2022−07 夏期休暇
この季節になると、まず、フィンランドの会社の夏休みの前に発注等の打ち合わせを済ませておくこと、遅れると、商品の到着に1ヶ月のロスを生じてしまいます。さらに、担当者の夏季休暇のスケジュールも把握しておかなければなりません。本人の休暇の間、別の担当者ですと、微妙に注文等の仕方にずれが生じて、予想外のミスが発生することがあります。できる限り、担当者の休み明けを待って、次の打ち合わせをするようにしているのですが、休みが明けてメールで、夏休みはエンジョイできましたかと、問いかけると、充分との答えの後に、休みが短すぎたとの返答をもらうことがしばしばです。私は、フィンランドとの付き合いが長いので、驚きはしませんが、北欧の人々の、夏に自然との関わりを貪欲なまでに謳歌する気持ちを羨ましく思います。
今の若者は、存在さえも知らない日本のバブル最盛期、コマーシャルでは、『24時間働けますか』などの過激な宣伝が、ごく普通に受け入れられていました。ヨーロッパの人々からは、エコノミックアニマルなどと陰口を叩かれながらも、それでも日本人はなぜか暑い中、わずかなお盆休みだけ休んで働いていました。ヨーロッパの国々は、しっかりと一月近い夏休みを取り、夏を満喫していました。当時、同じことをしていたら、日本の国力は落ちて行ったのでしょうか。長年の生活習慣、文化の違いで、片付けなかったら、少しは日本も変わっていたかもしれません。
仕事の関係で、夏にフィンランドを訪れることはあまり多くはないのですが、夏に行っても、工場は止まっていて動いているラインのチェクなどは出来ませんが、仕事上の打合せは、担当者ではなく上の役職についている人が、連絡さえ入れておくと時には、休暇先から駆けつけて対応してくれます。日本と違って、上の人間程よく働きます。俺にしか出来ない、私がいないと仕事はうまく回らない、こんな考え方だからいつまでたっても、交代で長い夏休みを取れないのでしょうね。誰にでも出来る仕事というと語弊があるでしょうが、交代してもスムーズに仕事が回るプログラムを作成することが、役職についている人間のするべき仕事ではないのでしょうか。
コロナによって、生き方そのものが今問われていますから、ここでしっかり夏休みをとるという考え方を、真剣に経営者は論議した方が良いでしょうね。北欧の人々のように週末の過ごし方が、生活に溶け込んでいると、夏休みの取り方も変わるのではないでしょうか。これは、定年になってからの生き方にもプラスになると思います。自然と親しむ趣味を持っていると、北欧の人々のように退職後、実に楽しそうに毎日を生活している友人を多く知っています。過去の仕事の自慢ではなく、今をどう生きているかを、私に実に楽しげに語りかけてくれます。
私は、新しい生き方として、週休3日制を始めても良いと思っています。週末の過ごし方を、よりアクティブに生きることができると思います。丸一日使える時間が存在すると無理をせず、仕事への体力のみならず、精神力さえも回復できると思います。
旅行を考えてみてください。いろんな所を訪ねて見ようと1泊2日の旅を続けると、疲れると同時に、毎日が移動日になり、じっくりと街並み、文化に触れることができません。デジカメ、スマホで写真に残る記憶で振り返るだけの旅になってしまうのではないでしょうか。画像で楽しむのではなく、目に映った風景、色彩、感動を、ゆっくりと体に取り込むことが、本当の旅なんだと思います。
2022-06 夏至祭
Juhannus今年の夏至は、21日ですね。フィンランドの夏至祭は週末に行われますから、24日からは、ヘルシンキみんな田舎へ帰るか、コテージへ出かけるかで街中は、観光客ばかりです。今年は、観光客もどうなのでしょうか。まずロシア人の団体はいないはずです。私も、ヘルシンキに住んでいた時以外は、夏至祭に参加したことがないので、最近の様子は分かりません。もう夏休みの始まりですから、出張しても仕事になりません。もう11年前に、ニセコのコテージで、多くの友人に集まってもらって、白夜祭を催したのですが、とても楽しく5年ごとに開催を目論んだのですが、私が、生死を彷徨う大きな怪我をしたり、フィンランドの親友、札幌の友人が相次いでこの世をさり計画は頓挫しています。フィンランドへの出張が再開したら、また考えてみることにします。
