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2008年2月4日 月曜日 ミュールマキ教会
ヘルシンキ中央駅から、近郊電車ラインMに乗って30分ほど、8番目の駅LOUHELAで下車。ホームから階段を降りて外へ出ると駅のすぐそばの線路沿いに教会は建っていた。ヘルシンキ市の北隣に位置し、ヘルシンキ国際空港のある人口18万人のバンター市、ミュールマキ地区を教区とする教会として、JuhaLeiviskä(ユハ・レイヴィスカ)の設計によって1984年に完成した。地元では、灯の教会と呼ばれている。 淡い色のレンガと白の板張りのきゃしゃな感じを受ける外観とは対照的に、中へ入ってみると、白で統一された、想像とは別の空間に驚かされた。高い天井から吊り下がっている数多くの照明、祭壇正面の実に簡素なタペストリー、外観の細く入り組んだ窓等が、間接光となって、この空間を引き立てていたのだと、ようやく理解する事が出来た。集成材の長イスは、白く塗装され、壁の板張りは、製材したままの板に白い塗装。アールトが好んだレンガを白く塗装したように、フィンランド人は実に白を好む人々だと思う。 予約して訪れた訳でもないのに、朝から気持ちよく応対してくれる職員、使われていないホールを、解錠してくれ、照明を全て灯してくれて、自由に写真撮影をさせてくれる温かさ。これは、官公庁の建物と地域のコミュニティーの建物の違いだろうか。フィンランドでも官の建物は、予約を入れても必ずしも許可は出ない。 外では、地区のお年寄り達のノルディックウォークの集合場所となっているのか、ストックを持った人々が集まり始めてきた。まるで、日本の町内会の地区センターとでも表現したほうが理解を得やすいのかもしれない。決定的な違いは、年寄りばかりが集まる場所ではない事、ルーテルの教区のつながりは、地域に密着しているという事だろうか。 多宗教なのか、あいまいなのか日本人には、少々難しいコミュニティーかもしれない。
2007年12月9日 日曜日 独立記念日
12月6日はフィンランドの独立記念日。今年は90年を迎えます。1917年11月帝政ロシアが、ロシア革命によって滅びた機に乗じての独立。マンネルヘイム将軍率いる白軍は、バーサより共産化を目指す赤軍との戦いを制し、ヘルシンキへ入り独立を勝ち取ります。独立の父として歴史から退くはずだった彼は、1939年スターリンの横暴なフィンランドへの7ヶ所からの国境侵略、いわゆる冬戦争によってふたたび歴史の最前線へ舞い戻る事になるのです。果敢に戦うも小国は不条理な停戦へ、やがてヨーロッパ全土を巻き込む第二次世界大戦の渦の中、今度はドイツと組んでソ連を攻める事になる継承戦争で敗戦国となるのです。 過酷な戦後賠償を1951年におえて翌年ヘルシンキオリンピックを、みごとに成功裏に納め、世界にフィンランドの存在を再度認めてもらいます。フィンランド東部の工業地帯と北部を、ソ連邦に割譲されながらも戦後は、一貫した平和外交を貫いています。 大国に頼れなかった、助けてもらえなかった歴史を、身をもって体験しているがゆえ、自国の防衛意識は揺るぎません。徴兵制は堅持しています。義務付けられている核シェルター施設の整備、非常時の臨時滑走路、食料の備蓄等々。 しかし、小国一国で守り切れない事も承知しています。戦後、国連軍への参加を継続しています。国際協調外交路線を維持していますが、イラク戦争には、大統領自らいち早く反対を声明しています。 湾岸戦争時のボタンの掛け違い外交を、国際貢献を解釈する事なく、即答によるイラク戦争へ加担した日本とは、雲泥の差です。独立という歴史を持たず、侵略の経験を持つ国家は、傷みを感じることができないのかもしれません。何を守かさえ国民に提示出来ない政府が、安っぽく愛国心を口にしてほしくはないものです。窓辺に灯されるローソク(現在は、ローソクの形をした電球)で、照らされる6日の夜の町並み、静かにフィンランド国旗を先頭に行進する人々を観ながら、生まれ出ずる国に対して、感慨にふけるのは、私だけでしょうか。
2007年11月9日 金曜日 ストックマンデパート
