビルを見つけました。田園都市、遠い昔の話でした。バスに乗って次の地下鉄の駅まで行ってみました。住宅地区の配置に関しては、さすが、都市計画から、住宅も始まるという根本的なことは、しっかり生きているなと、少しホッとしました。
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2024-11 ヘルシンキ大学図書館
ヘルシンキ大学図書館、以前新しい図書館のニュースを見て、今回初めて訪れました。ヘルシンキ中央駅近くのOodiヘルシンキ中央図書館は、デザインの特異性、図書館のイメージさえ変えてしまう画期的空間で注目を集めましたし、全国各地から、人々が訪れましたが、ここは、第一印象、しいていいますと図書館らしい図書館でした。デザインは、馬蹄形アーチの巧みな外観、内部のオーバルの吹き抜け等流石に、フィンランドの建築家が、脈々と生き続けているという北欧らしいデザイン力に感心しました。各フローアーをゆっくり見学するほど、時間がなかったのですが、近隣建物を含めた模型を見て、ヘルシンキ大学の関連建物の多さに今更びっくりしました。一般的に言う大学キャンパスとは異なるのですが、町のど真ん中で、これだけの建物を連ねているのですからすごいことです。
私の学生時代は、大聖堂横の大学本館と道路を挟んだ丸いドーム屋根のいかつい建物が、大学図書館でしたので、よく通っていました。内部の重厚さが、古めかしさを感じ、いかにも貫禄の図書館という感じで好きな場場所の一つでした。少し気になって、行ってみましたら、プレートは、国立図書館と書かれていました。
私は、日本の学生時代後半は、卒業研究に没頭していまして、専門書を何冊も漁るため、勿論購入出来るほどの金銭的余裕もありませんから、どんな本でも揃っている国会図書館はよく通いました。閉架式という意味がよくわからず、何度も係の人に尋ね、必要な本を持って来てもらったことを思い出しました。半年以上、国会図書館通いでした。ですが、他に、日本の図書館はあまり知りません。フィンランド人は、読書好きで有名ですが、私もかなりの本を読む方ですが、買った本で無いと読みたくならない性格なので、本屋さんへはよく行きますが、図書館へは行きませんでした。
最初に、フィンランドを訪れた時、地方の都市(KUOPIO)の図書館をみで、建築の学生の目線なのかもしれませんが、建物のデザインにしばし、見惚れていました。ロバニエミ市のアールトの図書館も、もちろん有名ですが、私には、フィンランドにおける図書館のイメージは、クオピオの図書館でした。そういえば、私が一級建築士の試験を受けた時の、製図の課題は、図書館でした。受かるための試験ですので、何を意図しているのか、図面に表現することだけに追われる、思い出したくない苦痛の時間でした。
ヘルシンキ大学図書館、勿論一般の人が入館できます。2つの通りに面していて、大学本館正面のFabianin通りと駅から続くKaisaniemi通りにかかっています。地下鉄の駅ともつながっているのですが、以前は、駅名ヘルシンキ大学ではなく、カイサニエミ駅だったと思います。確かに、長いトンネルの通路で繋がっていますから、間違いでは無いのですが、昔、オタニエミ工科大学と言っていたのが、現在はアールト大学と言っています。勿論、大学の校舎の一部はアールト自身の設計のものがあります。観光客には、分かりやすくて良いのかもしれませんが、マサチューセッツ工科大学と比べられたオタニエミ工科大学の名前が消えることに、私は、寂しさを覚えます。カイサニエミ駅だって、古くから公園とつながる通りですから、市民にとっては、こちらの方が親しみやすいのではないでしょうか。市電の路線が、コロコロ変わって、それについて行ける、市民もすごいと思いますが、それとは別に、地名は大事だと思うことが、時代を感じてしまう年寄りの感慨なのでしょうか。
2024-10 久々のフィンランド-5
朝早く出かけようと思って、わざわざ前日にレンタカーを借りて、準備万端と思ったら、めざましのAM,PMをチェックせず、なりませんでした。急いで準備をして朝食へ、月曜日で仕事へ出かける人が多く結構混んでいました。わたしは北欧の朝食が大好きで、これは欠かせません。ジュースとミルクのグラスをまずテーブルに置いて、野菜、コーンフレーク、ハム等、今回は、パンを取らずにKarjalanpiirakkaカレリアパイがあったので、これを取りました。8時でもまだ外は薄暗いです。冬ですと、この時間は真っ暗です。デザートは大好きなベリー類をいっぱい盛ってその上にヨーグルトをかけます。これがいちばんのお楽しみ。コーヒーを、外の通勤の様子を眺めながら飲んで、いざ出発です。
今回一番の目的は、どちらかと言うと親友の墓参りです。コロナのせいもあって5年ぶりです。すごく気には、していました。私は、あまり語学が得意でないので、外人の、何でも話せる親しい友達が、仕事を通じてもできるとは思っていませんでした。そんな、彼からのメールで、『医者に長く持たないと宣告された』との報告。『鈴木、来れないか』というので、私は、次の日に飛行機のチケットを手配して、すぐ飛んで行きました。彼の家で家族とみんなで数時間話をして、彼も、疲れたから休むと言うのいで、ヘルシンキに戻り、私は日本へ帰りました。1週間後、弟から昨日、病院で亡くなったとの知らせでした。二人の息子と、奥さんを残して59歳でした