先日、重信房子が出所したり、岡本公三がレバノンで集会に姿を見せたと新聞の報道がありました。当時、私はストックホルムにいましたので、彼らの動きはよく聞いていました。ハイジャックで北朝鮮へ亡命したグループは、さらに、ヨーロッパで、日本人をターゲットに北朝鮮への勧誘を盛んにしていたことも知っています。私も、かなり学生運動をしていましたが、彼らの行動は、決して許容できるものではありません。どんな屁理屈を並べようと、私は決して許さない。現在、プーチンがごたくを並べていることも然りです。
国連の存在感の軽さ。第二次世界大戦の戦勝国が、現在を牛耳っている実態を、どうして打破できないのでしょうか。核の脅威、抑止論の虚しさを今更味わおうとは思いませんでした。日本、ドイツ、そしてフィンランドも多額の戦後賠償を負わされてきました。今、戦争に勝とうが負けようが、ロシアは、ウクライナに対して国の存続が危ぶまれようが、賠償を課せなければなりません。それがなされなけば、国際社会の秩序などと、言わないでいただきたい。
フィンランドは、冬戦争では果敢に戦いましたが、それに続く、継続戦争ではドイツと組んで惨敗です。昨日の友を、フィンランドから排斥しなければならない条件を突きつけられ、北のロバニエミ市は、焦土と化しました。私の友人は、ロバニエミ市から少し北のノルバ湖のほとりに住まいがあります。その少し北に、ドイツ軍人墓地があります。Saksalainen sotilaiden hautausmaa石の外壁、内部には戦士者の名前が刻まれています。ほとんどが十代二十代の若者です。本人の意思と関係なく遠く離れた地で、虚しく命を落としているのです。私は、ここを訪れると、正義とか悪とかそんな理屈を抜きにして、虚しい感情だけが残ります。どうしてこんな過去を、忘れたかのように同じことを繰り返している、今のロシアは許せない国家です。若者の命を奪う権利が、為政者にあるわけがありません。
白樺の若葉、風薫る5月
長い、暗い冬を終えたフィンランドは、今一番良い季節です。人々の顔の表情も明るさを増す春です。成田―ヘルシンキも5月から毎日飛ぶようになります。現在、シベリア上空を飛べませんので、13時間を要します。日本を夜発ちまして、早朝ヘルシンキバンター空港到着です。昔のフィンランド航空の画期的なヨーロッパ直行便の飛行時間に戻った感じですが、考え方によっては、到着後朝から仕事ができる感じですので、本来すぐにでも、搭乗予約を取りたいのですが、世界情勢はままなりません。
私と昔から、家族付き合いしています家庭は、IMATRA市に住んでいます。ロシアと国境を接する一番南側の都市です。有名な建築家アールトのヴォクセンニスカ教会がある町としても知られています。1939年の悪夢が、21世紀に入って、こんな緊迫がまさか生じるとは思っても見ませんでした。この家族との出会いがなければ、日本の大学を卒業して、今更、フィンランドの大学へ行こうなどと思わなかったはずです。50年もフィンランドと付き合ってきて、多少人よりはフィンランドを知っていると思います。ウクライナの報道で、北欧のNATO加盟が取り沙汰されています。その時、フィンランド化という言葉が蒸し返されています。これは、揶揄ではなく侮辱です。時の中曽根首相が発言して、日本のフインランド大使館の参事官が、直ちに、猛烈に外務省に抗議に向かっています。スターリンによる悪義なフィンランドへの侵略に始まる冬戦争を戦い抜いた歴史の誇り、SISU(フィンランド魂)が、許せなかったのだと思います。同年、12月、中曽根首相は、独立の父、冬戦争の指揮官マンネルヘイムの墓前へ献花に訪れています。
