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2006年10月4日 水曜日 フィンランドの住宅 1
フィンランド人ほど自分で住宅を建てることを普通と考えている人々は、いないのではないだろうか。しかもその住宅のレベルは素人の域ではない。ヘルシンキ等、都市部は別としても、地方の住宅地のおおよその面積は800-1000m2、土地代は、日本なら山林を買うレベルの金額と考えていただきたい。自分で建てるという事は、建設費を大幅に圧縮出来るから当然設備など住宅の質は良くなる。 最近、日本でも住宅部材のきめ細かな販売が増えてきているが、フィンランドは昔から当たり前のように専門店が全国各地に展開されている。電気配線のように専門職でなければ許可されない設備もあるが、ほとんど自分での施工が許されている。日本の確認申請に当たる図面等は、建築士に依頼するのが、一般的である。日本のように確認申請のための図面ではなく、施工図を兼用しているようなきめ細やかな図面で、自分の家を建てようとしているプロでない人間にも理解しやすいように書かれている。施工に当たっては、もちろん、作業を細分化する事は可能で、基礎を専門家に頼むとか、壁を外注、屋根のトラスをメーカーにオーダーするとか、自分の力量にあった作業が可能である。機械をリースしてきて全て、自分で仕上げる人も、決して少数派ではない。 私は、フィンランドを訪れるとき、しばしば建築中の家を見つけると、現場へお邪魔して話を聞かせてもらうのだが、とても素人と会話しているとは思えない知識を持っているので、つい職人と話をしている錯覚に陥るくらい、みんなよく勉強している。叉、そのための書籍も豊富で、技術指導もしっかりしている。ただ、住宅を建てようと思った家族は、祝祭日、週末と、一カ月の夏休み、勤めを終えた毎夜を全て、費やす事になる。
2006年9月4日 月曜日 ヘルシンキ中央郵便局
ヘルシンキ中央駅近くに建つヘルシンキ中央郵便局は、駅の完成より30年ほど遅い1935年の冬に着工、1938年6月竣工。ヨルマ・ヤルビ、エリックリンドースの設計による建物。駅の扉が重厚な木製に対してフレームがスチールのガラス扉、石の重厚建築からスチール、ガラスの近代モダン建築の始まりだろうか。共に大きな扉は、体当たりしないと開かないのではと思うほどだ。現在はどちらも人を関知すると自動的に開くようになっている。重い二重の扉を抜けると大きなホール、銀行のようなカウンターが奥まで続いていて、手紙、小包等に番号で別れている。案内カウンターで、何番がよいか教えてもらえる。切手は切手専用のブースがあってそこで買う。30年前は、そんな時間の動きの、のどかな時代だった。数字の難しいフィンランド語の勉強に幾種類もの切手を買って実践した学生時代を、思い出しながら。現在、ホールはそのまま郵便博物館になっている、ホールを抜け階下に下りると、現在の郵便局がある。再開発された駅周辺とここがフラットになっている。決して有効な活用とは言い難いが、歴史を刻む証が、市中に充分に存在する事は、住む人はもちろん、再度訪れた人々に対しても違和感のない安らぎをあたえてくれる。独立100年を経ない小国が、通信、教育で世界のトップとなる一面のような気がする。 中身はどうであれ、一つ覚えの郵政民営化、仕事は全て中途半端で、大統領気取りで外遊三昧、7日からフィンランドを訪れる小泉首相あなたにこの国の素晴らしさをみて欲しい。全く期待はしていないけれど。
2006年8月4日 金曜日 コラム再開 フィンランド
フィンランドと関わって35年、私の過ごした学生時代は、もちろん飛行機の直行便なぞなく、横浜港から船に乗ってナホトカへ、当時のソ連邦をシベリア鉄道に揺られてヘルシンキ駅への長旅。フィンランドという国自体一部の専門分野の人を除いて、あまり日本人には興味を持たれる存在ではなかった。現在、携帯電話のノキアはもちろんの事、教育分野では、世界のトップクラスの学力で注目を集めている。 そんな中で映画の「カモメ食堂」が、年齢層を問わず人気を博している。東京で評判という新聞の記事、でもどうせマイナーな映画だろうからすぐ終わってしまうだろうと、札幌で上映が決まると5月中旬すぐ女房と観に行った。若い人が多いのにまず驚いた。個性派ぞろいの俳優、のどかな風景、思いやりのある人間関係、古き良き時代のフィンランドが映っている。 もちろん、現在でも田舎へ旅すると期待は裏切られないと思う。若い人達を意識してか、町外れの食堂にしては、ブランドの食器等おかしいけれど解りやすい。