フィンランドを旅行された方なら、ヘルシンキのストックマンデパートは、一度は訪れた事があると思います。フィンランドで一番大きな百貨店は、1930年完成の老舗。1916年の設計応募により、シーグルド・フロステルスの設計になるものが採用されました。当時流行の吹き抜けの空間を大胆に取り入れた建物です。6年の歳月を費やして完成しました。1980年代に隣接する建物を買い足して外観だけを残した大掛かりな増築を行なっています。 当時パリが、16区内の建物の外観の保全を義務づけていましたが、同様にストックマンデパートも莫大なお金と時間をかけて外壁が崩れないように補強しながら、工事を行なっていました。完成した内部は、対照的に現代的な仕様になっています。現在行われているのは、横に広げるのではなく上層階増築という叉、大掛かりな工事です。日本では信じられないことですが、吹き抜け空間に鉄骨の仮設の柱を建てて、その上にクレーンを設置し、それが屋根を突き抜けているのです。しかも平常営業しているのですからおもしろい光景です。一番の商業街アレキサンダー通りに面する正面入口左手には、昔から変わらず花屋さんがあって、入口から大きくせり出した屋根の下には、四角いストックマンのロゴ入の時計が回転しています。ヘルシンキの人々は、ここを待ち合わせの場所にしますから、付近はいつも人でいっぱいです。 私も遠い昔、学生時代はここで友達とよく会ったものです。最近もヘルシンキを訪れるときは、友人と古き良き時代を思い出して、時計の下でと連絡をします。きっと、今回の大規模な改修が終わっても外観は変わらず同じ表情を見せて、入口の時計も、人の出会いと、別れを静かに見ながら、さりげなく時を示してくれる事でしょう。
2007年9月9日 日曜日 住宅としてのログハウスの生活
8月上旬に、札幌近郊、江別市内にログハウスの住宅の注文をいただき無事竣工、引き渡しを終えた。幸い土地が広かったので隣地の離れ等、建築基準法をクリアーする事が出来て、ログに特別の処置を施す事なく、一般的な120x170断面の角ログハウスを建てた。フィンランドにおいても、多分15年以上前だったらログハウスは、セカンドハウス、サマーコテージと相場が決まっていた。ログハウスの技術の進歩と、断熱基準のログに対する歩み寄りで、一般的な住宅へのログハウス建設が可能になってから、急速にフィンランド国内でもログの住宅が増えていった。ヘルシンキのような都市圏は別として、地方都市においては、森と湖に囲まれたロケーションで、ログハウスは、自然と溶け込んで似合っている。住宅を自分たちで建ててしまうのが一般的なフィンランド人だから、ログハウスは、より簡単に施工出来る。日本でも、素人が住宅を建てる事は、至難の技だけれどログハウスなら、日曜大工の得意な人なら充分建築可能な工法である。 最も、夏休み4週間、土日を全て使って住宅を建てる事が可能な、環境にある彼らとは、ギャップが大きいのも事実あるが。自然に恵まれているフィンランド人が、ログハウスにこだわるのは、住環境へのこだわりもあると思う。素材そのものが、天然材である事、何よりも人間に、自然に優しく自国で生産されている材料であること。当然自然環境への配慮は、厳しく定められている。湖からの距離、汚水の完全回収等、建設するまでの許認可はかなり厳しいものをクリアーしなければならない。 北海道においては、ログハウスの住宅は正直容易ではない。建設可能な土地の確保が難しい。しかし、自宅は難しくとも、フィンランドと同じく豊な自然のある北海道は、車で1時間の距離で充分自然を満喫出来る土地を得る事が出来る。週末を過ごすコテージを、共同でも建てて、東京では出来ない生活を、北海道で楽しむことを、そろそろ考えようではないか。
2007年6月9日 土曜日 フィンランドの白夜
今年も、白夜の季節にフィンランドを訪れる機会を得た。2ヶ月前の気候とはうって変わって、真夏を思わせる太陽の日射の強さである。学校はすでに夏休みに入り、ヘルシンキから郊外へ向かう国道は、金曜日の夕方から渋滞気味で、車のスピードが目に見えて遅くなっている。フィンランドにしては珍しく快適なドライブが出来ない季節。日本のお盆同様、多くの人達が故郷へ向かう。 ヘルシンキ市内は、フィンランド人が少なくなった分、補充するように多くの外国人観光客でにぎわっている。大聖堂の前では、サンバカーニバル、石段も人で埋まっている。ヘルシンキ南港から出港しているスオメンリンナ島へのフェリーも長蛇の列。始まろうとしている短い夏を、みんな屋外で楽しんでいる。中心部の再開発地区カンピ(KAMPI)の広場では、StreetHockeyの競技場が設けられ、学生らしきグループの大会が行なわれていた。前日に準備され、大会の翌日、早朝には何事もなかったかのようにもとの広場に戻っていた。 欧米では、普通になっているサマータイムを、北海道、札幌では、実験を行なってきたが、実施となると規制等で問題が山積しているようだ。よさこいソーランは、確実に夏のイベントになったが、サマータイムを取り込んで、北海道の夏の生き方をアピールする機会ではないだろうか。 フィンランドの北部、ラップランド地方は、 ヨーロッパの好景気も手伝って、観光産業等への外資の積極的な投資が続いている。緯度は異なっているけれど、同じ北国、さわやかな夏、白い冬を生かさない手はないと思う。