NATOへの加盟が、現実味を帯びてきていますが、フィンランドは、現在戦闘機、F18スーパーホーネットを64機持っています。後継機F-35も62機契約をしています。サンタクロース村で有名な北極圏のロバニエミ市、ここの飛行場は4000mの滑走路を持っています。以前12月には、超音速旅客機コンコルドが何度も訪れていました。ここの飛行場は、隣に空軍が常駐しています。航空母艦への発着訓練を想定した訓練は以前から行われていました。空港の少し北に、友人の住まい(私が訪れるときはいつも泊めてもらいます。)があるのですが、途中、直線道路の国道がいきなり幅が4倍くらいの道路となって続きます。非常時の滑走路です。これは、フィンランド各地にも存在します。毎年訓練が行われるときは、一時通行止めになるそうです。電源喪失も前提に、両サイドには松明が点されるそうです。
国民の2割ぐらいにすぎなかったNATO加盟の支持の時から、過去の侵略からの教訓は生き続けているのです。教育制度も然りです。小国の生き残るための国の方針は、平和外交を維持しつつ、最小限の自国防衛、国連平和維持軍への参加、中立を維持できない状況を生じた場合の対処も考え続けていました。ですから間違ってもフィンランド化などという知ったかぶりの不勉強を露呈する発言は、控えていただきたい。
それにつけても、フィンランドの白樺の若葉の緑の香りを、そろそろ嗅ぎたくなりました。友人の湖沿いのサウナ小屋から、日の長くなった夕日を見ながらビールを飲みたいものです。
2022-04シベリア鉄道〜ヘルシンキ
千歳直行便再開7月との報道があってから、やはりロシアのウクライナ進行で期限未定の延期になりました。名古屋、大阪便同様ですので、現在成田ーヘルシンキ便のみです。しかも、シベリア上空を飛べないため、13時間の長旅になります。さらにEU最後のロシアへの鉄路も28日からヘルシンキーサンクトペテルスブルグをつなぐフィンランドVR(国鉄)が止まりました。冷戦時代でもモスクワーヘルシンキは旅客定期路線で繋がっていました。私は、1971年シベリア鉄道経由で、モスクワから緑色のいかつい客車に乗って、国境駅Vainikkalaでソ連の機関車からフィンランドの機関車に連結され直して、ヘルシンキ駅へ到着しています。当時はガラス張りの屋根もなく、春まだ肌寒いのざらしのホームへの第一歩でした。その後、1974年も、ヘルシンキ大学留学のため、同じルートでヘルシンキへ向かいました。1975年は、逆にヘルシンキ駅からモスクワ駅へ鉄道で向かいモスクワから飛行機で日本へ一時期帰国しています。ですから、この鉄路は、私にとって忘れられない青春の大事な一ページでした。近年は、ヘルシンキ-サンクトペテルブルクは多くの観光客を乗せて、高速の特急電車ALLEGROが走っていました。
フィンランドの人々は、どのような想いなのでしようか。ウクライナの現状が、遠い昔の悪夢を歴史でしか知らない若者も敏感に感じ取っているのでしょうか。NATO加盟に必ずしも賛成でなかった人が、加わる事を真剣に考え賛成に回る人が6割を超しています。スターリン時代の理不尽な冬戦争、未だ帰らないカレリアの地、時代を超えてウクライナでまた繰り返されているのです。
国、自治体の建物を建設する場合、床面積の3〜5%を防空設備の設置という法律は現在も継続されています。ヘルシンキの地下鉄も地下ホームと地上の連絡通路には、分厚い鋼板の扉が閉鎖できるようになっています。市内中心部の地下駐車場も同様です。1300kmも国境を接する国において当然の対処なのかもしれません。根本的に信頼できる国では無いことを国民は熟知しています。