ホテルを出て、勝手知ったるマンネルヘイム通りを抜けて、フィンランドの古都Turkuトゥルク方面への高速道路をしばらく走ります。フィンランドは、郊外、国道は制限速度が、100kmですので、高速道路の120Km制限は、あまり変わり映えしませんが、信号がない分、確かに早いと思います。途中北のPoriへ向かう、国道へ道を変えて、再びTurkuへ向かう国道へ合流します。この道は、少なくとも年2回、多い時は数回、毎年車を運転していました。彼の住んでいたLoimaaロイマー市へ約2時間で到着です。最初に、少し気にしていた工場、事務所へ行ってみました。現在稼働している様子はありませんでした。もちろん会社の看板も変わっていました。エストニアの会社が、買収したという、噂は聞いたことがあります。ロイマー市郊外の墓地へ向かいます。小さな町ですから、市街を抜けてすぐ5分ほどでつきました。久々に墓跡の前に立ち、彼の好きなサントリーの山崎は、今、手に入らないので、北海道のニッカの小瓶を、墓石の中に作られているローソク台に入れました。『今度は、また来年来るよ、必ず!』
帰りは、いつも違う道を走ります。第二の都市タンペレへ向かう国道です。途中、Nuutajarvi村を思い出し、少し道を逸れて向かいました。グラスはIittalaが有名ですが、アラビアのグラス部門は、ここで作られていました。工房も現存していますが、あまり目につくものはありませんでした。タンペレの手前で高速は、タンペレ方向とヘルシンキへ分かれます。ヘルシンキへ向かい、途中イイッタラの街へ高速を降ります。大きな工場と、OUTRETのショップがあります。夏は、観光バスがよく来ていました。私は、いつもここで買い物をします。TAPIOのグラスが、半額セールでしたので、いくつか買い物も済ませました。昔は、よく日本へ直接送ってもらいましたが、そのサービスは無くなったみたいです。今は、23kgのスーツケースが、2つ預けれるよになりましたので、随分買った物のパッキンングは、苦労せず、楽になりました。レンタカーを空港に向けて走らせ、行きと同じ建物の駐車場に戻して、カウンターにキーを放り込めば終了です。空港で、列車、市電、地下鉄の乗れる2日券(48時間)を買って、列車、地下鉄でホテルへ何事もなく無事戻れました。ただ、5年間のブランクは、景色も含めて変化が多く、いつもより疲労感が残りました。
2024-10 久々のフィンランド-4
ロバニエミ空港を出発して、ヘルシンキへ到着です。税関こそ通りませんが、荷物の受け取りが、こんなに空港を拡張したのに国際線の客と同じ動線ということが、いくら搭乗時のチェックが厳しいとはいえ、少し気になりました。出口は、日本から到着した時と全く同じ場所なので、預けておいたスーツケースを3日分の金額を支払い受け取り、レンタカーの手配です。日本から到着した時は、早朝でしたのでブースは、開いていませんでした。書類を書いて、車のキーを受け取り駐車場へと向かいました。駐車棟3Bの2階を指示されました。重いスーツケースを引きずりようやく辿り着くと、指定番号に車はありません。手当たり次第近くの車にキーを押してみましたが、反応はありません。仕方なくまたスーツケースをガラガラ引いて、受付カウンターに戻りました。別のキーを受け取りまた引き返します。今度は大丈夫でした。
気を取り直し、ヘルシンキ市内に向けてアクセルを踏み込みます。日曜日でしたので市内は、渋滞というレベルではありませんでした。マンネルヘイム通りを抜けて駅前を左折と思ったのですが、左折禁止、次の道もその次の道もダメです。結局港へ続く公園大通りを進み、ようやく左折ができました。大学で通い慣れたFavianin通りを抜けてKaisaniemi通りからHakaniemiここでまた大きな道路工事にぶつかって少々遠回りしてホテルへ辿り着きました。ここHakaniemiハカニエミは、港の有名な朝市と同じくらい大きなスクエアーです。映画の『かもめ食堂』にでてきた朝市は、ここです。市電の各路線、バス路線が多くあります。
スーツケースを開いて、3泊の予定ですから、ゆっくりしよかと思いましたが、天気が良かったので、外に出ました。1971年、最初にヘルシンキを訪れた時、中央駅には、案内ブースがあって、ホテル手配などの手配をしてくれました。ユースホステルを訪ねたら、満室ということで、近くの高くないホテルを、探してもらい、駅から歩いて行ける範囲の宿に泊まった記憶が微かにあります。駅を出て右も左もわからず若いカップルに道を訪ねたら、地図を見ながらスーツケースを持ってくれてホテルまで案内してくれて、なんと優しい人たちだろう、何といい国だろうと思いました。今でしたら、年寄りでない限り10人が10人、スマホ片手に住所を打ち込み、教えてくれる、今回何度も経験しました。さすがノキアを産んだ国です。
今回泊まったホテルは、あまり大きくないので、ロビーはこじんまりしていて、レストラン、バーラウンジなどもちろんありませんでした。少し疲れていたので、お酒でも飲みたくなり、Hakaniemiにあるヒルトンホテルへ歩いて行きました。以前、仕事で竣工してすぐのヒルトンへ泊まったことがあります。大きな吹き抜けのロビー、そこにはガラス張りのエレベータが動いています。フィンランドの各地の石を、ふんだんに使った室内、眩しいくらいのビームの電球を散りばめ、落ち着かないぐらいの煌びやかな部屋を思い出しました。バーカウンターに座って、Pitka Olutta 大きいグラスのビールを頼みました。銘柄を問われたので、もちろんLapinKultaラピンクルタTornio市に工場を持つフィンランドのKoffと同じぐらい有名なビールです。カウンターで、ゆっくりとビールを味わって、明日のレンタカーでの移動を考えながら、自分の宿泊するホテルへと戻りました。

