これも新聞の記事だが、俳優達が撮影を終えて、フィンランドびいきになったというから、年齢層を超えてフィンランドは受けているのかもしれない。少し意地悪な見方をすると、やはり今の日本は、病んでいるのだろうか。テンポの速い歌が続くと時代遅れのようなスローテンポの曲が流行ったりするので、世の中は単純なのかもしれないけれど。最近はスローライフが、さかんに取り上げられている。まさに、この映画はスローライフそのものである。各分野で世界の先端を行っているフィンランドがスローライフの国なのだろうか。ヨーロッパの北の果て、国民性は、そもそも素朴で決して都会的ではない。私は、35年を振り返って、長らく仕事を通して関わってきた国、今さらながらまじめな国民性に感嘆している。北海道に住んで、この大地を彼らのように生きたい。そんなフィンランドに対する気持ちをまた綴っていこうと思う。
2006年2月4日 土曜日 朝市 マーケット広場
寒波で厳しい寒さにみまわれたフィンランド。現在は、平年並の気温にもどっているようだ。2月も下旬になると太陽の明るさを感じ取れるようになる。明るさに加えて、日差しの温かさもようやく体に伝わってくる。冬場の太陽は、僅かの日照時間に加えて、ぼんやりと光っているだけで温もりを享受できないのでたまったものではない。 南港そばのヘルシンキで一番大きなマーケット広場も、この季節になるとだんだん活気を帯びてくる。依然港は氷に覆われていて、大型船舶以外の航行は不可能なので、小舟による魚のマーケットはもう少し先になる。鮮やかな春色の果物も、テントを取り払ってエスプラナーデ通りに溶け込む花市を見るのも、もう少しお預けだ。私の学生時代は、新鮮なものを求めてよく買い物に行ったけれど、市内いたる所にスーパーマーケットがある現在も、かわらずにぎわいを見せている。もちろん観光客の姿も目立つのだけれど、ヨーロッパの他の都市同様、町で確固たる地位を築いているように思われる。都市化が進む現象はどこの国でも同じなのだか、都市としての歴史の違いなのだろうか。 太陽が出始めると、散歩好きのフィンランドの人々は、こぞって外にでる。冬の便利なこともある。湖の多いこの国は、湖岸を大きく回って目的地に行かなければならなが、氷が近道を作ってくれる。対岸を最短距離で渡ることが出来るのだ。人だけではない。車道も誕生する。JÄÄTIEの看板 まさに氷の道だ。
2006年1月4日 水曜日 砕氷船
今年のフィンランドは、どちらかというと暖冬の穏やかな新年でしたが、今寒波が訪れている。北極圏ではマイナス30度、ヘルシンキでもマイナス20度近くまで冷え込んでいる。当然海は凍りつく。ヘルシンキ、ストックホルムを毎夕出発する大型フェリーも氷を砕きながら進路を確保している。当然砕氷能力を持っているが、本格的な海の結氷となると砕氷船のお出ましだ。夏と変わらぬ輸出入の経済活動を維持するために、航路の確保は、国の重要な任務である。造船大国フィンランドは、原子力砕氷船を除く、通常型砕氷船のシェアーはもちろん世界で一番である。 随分前に退いた砕氷船SAMPO(3450T)は、北のケミ市で、観光砕氷船として極寒の氷海を体験できる。網走の流氷観光船のレベルではない。今、サハリンの石油、ガス採掘が、さかんに行われているが、ここで活躍しているロシアの砕氷船も当然フィンランドの造船所で進水している。未だ現役のURHO(戦後の大統領の名前、SISU(フィンランド魂)砕氷船の名前が重要性を物語っているように思える。現在は、新鋭艦OTSO級の2隻が、主流になってきているが、船体の色はフィンランド国旗の白とブルー、船首にはフィンランドの紋章が、描かれている。夏は、海軍の管理下に係留されているだけだが、冬は活躍の場を北海にまで広げる。 少し飛躍かもしれないが、原子力航空母艦で世界の海を威圧して経済活動を有利にする国より、自然環境を技術で克服して経済活動を行なうこの国を、私は、ずうっとまっとうだと思う。
2005年12月4日 日曜日 サンタ村より最新情報