今は亡くなったフィンランドの友人に、人口500万人の国になぜ4箇所にも原子力発電所が必要なのかと聞いたことがあります。(現在Olkiluotoに2基増設済みです。)日本と同じエネルギーの確保は難しいが、ソ連からのエネルギー供給に頼る訳にはいかないのでどうしても、自前で確保しなければいけないとの返答でした。Olkiluototoから離れて2kmには、Onkalo使用済み燃料の最終処分場が建設されています。フィンランドは、既存の6基分のみを、自前で処理することを決めています。政府からの押し付けではなく、地元住民、科学者、各分野の専門家を交えて時間をかけて協議してきました。その結果の結論です。現在自然エネルギーの活用に世界は、舵を切っていますが、そのことを含めてフィンランド人の考え方は、ブレずに徹底していると思いました。
2022-03フィンエアー直行便
2月のニュースで、当初3月を予定していた千歳直行便再開が、コロナの影響で遅れていましたが、7月再開との報でした。3年前は冬期のスケジュール便でしたから、夏スケジュールでは初めてになります。私としては、3年もフィンランドを訪れていないという異常事態でした。少々直行便にこだわっていましたから、待つつもりでした。以前、千歳―ヘルシンキ、チャーター便で飛んで以来の旅行です。そう思いながら、フィンエアーのスケジュールを見ていましたら、同じ7月から始まる羽田―ヘルシンキが、目に留まりました。仕事を終えて夜の便で千歳から羽田へ飛び、2時間ほど待って羽田からヘルシンキへ向かうと、ヘルシンキへ朝の5時半に到着です。夕方到着しても仕事になりませんし1日が無駄になります。これは有効に使えると、新しいスケジュールに感激していました。
ところがです。イギリス、オランダに続いてフィンランドもロシアの航空機の自国上空通過権を拒否しました。ウクライナへの暴挙ですから、当然のことですし致し方ないと思います。頭の中は、遠い昔のアンカレジー経由というルートを思い出しました。ヨーロッパへ出かけるには、北と南ルートがあって、お金のある人は、アンカレジー経由のヨーロッパ、お金に余裕のない人は、アジアの空港を乗り継いで、疲れ切ってヨーロッパへたどり着くルートです。私は、さらに安く行こうとシベリア鉄道を使ったり、アエロフロートの飛行機でモスクワ経由で何度もヘルシンキへ旅立っています。当時の飛行機は長距離を飛べませんでしたから、東京―アンカレジー8時間、給油をしてさらに8時間でヨーロッパでした。私もアンカレジー経由を二度ほど経験しています。
フィンランド航空は、日本就航に際して画期的な試みをしました。大型ジェット機DC-10をダグラス社へ特注で、DC-10ERを発注します。座席数を減らして13,000kmを飛行できる燃料タンクを増設しました。13時間半、北極点上空を通過してから南下してヘルシンキ空港へ着陸する画期的なルートでした。随分、このルートは利用しました。途中から、シベリア上空を通過する交渉が成立して、各社ヨーロッパ線は、シベリアを飛んで時間短縮が実現しました。フィンエアーも新しい飛行機で、飛行機の性能も向上して9時間半で、ヘルシンキに着くようになりました。冷戦の終結は、良い結果をもたらしたと思っていました。
愚かな懐古主義的指導者の出現が、歴史を無理に引き戻しているのでしょうか。ローカル空港になった、アンカレジー空港が再度脚光を浴びるとは思ってもいませんでした。コロナで落ちこんだ航空関係各社が、再び別の試練にさらされるとは、大変な事態です。私は、1968年のプラハの春を今でもしっかりと覚えています。指導者が変わっても、同じ愚策を繰り返すロシアを私は許すことができません。今は、ただウクライナの人々が一人でも命を落とさず生き延びることを願うだけです。
2022-02 コテージ屋根の雪下ろし