2007年4月9日 月曜日 50歳のお祝い
先日、3泊4日でフィンランドへ行ってきた。金曜日の夕方からのスケジュールなので仕事の打ち合せには全くならない。私がフィンランドとの取引を始めた時からなので、最も長い付き合いをしている木製サッシ、システムキッチンの会社の社長の50歳の誕生日に出席するための旅だ。ヨーロッパでは、50歳の誕生日には、特別の大きなお祝いとなっている。日本の還暦のお祝いは、現在では長寿国になったので、薄れてしまっているが、60歳まで生きる事が出来たというような意味合いの祝いに対して、北欧では、人生の折り返し地点、さらに、ここからもう一頑張り、人生の総仕上げを目指すという意味での、みんなからの祝福を込めた誕生祝いのような気がする。 身内と親しい友人の集まりと聞いていたのに総勢135名、18テーブル。ヘルシンキからは、私を含めて11名のためのチャーターバスが、西へ150Km走ってロイマー市へ。地元ホテルを借り切ってのパーティー。招待状には、挨拶、贈り物不要という事で、主賓である本人の司会で、パーティーは楽しく進み、会社の設立者である、彼のお父さんと、私だけが紹介されただけで、後は食事と、ダンスのみの和やかな宴会。大きなバースディケーキの中かからは、歌手が出てきてハッピバースディを歌い、5人兄弟の長男である彼は、兄弟家族からの温かいコーラスのプレゼント。あっという間の5時間だった。 日本人は、もちろん私一人、彼の兄弟を含めて多くの顔見知りに会えた事も楽しかったが、病を押して出席していた、会社の設立者であり、私がフィンランドから輸入を始めたときの社長であったお父様と叉親しく、話をする事ができて、喜んでいただいて、それだけでも日本から飛んで来てよかったと思える一日だった。
2007年3月9日 金曜日 ノルディック王国北欧
2月22日から札幌で行われていたノルディックスキー世界大会。残念ながら、冬季オリンピックと並ぶ世界大会なのに、札幌ではあまり盛り上がらず、入場予定人数を大きくしたまわり、悔いを残す大会となってしまった。私は、ノルディック競技をしばしば北欧で見ているので、観客数と熱気の差にがく然としてしまう。ノルディックスキー人口の少なさ、底辺というか一般競技人口を増やす事なく強化選手の育成のみを行ない、大会のみを求めるアンバランス。巨額の出費を伴いながら、折角のチャンスを生かせなかったノルディック世界大会。しかし、収穫もあったと思う。11日間、競技場、交通機関案内等で、活躍されたボランティアの人々、動員かもしれないけれど、会場につめかけた小中学生。彼らには、きっと自分が参加した、自分たちが見つめた大会として心に残ったと思う。札幌ドームを開会式、競技に使ったという新しい発想も札幌大会を世界へアピールできたと思う。 距離競技会場の白旗山にテントを張って寝泊まりしていたノルウェーの応援団、いつも大きな国旗を持って世界を転戦しているフィンランドの応援団、年金生活をこのような形で楽しめる北欧の人々、国の豊さは、このような事にも現れるのではないだろうか。 我が、フィンランドは、1972年の冬季札幌オリンピックが、最悪の成績だったという雪辱をみごと果たした。実力はトップでありながら、世界大会で勝てなかった無冠の帝王マンニネンは、距離、複合で2つの涙の金メダル、女子も健闘して2つの金メダル、総合メダル数では、ノルウェーに劣ったけれど、金メダル数は、同数の4個、フィンランド人にとっては、札幌はすばらしい大会になったに違いない。札幌で競技が行なわれていながら、ヨーロッパでは実況中継がなされ、地元札幌は、実況無し、唯一の銅メダル、ジャンプ団体競技でさえ時間遅れの録画放映とは情けない。今回の大会を糧として冬を楽しむ生活を、若い世代はもっと北欧から学んで欲しい。
2007年2月9日 金曜日 ガラスパレス