サンタ村のある北極圏入り口ではクリスマスのツーリストで大賑わいの季節を迎えています。<br>イギリス、フランス、イタリア、スペインなどからの直行便が続々と到着し空港、市内ホテルは一杯の状態です。家族連れのこうしたヨーロッパからのチャーター便はクリスマスシーズンの今年は200便前後が予定されておりその半数は既に到着しています。今週から来週にかけてがそのピークとなり、トナカイそり、ハスキーそり、スノーモービルのツアーも24時間体制の状況のようです。<br><br>さて、サンタ村ではやはり人気の的はサンタさん。サンタと一緒に写真を撮ったり、お話したり、1時間以上の待ち時間もみなさんじっとがまんしてサンタに会えるその瞬間をとても楽しまれているようです。<br>特筆すべきは、大人のサンタさんに対する反応です。日本人の方々は本当にサンタさんに会うのを子供さん以上に楽しみにされているようです。割としらっとしているヨーロッパの大人の人達より本当にその場のその瞬間を大切にかつ楽しまれているという印象があります。これはすばらしいことでは無いでしょうか。 今現在、サンタ村の中庭では日本のデパートのアレンジによる子供たちから送られたオーナメント2000枚が5mサイズの2本のツリーに飾り付けされています。日本の子供たちの夢や希望がたくさん書かれたオーナメント、本当に平和なクリスマスであってほしいと願わずにいられません。<br>このところ晴れている夜はほぼオーロラも見えています。ただお天気次第というのがつらいところですね。<br>今日の気温はマイナス15度。本格的な冬になりました。が、1週間後の冬至を過ぎるとまたぐんぐんと日が長くなりあっという間にまぶしい春の日差しになります。それまでのしばらくは薄紫色に染まる街に美しく飾り付けされたツリーやデコレーションを楽しみながらクリスマスシーズンを心穏やかに過ごしたいものです。 寄稿 kyoko.saito-simola@pp.inet.fi<br>日本人観光客のためのヘルプデスク
2005年11月4日 金曜日 ヘルシンキ現代美術館KIASMA
ヘルシンキ中央駅よりほんの2,3分、中央郵便局の隣に建設された現代美術館。マンネルヘイム通りの対面には国会議事堂。美術館入口近くには、フィンランド独立の父 マンネルヘイム将軍の像が建っている。ここは、彼、専用の敷地なのかと思っていたので、ここに建てた発想が何となくおもしろい。美術館の外部は、亜鉛鋼板、銅版、ガラスから構成されている。背面は屋根とも壁ともつかない亜鉛板で覆われている。隣には総ガラス貼りのヘルシンギンサノマット(新聞社)の本社ビルが対照的に建っている。 この美術館ももちろん1993年の国際コンペで設計がなされ、最終5案には、オーストリア2組、米国、日本、ポルトガルが残り、米国のSteven Hollが勝ち取った。彼のこのときのエントリーの名前がChiasmaこの名がそのまま使われている。1996年から建築工事が始まり、98年の6月にオープンしている。実にスムーズなスケジュールで事が進んでいる。日本では普通かもしれないが、私が学生生活を過ごしていた時代の流れとは明らかに異なり、この国も忙しくなってしまっている。延べ床面積12,000M2展示スペース9,200M2なるこの美術館、私はまだ一度も入ったことがない。地方での仕事が多いせいもあり、ヘルシンキでは、いつも時間の余裕がなく、この横を通り過ぎるばかりなのだが、歩きながら思うのは、この奇妙な建物、周りの古い建築物とガラス張りの新しいビルの緩衝帯となって、違和感を吸収しているだけでなく、何とも言えない存在感さえ示している。次回はぜひ中に入って見ようと思う。
2005年10月4日 火曜日 ヘルシンキ国立博物館
ヘルシンキ市内中心部のマンネルヘイム通りに建つ国立博物館、国会のすぐ近く、アールトのコンサトホール、フィンランディアタロと、通りを隔てている。アールトの建物は、ドアの独特な曲線の把手で彼の設計とすぐ解る。気をつけてみると市内あちこちに点在している。時代はずっとさかのぼるけれど、国立博物館の設計者も同様に市内に随分と建物が存在している。ゲセリウス、リンドグレン、サーリネンの三人である。博物館自体の構想は、1880年に始まり、設計コンペが1902年から04年に行われ、審査員はスェーデン、デンマークの建築家だった。 当時フィンランドはまだ独立国家ではなく、帝政ロシアの支配下ではあったけれど自治権を持っていた。着工は、1905年、建物自体の完成は、1910年、たまたま書店で、当時の写真を見つけたので興味深く見てみると、工事中の岩盤の掘削、塔にかかる足場等かなり大掛かりな現場であったと思われるが、どこかのどかでもあった。建物の完成後、内部の展示を完了しての博物館としてのオープンは、1916年、独立の1年前というのは、大変興味深い。フィンランド国民の強い独立心を博物館の存在も寄与したとしたら、設計者には、この上ない名誉なことであると思わずにはいられない。 ネオクラシックの外観、教会を思わせる高い尖塔、石段を上がると木製の扉、小さなエントランス、初めての人はきっと国立博物館とは思わないだろう。天井のフレスコ画は、アクセル、ガッレン、カッレラによるカレヴァラ(フィンランドの叙事詩)から題材をとったものが描かれている。ヨーロッパの確固たる博物館を見て来られた方には、少々面白みに欠けるかもしれないが、フィンランド北部、ラップランド地方に住むサーメの人々を初めとする、北方少数民族のコーナーに、足を止めていただくか、博物館が、国威の誇示であるような時代に、独立もしていないのに博物館を造ったという国民性を改めて感じていただきたい。