今年の冬の雪の多さには閉口します。ニセコのシルバーパインのコテージは、今年3月で築31年になります。竣工時を除いて、年一度の屋根の雪下ろしを30年延々と続けてきました。毎年1月下旬に、友人に召集をかけて10人以上の人員でひたすら屋根の雪を下ろします。構造的には、積雪に耐えると思いますが、室内のドアが閉まりにくくなったり、雪庇がどんどん伸びたり不安になります。何せ屋根面積だけでも200M2を越しますので、単純に控えめに1.2M積もったと計算しただけで、積雪荷重が50トンになります。
毎年、メンバーは大きく変わることなく集まってくれます。当別町からトラックで大きな除雪機を運んできてくれる貴重な一人は下で、上から下ろした雪をひたすら大型除雪機で、朝から夕方まで飛ばします。幸い敷地に余裕がありますので、雪の処理に困ることはありません。数年前までは、屋根の断熱が悪く、恐ろしく大きな氷柱ができていて、その片付けに時間を要しましたが、屋根全面を改修して氷柱もわずかにできる程度になりました。朝から屋根に登って、雪をスコップ、ママさんダンプ等で、ブロックに分かれてひたすら雪を下ろします。雪下ろしを始めた数年は、土曜日と日曜日、2日に分けて除雪をしていたのですが、要領が良くなったのと、次の日では下ろした雪が硬くなって大変なので1日で一気に終わらせて、夜の宴会へと進みます。以前は、夜間スキーへ出かけたりしていましたが、メンバー年を重ねて無理はできなくなってきています。屋根の雪下ろしは、母家だけでなく、サウナ小屋、バーベキューハウス、物置と何棟もあります。片付けが終わったら、交代でみんなで外のサウナに入ります。この薪ストーブのサウナ小屋は、フィンランド人が、絶賛するレベルの素晴らしいサウナです。かなりの重労働ですから、皆さん体中痛くなっているのですが、サウナの後は、気持ちも軽く、会話も、お酒も弾みます。
昨年は、コロナの影響で皆様に集合をかけることができず、2,3名単位で屋根の雪下ろしをしたのですが、締まった雪で岩のように硬く、アルミのスコップは全然歯が立たず、くたくたになっても全然捗らず、週末に限って、雪下ろしだけで8週を要しました。今年もなんとか終わりましたが、建物を維持するということはいかに大変なことか痛感しています。
ただ、2月が過ぎましたら、雪も落ち着きますし、今年のゴールデンウィークには、コロナも落ち着いて、コテージでの友人との楽しい会話が復活することを望んでひたすら又、週末の除雪に励みます。
2022-01 Jukka
年末も近づき、使わなくなった子供たちのロッカーを整理がてら、片付けていたら懐かしい玩具の箱が二つも出てきました。フィンランドの木製玩具の老舗で90年以上の歴史を持つJoho Jussila社のものです。子供の顔にJUKKAのマークです。Jukka-taloの愛称の組み立て式の各種本物のようなログハウスです。
住宅、サウナ小屋、倉庫、風車の4種類があります。現在製作されていませんから、ありましたでしょうか。フィンランドには、住宅メーカーで 同名のJukka-taloという商標の会社が存在しますが、これとは関係ありません。
我が家の棚に今も並んでいるのは以前、子供が小さい時、フィンランド出張の時、年に何度も出かけるので、毎回何を買おうかと迷って、探し当てお土産に買ってきたものだと思います。
素朴な木製玩具が色々あって、私のImatra(イマトラ市)の友人は、長男が汽車を好きなのを知っていて、プレゼントにいただいた列車などがあります。結構大きなものですが、機関車、客車、貨物の3両からなっていてカラーですが、木独特の素朴さを漂わせています。
フィンランドは、そもそも木材の使い方が、上手ですが、子どものおもちゃにもその優しさが伝わってきます。今、子供たちのおもちゃというか遊具は、ゲームだったり、自然との関わりから遠く離れた世界に移っていますが、これは、多分フィンランドにおいても同じだと思いますが、木の感触、素材に触れる生活を子どもの時から味わってほしものです。
2021-12 クリスマスプレート