ヘルシンキ中央駅近くのホテルバークナ、ソコスデパートの建物とマンネルヘイム大通りに対峙して建っている低層二階建ての建物。前にも中心部の再開発で触れた、この建物をもう少し紹介したい。1935年完成のこの建物は、3人の建築学科の学生の設計で、名前は、ヴィリヨ レヴェル(1910-1964)、ヘイモ リーヒマキ、ニロ コッコ。 国立博物館、中央駅の設計者、サーリネン達同様、学生時代から活躍していたのだからすごい時代だ。サーリネンが、古典主義的建築であったのに対して、このガラスパレスは、ヘルシンキに建てられた最初の機能主義建築と言われている。ヘルシンキ南港そばに建つ1952年完成のパレスホテル(ケイヨ ペタヤとの共同設計)も同様、コルビジェの影響を強く感じる。この時代、次々とすばらしい建築家が、この北欧の小さな国で生まれたものだと感心させられてしまう。北欧合理主義のデザインの原点は、この時代から芽生えていたのかもしれない。 このガラスパレスは私が、学生時代を過ごしていた30年前からでさえも、大きく変る事はなかった。もちろん入居している店はいくつも変わっているのだが、映画館、レストラン、喫茶店、書店、花屋と店構えは同じようなもので、建物の雰囲気が異なってしまうという変化は感じられない。フィンランドの景気のよさもあって中心部では、かなりの建築ラッシュで、次々と再開発が行われているが、このガラスパレスは、きっと建物の寿命が来るまで、生き続けるに違いない。 ヘルシンキを訪れた人は、少々古びたこの建物をきっと見ているに違いない。古いものだから残すのではなく、フィンランドの決して長いとは言えない歴史の中で、町と共に歩んできた年月を語るもの、低層であるがゆえにかもし出せる存在感、そんなことを考えながらこの通りを歩くとヘルシンキは、実にスケールが人間的な、都市という人工空間をあまり感じさせない町である。
2006年12月4日 月曜日 クリスマスのフィンランド
クリスマスを控えた週、18日に急遽フィンランドへ出張。ヘルシンキから北へ500kmのオウル市まで、国内線に乗り換え飛行場からレンタカーでオウル市内のホテルで一泊。ヘルシンキ空港でレンタカーの予約を済ませていたので、到着後キーを受け取り駐車場へ行くと、車内はすでに暖たたかい。北国ならではの担当者の心遣いが外気と対照的でありがたい。 翌日さらに北へ140Km、打ち合せのため車を走らせて行く。暖冬の影響で国道に雪はなく快適なドライブ、朝10時近くになってようやく日の出、この日はマイナス16度、内陸部にしては決して厳しい寒さではない。木々の白い輝きが、朝日の色と溶け合って美しい景色をかもしだしている。ついつい車を止めてシャッターを切りたくなる。この地での打ち合せを、無事に終えて同じ道を引き返す。午後1時半同じ景色の夕暮れが始まっていた。 ヘルシンキへ戻ると夜から朝にかけてみぞれ、町を白くするほどのものではなかった。クリスマスのイルミネーションが、いつもの景色とは違う。週末を控えどの店も買い物客でにぎわっている。フィンランド最大のデパート、ストックマンの恒例ウィンドゥのクリスマスデコレーションには、子供たちが集まっている。どうやら大規模な改修工事の最中で少々人の流れが悪くなっている。にぎやかな商店街を抜けて港へ歩いていくと、ヘルシンキ南港は、例年の氷に覆われた景色ではなく水面を見せていた。
2006年11月4日 土曜日 フィンランドの住宅 2
フィンランド人の住宅に対する考えかたがいかにしっかりしているか、まじめに取り組んでいるかを(自分の家なのだから当たり前といえばそうなのだが、)各段階で紹介したい。まずは、基礎工事の段階から順を追って説明していこうと思う。同じ寒冷地と言われる北海道は、基礎の深さを凍結深度で決める。札幌は60cmという具合に、しかし、寒波が来るとマイナス40度にも達するこの地では、凍結深度まで掘るという考え方ではなく、基礎の地盤を、水分の少ない山砂のような置き換え土にして、基礎外部に断熱材を張り巡らせる。もちろんさらに、スカートのように断熱材を外部に敷き込む。 でも、一番大事なのは水分を基礎廻りに侵入させない事。どこの建築中の家を見ても、外部四隅にプラスチックのマンホールが飛び出している。これは、各面の住宅外部の基礎下に、暗渠が張り巡らされていて、基礎廻りの水は、このマンホールへと導かれている。さらに、当たり前なのだが、雨水の処理。基礎廻りに雨水を侵入させる前に取り除く事が最善なのである。北海道では、冬の雪による破損から、あまり使われない雨樋が、北欧では必ず設置されている。肉厚のスチールに、メッキ処理されたフッ素樹脂コーティングの雨樋は、凍ったぐらいでは、壊れるよなしろものではない。雨樋からの雨水は、当然暗渠とは、別系統の排水管を通って、マンホールへとつながっている。雨水と、暗渠の水、この二つの系統の水が、例外なく確実に処理されているという事は、住宅建設に際して当然行なわなければならない事と記されているからである。もちろん公の機関からの指針である。 本来、北海道の住宅のあり方を示して欲しい機関が、スカート断熱をする事によって基礎を浅くできるという程度の、北欧視察の誤った発想は、未だ北海道は、北欧の住宅レベルに至っていない証なのだ。前にも書いたように、今更私は、北欧の人々の住宅に対するまじめな取り組みに感嘆させられている。