2005年9月4日 日曜日 ヘルシンキセンター再開発
ヘルシンキ駅より徒歩で5分ほどの中心部、近郊、長距離バスターミナル一帯の再開発が進んでいる。北欧では最大級の再開発だそうだ。携帯電話で世界のトップシェアーを続けるこの国は、ヘルシンキいたる所で新しいビルが建っている。特に中心部のKAMPPIの再開発は目をみはる。一帯を占有していたバスが全て姿を消して、地下2階、3階に移った。地下一階は、ショッピングモール、しゃれたレストラン、店舗がガラスの壁で仕切られている。つい数年前迄は、FORMが若者の新しいショッピングビルだったのに、これが今、何やらやぼったくみえてくるから時の流れは恐ろしいものだ。さらにバス乗り場の下、モスクワほどではないが、急勾配のエスカレーターで降りてゆくと地下鉄の駅へと続く。夏でもひんやりと感じる岩盤の中、下り切ったエスカレーターの両サイドには分厚い扉が収納されている。もちろん非常事態のシェルターである。 前にも書いたが、公共施設、一定数以上を雇用する会社にもシェルターもしくは、避難施設が今でも義務づけられている。非常事態の対処とは、机上の空論ではなく、日々の可能な準備の積み重ねではないだろうか。再び地上へでると、まさに建築ラッシュ、ホテル、マンション、事務所ビルと、一定の素材を基調にして、整然と並んでいる。廻りの建物と際立っていないところが、ほっとする。再開発なら一掃されるであろう旧バスターミナルが、化粧直しされて残っているのがおもしろい。さらに手前の、マンネルヘイム通りの1935年レヴェル等の設計によるガラスパレス(ヘルシンキに最初に建てられた機能主義建築といわれている)が、何事も無かったかのように一等地を確保している。どんな論議がなされたのか、私は知らない。何でも残すのが、文化とは思わない。しかし、何十年ぶりかで再びヘルシンキを訪れた人々を、この町は失望させない頑固さも持っていると、感心させられる。
2005年8月4日 木曜日 ヘルシンキ西港
8月のヘルシンキ世界陸上のマラソンコース、スタート地点から海岸線を走り周回コースに入るあたりが、ここ、ヘルシンキ西港。フィンランド最大の造船所がある。ヘルシンキ、ストックホルムを結ぶ7万トンクラスのカーフェリーから、十数万トンの豪華客船が進水式を終えて世界の海へと旅立っている。 フィンランドは、砕氷船、大型フェリ、豪華客船で世界有数の造船国である。昔は、工場が建ち並ぶ決して明るい雰囲気の地域とは言えなかったが、地下鉄の終点RUOHOLAHTI(ルオホラハティ)駅が出来てから、再開発が進み景色が一変した。 3年前、ブリュッセルから列車でアムステルダムへ入ったとき、車窓から見る建物の斬新さに目を疑った事を思い出す。オランダのファサードは、こんなに素晴らしかったかなと。今、この西港地区はそれに似ている。かつてのくすんだ川は、運河となって住宅群を横切る。さらに、それをつなぐ軽快な橋のたもとには、カフェ、落ち着いたレストランまで建っている。世界最高級のヨットの生産国は、河辺、海辺を生活に取り込むことに戸惑いは無い。ヨットハーバー等お手の物だ。ログハウスのセカンドハウス、ヨットで海辺への散歩、自然と親しむ事が生活の一部となっている国民は、それぞれの所得に見合った生活を知っている。見えを張って必要以上の大きさは求めない。自分に似合った生きかたをする。 何年か前に、ここの入り江の一角に潜水艦が係留してあった。借り物なのかどうか、良く覚えていないが、冷戦時代のソ連の攻撃型通常潜水艦。説明書も見ないで中に入った私は、第2次世界大戦の時の潜水艦と思ってしまった。あまりにも非人間的空間なのだ。きっと原子力潜水艦も乗員の安全など置き去りにされていたに違いない。冷戦が終わって旧ソ連の展示が出来るのだから皮肉なものだが、さすがに、この地に似合わなかったのか、いつの間にか、厳つい黒い金属の塊は消えていた。