イアーズプレートというと、一般的にロイヤルコペンハーゲンの100年を超える歴史を持つ深い青色のプレートが有名だと思いますが、アラビアのイアーズプレート、特に私はRaija Uosikkienのクリスマスプレートが好きで、1989年までの12枚のシリーズに何気なく興味を持ちました。古い街並みのデザインと色が気に入って、私は1987年から買い始めたのですが、わずか3年で、このシリーズは終わってしまいました。クリスマスが近づき、意気揚々とエスプラナーデのアラビアのショップへ出かけたのですが、作風がガラリと変わって、現在のフィンランドの田舎の風景になりました。小さなもみの木の横に斧を持って子供を待つお父さんは、一瞬ドキッとしました。キューブリック監督の映画シャイニングの世界ではないかと思いました。フィンランドの田舎の家庭では、随分前は、近くの林からクリスマスツリーに似合う、もみの小木を切って室内にセットしました。車の屋根に乗せて運んでくる人もいました。もちろん、そんな田舎ではなかったり、手に入らない人のために当然のように、シーズンは、朝市等でも売られていました。
現在、フィンランドのクリスマスがどのようになっているか、コロナのせいで3年ほど行っていませんので分かりませんが、昔は、地方行きの列車が夜には止まってしまうぐらいでしたから、ヘルシンキの町はみんな地方へ帰って閑散たるものでした。田舎に知り合いがいなければ、観光客でさえ寂しい季節だったと思います。
クリスマスプレートですが、新しいToveSlotte-Elevantのデザインのものを8年ほど買いましたが、飾るところが無くなったのか、またデザインが変わったのかよく覚えていませんが、いつの間にかやめました。私は本業が設計事務所ですので、私の設計させていただいたお宅には、必ず完成年のアラビアのクリスマスプレートあるいは、フインランドの叙事詩kalevaraのイアーズプレートをお届けしていました。みなさん、自宅をお建てになるときは、もちろん真剣ですが、時間が経つと、何年に建てたか、結構記憶が曖昧になって来ます。それと建築年を確認していただくことで、メンテナンスの必要な時期を、再確認していただけます。大金をかけた、マイホームですから、北欧の人々のように我が家に愛着を持って生活していただきたいものです。私の、ニセコのコテージにも、もちろん1991年のクリスマスプレートがログの壁にかかっています
現在、北欧は暗い、寒いよくない季節ですが、クリスナスシーズン到来で、街にはイルミネーションが輝き、クリスマスセールで、人々の表情は明るさを増すと思います。コロナが季節とともに去りゆくことを願って、1日も早くフィンランドの地を踏めることを祈ります。
2021−11アアリッカaarikka
以前は、フィンランドを訪れるたびに、ヘルシンキのエスペラナーディのアアリッカの店へ必ずと言って良いほど顔を出しました。お土産には、スペースを取らない小物も多く、決つして安いとは言い難いのですが、木の温もりを持ったセンスの良さを感じていました。昔はよく木のイヤリングを買いました。フィンランドでは、ピアスが普通でしたが、日本ではまだ多数派ではなかった時代、ピアスでないものを選んで買っていました。デザインが奇抜で、お土産にプレゼントすると、みんなに結構喜ばれました。アアリッカは、木の素材を生かして、動物、鳥も多くデザインされています。今もあるかどうかわかりませんが豚の貯金箱はユーモラスです。トナカイ、鶴、カラス、小鳥のデザインは、置物だけでなくナプキン立て等数多くあります。最も有名な動物は、体が木玉で覆われた羊でしょうか。色々なサイズ、木目、白、黒とカラーも選べます。小さいものでも結構高額です。
以前、ゴルフ場関連の仕事をしていまして、そのゴルフ施設のコンセプトがフィンランドでしたので、多い時には、年に10回フィンランドへ出張していました。オーナーが、ゴルフ場の竣工祝いに、工事功労者にフィンランドのものをプレゼントしたいということになり、アアリッカの一番大きな羊を送ろうと提案されました。アアリッカの店舗にさえ一台置いているかいないかの数でしたので、ヘルシンキでショップを経営する友人に頼んで直接アアリッカと交渉してもらいました。さすがに、アアリッカもあの大きさの35個という単位の注文は、初めてだったそうです。友人の努力のおかげで無事、日本に到着しまして、みなさまへお渡しすることができました。オーナーから、私へも大きな羊のプレゼントをいただき、今でもニセコのコテージに、場所を取りすぎるので、設置箇所に悩み最終的に冷蔵庫の上に、黒い大きな羊が飾られています。自分で会社を始めて、40年近く経ちますと、何げなく買ったアアリッカの品々が、我が家にも溢れていることに気がつきました。
新聞の記事にフィンエアーの千歳―ヘルシンキ便が、3月末、夏期スケジュールから再開というニュースが載っていました。フィンエアーのホームページでは、4月便からになっていましたが、いずれにしても少し明るい方向になって来ました。フィンランドと関わって、一年どころか、こんなに長い間訪れなかったことはありません。少し、浦島太郎の気分です。
2021-10 Iittala kylä Iittala-(ガラス)村
今回のイイッタラ村は、Hämeenlinnaの北にあるイイッタラの工場のことではありません。1987年から始まったガラスの塊で作られた家々の村のことです。最初手に取って面白いと思いながらも、重さ(600g以上あります)と価格の高さに最初は躊躇したのですが、年に一度の買い物ならよいかと思い、1991年まで毎年買い続けました。毎年限定3000個とのナンバーリングが打たれています。ちなみに私のは、若い番号で1987年の283番、1991年ので2121番です。その後、なんで買い続けなかったのか、終わってしまったのか記憶は定かではありませんので、結果はどうなったか知りません。ただ、我が家の食器棚には、地震の被害に遭わず整然と並んでいます。
Iittalaのグラスは、世界的に有名な工業デザイナーTapio Wirkkala、Timo Salpanevaが黄金期を築き、あまりにも有名ですが、1970〜80年台に活躍したJorma VennolaもIittalaのグラスを語るには欠かせない存在です。グラスではないガラスの家は、彼の作品です。
グラスでは、多角形のKuusi(樅)が有名です。フィンランドは、森林王国ですが、樹種はパイン(欧州あか松)の次に樅が建築材料に多く使われています。クリスマスに朝市で売られているツリーは、このkuusiです。このkuusiのシリーズは、6本のもみの木が並んでいます。ちなみにフィンランド語の数字6もクーシです。キャンドルスタンドも色々な大きさのものも作品として残されています。もちろん現在は、作られていませんが、グラスが多角形という性格上、角にひびが入ることがあります。致命的なダメージではありませんので、私は使い続けています。
Jormaは、コンビネーションに優れた人で、グラスの取っ手に取り外し可能な金属を使ったコーヒーグラスもデザインしています。私は、同じデザインの大きなピッチャーに果物、ワインを入れパンチを作り、ピッチャーの周りにこのグラスを何個も掛けて各々のグラスとしてパーティーを楽しんだりしました。またグラス部分をを取り替えてビールからワインまで楽しめる色違いのプラスチックの台など素晴らしいアイデアの持ち主でした。
私が、今でもニセコのコテージで使っているエッグスタンドは、ヒヨコのデザインです。これにゆで卵を乗せると、それだけで楽しくなります。北欧を旅した時、ホテルでは必ず茹で時間の異なる、ゆで卵がエッグスタンドと共にセットされています。昔、スプーンを使って器用に上の部分だけをカットしてスプーンで卵を食べる北欧の人々のスタイルに感心したことを覚えています。このヒヨコのエッグスタンドは、そんな懐かしい思い出さえも、朝食の時に蘇らせてくれてもいます。